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なぜライターにとってwell-beingが大切なのか? AIには書けない文章を考える【編集部コラム】

執筆:遠藤光太(parquet)

ひどい鬱のときに重大な決断をしない

私がひどい鬱だったとき、「今は脳がバグっているから重大な決断はしないでおこう」と決めていた。例えば「死ぬ」とか。

「バグっている」とはグラデーションだ。鬱でなくても、どこか調子が悪い、不機嫌、不安などがあると、日々の小さな判断を間違えてしまう。

私たちが文章を書くときには、無数に存在する「次の1文字」を選び取る判断を繰り返している。いわゆる「手癖」、経験、見聞きしたものから「次の1文字」の候補が浮かび上がってきて、選び取る。

つまり、文章を書くこととは、「次の1文字」について拡散と収束を連続させることだ。

体調が悪いと、拡散も収束も両方ともうまくいかない。「次の1文字」を考える上で、少ない候補しか出せないし、精度高く絞り込むことも難しい。3つの候補からなんとなく選んだ1文字と、300の候補から集中力を持って選んだ1文字は、豊かさが違う。豊かさは、文章の全体を通して立ち現れてくる。特に収束=判断には、人間の意志が大事だ。

AIには書けない文章とは?

ChatGPTを使えば、拡散の量を大幅に増やすことができる。「1文字」でも「一文」でも「一段落」でも応用して使える。これはライターにとって、大きなメリットである。たくさんの候補を出させて、人間の判断で選んでいけばいい。

ChatGPTと対話しながら原稿を書けば、文章をより深くて豊かにすることができる。

しかし、ChatGPTを通して大規模言語モデル(LLM)から導き出せる「次の1文字」には、限界もある。

例えば、ある人にインタビューしたとする。AIによる自動文字起こしには、「えー」「あの」「えっと」といったフィラーも含めた発言の全てが反映され、きれいに ・・・・要約することもできる。発言内容に関わる過去の情報なども、大規模言語モデルから即座に引き出すことができる。自分では考えもしなかった「1文字」が提案されることも多い。

だが、それでは足りないのである。「インタビューでこの話題になったとき、現場の空気が変わったんだよな。それはおそらく、インタビュー前にオフィスで見かけたあの貼り紙が関係しているんだろうな」などとAIが考えることはできない。これは単純な一例にすぎず、意識・無意識問わず、人間はいろいろなものを受け取り、つなげている。

ひとつの身体が時間と場所を連続的に移動し、脳と感覚器を使って世界を認識している。その人間でないと橋渡しできない“向こう側”は、必ずある。

ところで私は、車の運転中にpodcastを聞くのが趣味だ。また次に同じ道を通ったとき、その道で聞いていた内容の記憶が呼び起こされる。知識を物理空間にマッピングしてる感覚がおもしろい。物理空間だけでなく、時間も同じである。時間をかけて本を読むことの意味もこれと似ているだろう。「この曲を聞くとあの風景を思い出す」もある。

このように、人間の身体、脳、感覚器を用いて、ある体験をする。そのことによって、この自分がハブとなって、何かと何かの間でパスが通る。この感覚や閃きこそが、AIには書けないものの一部ではないか。

well-beingがなぜ大切なのか?

ライターは、生活の大部分を使って、文章を書く。1本書いたら終わりではなく、また次。文章を書き続ける。体力が要る仕事だ。

AIでも考えられる1文字の候補は、出せるだけ出させればいい。それらに対して、自分にしか橋渡しできない“向こう側”としての1文字を、たくさん加える。脳の仕組みはある程度わかっていても、個別の人間が脳内で何を考えているかはブラックボックス。集中し、全て思い出して、つなげて、AIと人間で考えた全ての候補から選び取った「1文字」を連鎖させて、原稿を仕上げていくのだ。

そう考えていくと、人間のライターが日常生活でやるべきことが見えてくる。

人とコミュニケーションを取ること。
コミュニケーションを取ることによってしか引き出されることのなかった言葉や動きを引き出すこと。
散歩をしながら、鳥を眺めてみること。
犬や猫と無心で遊ぶこと。
他者が無限の可能性から紡ぎ出した1文字の積み重ねである本を、読むこと。
旅をすること。
ご飯を味わって食べること。
好きだと思える暮らしの道具を使うこと。
日記を書くこと。

これらはほんの一例だが、まとめると、すなわちwell-beingである。well-beingな暮らしをしていることで、身体を通過したもの、つまり人間にしか書けないものを、文章に反映させやすくなる。だから、ライターにとってwell-beingが大切なのだ。

この話は「痛み」へと続いていく

『疲労社会』などの著書がある哲学者のビョンチョル・ハンは、「痛み」や「苦痛」を肯定する。加藤洋平著『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』では、ハンを参照し、このように書かれている。

そもそも、痛みや苦痛とは、主観性の産物です。言い換えれば、痛みや苦痛がなぜ生じているのかという根本的原因を通じて、私たちは自分が何者であるかを知ることができるのです。

確かに、well-beingではなく「痛み」から生まれる文章もあることを、私自身の経験からも理解できる。ひどい鬱だった頃、私は小説を書いていた。私はほかでもなく、それによって生き延びていた。命を懸けた文章を、well-beingな状態では書けない。かと言って、文章を書くために鬱になるわけにはいかない。

このジレンマについては、今後のnoteでさらに考えていきたいと思っている。


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