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ウクライナ国境近くの難民キャンプでボランティアして来た話④(最後)

こんばんは。

今回で、最後のボランティアの記事になります。7日間を通じて感じたことをできる限り言語化して行きます。

前回までの記事で、キャンプには本当に様々な人がいたことがわかっていただけたと思います。ウクライナから避難して来た人たちだけでなく、ボランティアをしてる人にも他の国からはるばるやって来た人達がいました。

まず、他の国から来た私たちをスロバキア人のボランティアの団体や、避難民の方々までもが「日本から来て、助けてくれていることが本当にありがたい」と感謝をしてくれたことが嬉しかったです。最初はどうなることかと思ったボランティアも彼らのおかげでやり遂げることができたと言っても過言ではありません。

それと同時に、その様々な人の中からあぶり出されるように、嫌な目を向けられてしまう人たちもいました。その人たちは、例えば前回の記事で挙げたようなロマの人たちです。確かに彼らは、大勢で移動し、物資や食料も他の人たちよりも比較的多く持って行くようなこともありました。

そんなことがあるという理由で、他の人の目にはよく映らないというのも理解できます。しかしながら、差別によって子供が学校に通えない事実や、安定した収入、定住先を得られないというようなディスアドバンテージを見落としてはいけません。少しでも多くの物資がないと、本当に暮らして行くこともままならない可能性があるからです。

戦時中は、自分たちが生活していくために必死であるからこそ、支援などの範囲から除外されてしまう人が今回のロマに限らず存在してしまうことが、難民問題全体を取り巻く問題であると考えられます。私は、まさにその現場を目撃してるような気分になりました。

最終日が終了すると、そのままMichalovceの駅に行ってブラティスラバに帰ることになりました。駅構内には、先ほどキャンプに来たロマの大家族がいました。子供達は走り回って遊んでいます。彼らはこれからどこに行くのだろうか。差別されることなく、安全に暮らせる場所に避難できることを静かに祈ることしかできませんでした。

Michakovceの駅にある看板

キャンプ場を離れる時、ここができるだけ早く、必要でなくならないといけないと考えると、少しだけ切ない気持ちにもなりました。このスロバキア東部での経験は、私の一生の宝物になると思います。そのようなボランティアの良かった部分だけでなく、問題に感じた部分もまた7日間通じて見て来ました。私もスロバキアにいるから、100%安全というわけではありません。自分の身は第一に行動しなければならないと改めて感じる日々を過ごしています。

4本立てと少し長くなりましたが、私のボランティア記事はこれにておしまいとさせていただきます。次回の記事もよろしくお願いいたします。

それでは今日はこの辺で。




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