見出し画像

オープンマインド・ヒューマンネットワーク論 その11【最終回】

執筆:ラボラトリオ研究員 杉山 彰

<いのち>と<いのち>のコミュニケーション
 <いのち>は輝くものである。
生まれたばかりの赤ちゃんの才能や能力を疑う人間はいない。

オギャーと産声を上げて、この世の中に生まれてきたばかりの赤ちゃんを見て、この赤ちゃんは頭いいとか悪いとか、はたまた美人だとか美男子とかを決めつけられる人間がいるだろうか。とくに赤ちゃんをこの世に創り出した両親にいたっては、その100%が間違いなく、ウチの子は頭が良くて、かわいくて、みんなから可愛がられて愛される子であって欲しいと願うに違いない。

この瞬間、ほとんどの親は、親としての自分たちが置かれている今の現状、または置かれてきた過去の事実をすっかり忘れ、ただ、今の今に生きている。この時点においては、まさに、ほんの小さな<いのち>として、この世で始めての産声を上げたばかりの赤ちゃんは、見事に輝いているのである。輝かされているといってもいい。

問題はここから始まるのである。正確に言うならば、赤ちゃんが退院して、産院の側の看護婦さんたちから両親の側に手渡された瞬間から問題が始まるのである。今まで病院の世界にいた赤ちゃんが、両親たちの世界に置かれるようになった瞬間。赤ちゃんの親たちは親としての自分たちが置かれている今の現状、または置かれてきた過去の事実を、すっかり忘れていたことに気づくのである。簡単に言うなら、現実に引き戻されるといってもいい。赤ちゃんの存在が、現実の毎日の、大変なことになるのである。そして、赤ちゃんが生きている世界の時間と、両親たちが生きている世界の時間の違いに苛立ち始めるのである。赤ちゃんがオギャーと泣いた瞬間に。

赤ちゃんが育つにしたがって、赤ちゃんの可能性が塞がれていく。

この世に授かった小さな<いのち>、赤ちゃんは、生まれたばかりの瞬間は100%の輝きを見せているのである。赤ちゃんに限らず、人間なら誰でも、まわりからの期待を一身に集めているという自覚の元では、100%の輝きを放っている。問題は、生まれてきた赤ちゃんが両親の元でどのように育てられていくか?ということである。

例えば、『それをしてはダメ』という言葉が多く飛び交う両親の元で育った場合。赤ちゃんが<ダメ>という言葉を耳にした瞬間に、赤ちゃんの心に薄い膜が一つずつ張られていくのである。そして同時に、赤ちゃんの100%の輝きが一つ一つ失われていくのである。もちろん、両親が赤ちゃんに投げかける<ダメ>という言葉のほとんどが、赤ちゃんがこれから人間として必要な生活ルールや、社会常識を覚えるために必要な言葉であることは間違いない。しかし、100%の輝きを放っている赤ちゃんは、すべてのことの実現性に関して、100%の可能性が備わっているということでもある。薄い膜がはられていくということは、この100%の可能性を90%、80%、60%、と引き下げていくことなのである。

パラドックスといえばパラドックスではあるが、難儀なことでもある。さて、ここで一つの重大な問題提起をしてみたい。この世に生まれてきたばかりの赤ちゃんは、生きていくために必要な能力や才能を何も持たずして生まれてくるのだろうか。筆者は、この答えとして明確に<No>であると断言したい。赤ちゃんは、生きていくために必要な能力と才能のすべてを持ち合わせて生まれてきたのである、と。但し、コミュニケーションをとるための知識を持ち併せて生まれてこなかったとする。つまり、大人は、赤ちゃんが喋る言葉を理解できない。赤ちゃんは、大人が喋る言葉を理解できないのである。この断言は、あくまで筆者の独断と偏見によるものである。しかし、言葉が通じないが故に発生する誤解と偏見は、大人社会においても、まま発生している。

言葉が通じない二人。仮にジョンさんと明さんという名前だったとしよう。その二人が、ある日、あるところでコミュニケーションをとろうとした。明さんは日本語、ジョンさんは英語を母国語とする関係であった。そして、その二人は生活習慣のマナーに関してコミュニケーションしようとした。明さんは、やおらスープを音を立てて飲むことに関して異論を日本語で話し始めた。ジョンさんは、靴を脱いで部屋へ上がることの快適性を英語で話し始めた。通訳はいなかった。言葉が通じないままにコミュニケーションは延々と続けられ、そのうち、両者の言葉がシンプルになってきた。「No!、No!、No!」というわかりやすい英語と、「ダメ、ダメ、ダメだよ」というわかりやすい日本語が飛び交いはじめた。

