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掌編 燃やし屋の老人と出会った話

住宅地を歩いていると、目の前に自転車がきて、慌てて道を避けた。俯いて歩いていたので姿勢の状態が悪いぶん反応が遅れ、脚がもつれる。男性が乗ったマウンテンバイクは僕のすぐ脇を通り過ぎた。肝が冷えた。今ぶつかられたら、悪いのは不注意だった自分だが、法的な責任はおそらく自転車側が全面的に負う。それは、流石に申し訳ない。


どこかから、雀の声が聞こえてくる。名前がわからない鳥の声も混じっている。頭を上げ、家々の屋根や電線、白い雲が動いている空を眺めていたが、姿は見えない。鳥の鳴き声を判別するアプリを入れたのを思い出し、しばらくして、結構前に使わなかったからという理由で削除したことを思い出した。本当に自然に詳しくなりたかったら、田舎に行くべきだ。そうは思っても、口座の額が気になって、結局いつも腰が重くなる。

旅行に限らず、最近様々な人生のタスクに向き合うことを先延ばしにしたツケを払っていると時折感じる。支払いから逃げていると感じることもある。いい意味でも悪い意味でも、適当でいい加減な選択肢で自分の人生を作っているような・・・。

「あー、兄さん、そこの兄さん」

高いが、ややしわがれた声が背中に届き、僕は振り向いた。小柄のおじいさんと目があった。僕に声をかけたわけでもあるまいと思い、周囲を軽く見まわしたが、彼の視線はどう見ても僕と合っている。
「いやー、ちょうど良かった」
ちょうど良いって?と思ったが、その疑問が言葉として僕の口から出る前に、山鳩色の着物に身を包んだおじいさんは僕との距離を詰め、その微笑みから、乱杭歯が覗いていた。よく見ると、左の口角の上がり方が高く、皺の数も左が多い。右脳系の人なんだろうか。
彼は口を開き、喋り出した。
「浮かない顔をしてるね」
「え?」
「兄さん、すっかりしょげきっているじゃないか。さぞかし思い悩んでいるだろう?ということは燃やし屋にとっては優良顧客ということになるのう」
待って。ちょっと待って。初対面の人にかける言葉としては、色々と押し出しが強すぎる。少なくとも僕にとっては。
距離を取るべき相手なのかもしれない、と早くも警戒モードになり始めていた僕の前に突如、白くて四角いものが現われる。
B4くらいのサイズの紙だ。それをおじいさんは僕の前に掲げている。目の前にいたのに、どこから取り出したかさえ気づかないなんてことがあるのか。おじいさんは皺くちゃなスマイルを崩すことなく、口を開いた。
「燃やさね?」
「はい?」
急に口調のトーンが若返ると、困惑するんですが。
「悩みは、書き出して、燃やすのが一番じゃよ」
おじいさんは紙を持ってない側の手を懐に入れ、紅色に黒い斑がついた万年筆と白い下敷きを取り出し、平手に乗せ、僕に向けて差し出してきた。万年筆は如何にも高価そうで、いつもの僕なら触ることさえ気が引けていただろうが、なぜか気が付くと僕はそれを手に取り、紙に自分が抱えていた悩みを書き始めていた。人付き合い音痴の僕が初対面の人の提案に素直に乗るなんて、よほどのことだ。それだけ、老人の開けっぴろげな雰囲気に吞まれてるのかもしれないな、と自己心理分析をする頃には、紙は僕の字ですっかり埋まっていた。

僕は紙に書いたものを読み返した。改めて見ると、しょーもない悩みばかりだ。こんなにしょーもないことでよく紙を埋め尽くせるものだ、人間は。呆れと驚愕がほどほどにブレンドされた感情が湧いてきた。



老人は紙を受け取ると、一瞥もせずに素早く丁寧な所作で折り畳み、懐にしまった。
「読まないんですか?」
そう尋ねると、老人は眉を上げ、不思議そうに僕の顔を見上げた。
「なんで?儂は燃やし屋じゃ。仕事はあくまで燃やすことで、紙はあくまで薪に過ぎん。儂の同業者の中には薪をじっくり検分することが三度の飯より好きな輩もおるが、そこに立ち入るのは、本来、燃やし屋ではなくカウンセラーの領分だろうて」
僕はいくつか浮かんだ疑問から、ひとつだけ選んで、ぶつけてみた。
「さっきから貴方が仰っているその、燃やし屋というのはいったいなんなんですか?」
「あっ、そうじゃな。説明忘れてた。まあ、ざっくり言うと、一種の芸事じゃよ。ホレ」
老人は懐からさきほどの紙を取り出すと、それを宙に放り、と———急に空気が熱を帯びて、なんとさきほどの紙が黄色い炎に包まれた!
「うわあっ!!!」
「フワッハッハ!やはりいつ見ても一見さんの反応はええのう!!」
紙は一瞬で黒くなり、空中の炎が消えると共に、紙片さえ残らず完全に消失した。老人の哄笑が響く間にそれだけの変化が起きた。
「いっ今のはいったい・・・」
老人は私の目を除き、悪童染みた笑みを浮かべた。
「ご覧の通り、兄さんの悩みを燃やしたんじゃよ」
「どうやって燃やしたんです?ライターもマッチも使ってないように見えましたが」
「修行時代を過ぎると、道具に頼る必要はなくなってくる」
「修行?」
僕の知っている物理法則から大きく外れた現象を、どう解釈すればいいかわからず、口からは言葉の鸚鵡返ししか出てこない。
「修行というのはじゃな・・・つまるところスポンティニアスコンバッション的な・・・」
老人はそこで右手で口を抑え、眉根をひそめた。
「いや、いかん。そこは企業秘密じゃった!フゥー、また、社長に怒られてしまうところだったわい!!詳しく知りたかったらハローワークでたまに出る求人を探すことじゃな。それじゃ、また」
「ええ、また」
つい彼と同じように右手を挙げ、まるで馴染みの友人に対するような挨拶を返すと、老人は僕の右を通り過ぎ、振り返ると、通りを曲がって姿が見えなくなった。と、曲がり角からスピードが早い自転車が出てくる。僕は深呼吸して脇に移動し、再び家路を歩み始めた。交通事故や事件のリスクは無職でも有職でも大して変わらない。ハローワークに行きたいなら、ひとまず、今やるべきことは、無事に家に帰りつくことだ。僕が悩みに埋没することで忘れていたのはそういう当たり前のことで、燃やしたことでようやく思い出してきた。そんな気がして、僕は心の中で老人に向けてひそかに手を合わせた。



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