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自然、対象と響き合うということ

執筆:ラボラトリオ研究員 小池沙輝

先日、スタッフと一緒に
はじめて昇仙峡を訪れました。

昇仙峡といえば
日本一の渓谷美を誇る名所として知られる、
甲府盆地の北側に位置する渓谷。

その雄大な自然の姿は“秘境”と呼ばれるだけあり、
目の前に迫ってくる
むきだしの地層やごつごつした岩肌、
群生する巨木などは圧巻で
思わず息を呑んでしまいました。

昇仙峡 公式HPより
https://www.shosenkyo-kankoukyokai.com/

なかでも心の琴線に触れたのが、
昇仙峡の最奥部に位置する、仙娥滝(せんがたき)。

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そしてこの壮麗な滝の
景観に魅入っているうちに、

滝の轟音から伝わってくる微細な振動と
自分の体が呼応し、
同じ周波数で振動しているような
不思議な感覚にさそわれ、

いつしか滝と自分の体と一体になったように
感じられたのです。

白川では「木・火・土・金・水」といって、
まず五行とつながり、
自然をありありと感じてみることを大切に、
といわれていますが、

私が昇仙峡の雄大な自然に触れて得たものは、
これに近い感覚であったのかもしれません。

そう考えてみると、
自分にとってなぜか心地よく感じられるもの、

美しいと感じたり、心にすんなりと響くものは、
それらの対象と
同じ周波数で共鳴している状態なのではないか?

と思ったのです。

これは言葉を換えれば、
その対象と、

「より良いコミュニケーションができている状態」

であるということもできるかもしれません。

「水は高きから低きに流れる」

という言葉があるように、

高い周波数によって揺れ動く振動に
じっくり魅入っているうちに、
知らぬ間にその周波数からの影響を受け、

次第に、自分自身も
共振・共鳴・同調の状態に入っている、

ということは、よくあると思うのですね。

人が大自然を見て感動したり、
素晴らしい芸術を前に心打たれるのは、
このような無意識の作用が起こっているからなのではないか、
と感じています。

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「滝」といえば、
日本画家の千住博さんの作品、
『ウォーターフォール』シリーズが有名ですね。

ちょうど先月のはじめくらいに
軽井沢の千住博美術館にて、

「—滝 滝 滝—」展が開催されていたので、

いってまいりました。

こちらのHPから、館内の様子や作品の一部をご覧いただくことができます。
https://www.senju-museum.jp/

本展は、美術館のエントランスから
往路に面したすべての展示室に
1994年から2013年にかけて描かれた
14点の滝の作品が展示されているというもの。

これまでに千住博さんの『ウォーターフォール』は、
美術館で何度か鑑賞する機会があったのですが、

彼のライフワークであり
重要なモティーフとして取り組まれている”滝”の作品が
一堂に会するというのは
私の記憶の限りにおいて、なかったと思います。

つまり、それだけに一見の価値があり、
この機を逃さずにはいられませんでした。

それから、感動の理由はおそらく
SANAAの西沢立衛氏設計による
素晴らしい空間美によるものもあったのでしょう。

美術館といえば通常、
閉ざされた空間のなかで
いかに配置や照明を工夫して、
一点一点の美術品、コレクションの持ち味を引き出すか?

といった点が問われるわけですが、
千住博美術館は、その点において真逆。

自然光が差し込む心地よいスペース、
さらに一点一点の作品にじっくりと対峙できるような
流線形のアプローチが調和して、

作品の持ち味や趣を
いっそう極立てる装置としての空間美のありようにも
すっかり魅せられてしまいました。

(ある意味で、既存の美術館の空間の概念を
すっかり覆されてしまったような新鮮な体験でした)

さて、肝心の作品なのですが、
一言で、本当に素晴らしかったです。

今回の展覧会では、
一点一点の作品にじっくりと向き合える
構成になっていたこともあり、

作品に近づいたり、はなれたりを繰り返したり、
目の位置や体の向きを微妙に変えてみるなどして、
鑑賞者としての視点の移動を試みることで、

滝の印象がどう変わるのか?