言葉はわかりやすくなり、両者がそれぞれの母国語を理解しなくてもコミュニケーションが成立するようになったが、会話は見事に途絶えてしまった。そして突然、ジョンさんが明さんを押し倒して「オレの言うことを聞けよ」と、英語で叫んだ。同時に、押し倒された明さんも「オレの言うことを聞けよ」と、日本語で叫び返した。するとジョンさんは、今度は、明さんのお尻をペンペンし出した。「言うことを聞・き・な・さ・い」、と。それでも明さんは、首を左右に降り続けた。「ヤダよ、ヤダよ、絶対・ヤ・ダ・も・ん」、と。しかし体力に劣る明さんは、腕力ではジョンさんにはかなわなかった。明さんは、そのうちジョンさんの言うことを渋々聞くようになった。やがてこのコミュニケーションの関係が1週間続き、3ヶ月続き、やがて3年と続いた。すると3年後には、明さんは日本語をすっかり忘れてしまい、英語しかしゃべれない明さんになり、そのうえ、ジョンさんがいいとする生活習慣をおりこうさんで守る人間になってしまった。果たして、明さんにとって、ジョンさんの生活習慣を守るようになったことが良かったことなのか、良くなかったことなのか・・・。そんなことは、すぐに結論が出る問題でもなかった。ただ言えることは、明さんの<いのち>にはいくつかの膜がかかってしまい、ジョンさんの<いのち>の輝きに比べてわずかだけ失われてしまったことは間違いない。

 言葉が<いのち>を輝かせる。 
<言葉>は<いのち>を輝かせ、同時に<いのち>の輝きを鈍らせる。


これからの新しい社会でのコミュニケーションにおいて最も重要なことは、全ての言葉が、文字が肯定形で交わされることであり、全ての文字が肯定形で記述され、すべての言葉が肯定形で会話されることである。そしてさらに、強調することを意図した言葉や文字が使われていないことである。否定の言葉や文字はもちろんのこと、強調された言葉や文字が存在するコミュニケーションは、コミュニケーションの品質における品位がゼロに等しい。

コミュニケーションに否定を意味する言葉や文字が含まれると、コミュニケーションが複雑化・多義化(多様化)・遅速化する。コミュニケーションのすべてが、肯定を意味する言葉や文字だけで為されると、コミュニケーションは単純化・一義化・高速化するようになる。コミュニケーションにおいて、強調を意味する言葉や文字を使うことは<我>が入ることで、その結果は、相手の<知>に関与することであり、意図がからむことである。コミュニケーションは、本来、相手側の意志を揺さぶるものであってはならない。相手の意志にコミュニケーションの目的の事実を置いてくるだけでのことである。(了)

←その10に戻る

・・・・・・・・・・

【杉山 彰(すぎやま あきら)プロフィール】

◎立命館大学 産業社会学部卒
 1974年、(株)タイムにコピーライターとして入社。
 以後(株)タイムに10年間勤務した後、杉山彰事務所を主宰。
 1990年、株式会社 JCN研究所を設立
 1993年、株式会社CSK関連会社 
 日本レジホンシステムズ(ナレッジモデリング株式会社の前身)と
 マーケティング顧問契約を締結
 ※この時期に、七沢先生との知遇を得て、現在に至る。
 1995年、松下電器産業(株)開発本部・映像音響情報研究所の
 コンセプトメーカーとして顧問契約(技術支援業務契約)を締結。
 2010年、株式会社 JCN研究所を休眠、現在に至る。

◎〈作成論文&レポート〉
 ・「マトリックス・マネージメント」
 ・「オープンマインド・ヒューマン・ネットワーキング」
 ・「コンピュータの中の日本語」
 ・「新・遺伝的アルゴリズム論」
 ・「知識社会におけるヒューマンネットワーキング経営の在り方」
 ・「人間と夢」 等

◎〈開発システム〉
 ・コンピュータにおける日本語処理機能としての
  カナ漢字置換装置・JCN〈愛(ai)〉
 ・置換アルゴリズムの応用システム「TAO/TIME認証システム」
 ・TAO時計装置

◎〈出願特許〉
 ・「カナ漢字自動置換システム」
 ・「新・遺伝的アルゴリズムによる、漢字混じり文章生成装置」
 ・「アナログ計時とディジタル計時と絶対時間を同時共時に
   計測表示できるTAO時計装置」
 ・「音符システムを活用した、新・中間言語アルゴリズム」
 ・「時間軸をキーデータとする、システム辞書の生成方法」
 ・「利用履歴データをID化した、新・ファイル管理システム」等

◎〈取得特許〉
 「TAO時計装置」(米国特許)、
 「TAO・TIME認証システム」(国際特許) 等

この記事は素晴らしい!面白い!と感じましたら、サポートをいただけますと幸いです。いただいたサポートはParoleの活動費に充てさせていただきます。