ということを実験してみたのです。

そこで気づいたのは、

作品に近づけばづくほど、
画のなかに繊細に、丁寧に散りばめられた
微細な水しぶきの振動と響き合うような感覚が、

一方で、
作品から遠のけば遠のくほど、
大自然のなかでたくましく存在する、
滝としての本来の姿、
生命力といったものが今ここに力強く立ち現れ、
迫ってくるような感覚がありました。

それは、滝をモティーフにした作品、
ということからはなれて、

自然のなかの滝そのものであった

といってもいいかもしれません。

少なくとも、私はそのような印象を受けたのです。

ちなみにこれはあとから知ったことですが、
千住氏もこのシリーズについて、

“これは滝の絵ではない。「滝」なのだ。”

と、ご自身のことばで語られています。

この一言からも感じ取れるように、
千住氏は、山間の地で目にした神秘的、幻想的な滝の印象を、
あるいは、むきだしの自然美を
そのままに描きたかったのでしょう。

それから、もう一つ心打たれたのは、
岩絵具によって醸し出される、
濃淡の繊細なグラデーションと
それによって生まれる
繊細さと力強さを兼ね備えた壮麗な画の佇まいでした。

『ウォーターフォール』は通常、
背景が黒(淡い黒)、
滝の部分は白という、

白黒の淡い濃淡の微妙な色合いが
幾重にも折り重なって構成されており、
まるで水墨画のような趣を醸し出しています。

私の好きなことばに
「あわい」という日本語がありますが、

これらの絵に当てはめてみると、

そうした色彩の妙、
あいだとあいだをたゆたうような
色と色が微妙にうつろいゆく様もまた、

このシリーズの大きな魅力のひとつであるように思いました。

そして、この「あわい」ともいえる
文字通り、淡い色の奥深さに魅せられ、
時間を忘れて
その場にじっと立ちつくしてしまったのでした。

すると、そこで

なぜ、こんなにもこの色に惹かれてしまうのだろう?

なぜ、こんなにも懐かしい気持ちになるのだろう?

と、疑問が湧いてきたのです。

こちらについての所感は、
自分なりにまとまったので、
また別の機会に記事にしてみたいと思います。

さて本稿の結びに、
展覧会で出会った千住氏のことばを
以下に記しておきたいと思います。

僕はすべて天然の素材で描く。それによって岩絵の具から岩石が持っている生命記憶のようなものを引き出したい。和紙の原料となった、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)という日本の風土が生んだ木々、あるいは胡粉となった貝殻は、どんな記憶を持っているのか。そういう記憶に触れたい。だから僕が描くということは『俺が俺が』という自己主張ではないのです。

この言葉から私は、
人の心を真に揺さぶるものを生み出したいのであれば、

「私」をいったん脇において、
(このことを千住氏は別の段で「己を捨てること」と表現されています)

対象と一体になり、
そのものと共振共鳴し、
中今に没入することこそ、
道を極めることにつながるのだ、

と伝えたいのではないか、
と受け止めました。

これは芸術の世界に限らず
自分が身をおいている仕事、
あるいは人間関係、大切なものとの関係性においても、

同じことがいえるのではないでしょうか。

無心で今できることに、真摯に取り組むこと。

今、こんな社会情勢だからこそ、
改めて自分の心を見つめ直し、対峙し、
丹念に心のわだかまりをときほぐして、

はじまりの記憶、
はじまりの振動と

調和して生きていきたいと思います。

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【小池沙輝 プロフィール】

Paroleの編集担当。
のろまの亀で生きてた人生ですが、Paroleスタートに伴い、最近は「瞬息」で思いを言葉にできるよう、日々修行中です。短文修行は始まったばかり。


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