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銀河の流れは絶えずして

執筆:ラボラトリオ研究員  畑野 慶

しかも、もとの星にあらず。

大仰なタイトルに続けて、私はそう書き出してみた。方丈記の冒頭をもじり、遠い宇宙を思い描いてのことだ。刻一刻と移り変わるのは、無論地球上に限った宿命ではない。銀河の星々もまた斯くの如しであろう。

翻って最も近く、この胸の内にある小宇宙も、心ころころ留まりを知らない。昨日の私は今日の私ではない。男子三日会わざれば刮目して見よと、耳にする通りだ。人は何か決意した瞬間に変わる。三日も経って変わらなければ、或いは実現に向けて動き出さなければ、その思いは上辺でしかない。先送りは後ずさりだ。

些細なことであるが、君は私にこう言った。必ず読みますよと。にも拘わらず、あれから凡そ三ヶ月も経って読んでいなかったのだから、まあ読む気などなかった。一事が万事、君は何事もいい加減だと軽く叱りつけたのが三日前だ。そして今日、君からのメールが届いた。ちんぷんかんぷんです、と記されていた。これは一体どういうことか。インターネットで調べれば、現代語訳はいくらでも出てくる。なにせ方丈記は、日本三大随筆に数えられている。

私はまず、漠然と読書を勧めた。君が暇で困るなどと言い出したからだ。休日といえば街に繰り出していた君にとって、昨今の巣籠りがちな生活はさぞや辛いであろう。だが、普段やらぬことをやってみる良い機会にもなり得る。読書は最適ではないか。君はあの時、いいですねと賛同した後、ところで何を読んだら良いでしょうと訊いた。なかなか滑稽である。本屋に行ってみたらいいのだ。私はそう言いたい気持ちを抑えて、方丈記と一例を示した。読みづらい古典ではあるが、意地悪ではない。今こそ読むべき作品としてあの時説明した通りだ。興味深そうに聞いていた君は、恐らくおべんちゃらで、前述の言葉を発したわけだ。

仕方がない。どうやら政治家に向いている君へ、メールに対する返信という体で、私はこれより方丈記について語ろう。即ち今、自分で読む気になったのであれば、この先は捨て置く必要がある。だが、真の名作はいわゆるネタバレを物ともしない。どんな話か知り得た上で読んでも、文章が胸に響くのだ。

私は方丈記をことあるごとに再読する。執筆された凡そ八百年前と通信しながら。古典を開くということは、容易く時空を超えるということ。遥か遠くの学びが今ここにある。さながら悠久の星々をも掴むが如く。意識は自由に羽ばたいてゆく。


さて、方丈記が書かれた時代背景は、今に似ていると言っても良いであろう。要するに、時代の大きな転換期に当たる。今日の区分では、平安末期から鎌倉初期である。源平二氏が武士の棟梁として争った末、文治元年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した辺りである。戦乱、飢餓、天変地異が相次いで、世相は荒廃した。当時の都である平安京も例外ではなかった。
 
安元の大火(1177年)、治承の辻風(1180年)、養和の飢饉(1181年 – 1182年)、元暦の大地震(1185年)と、平安京で起こった悲惨な出来事は、方丈記に書き残されている。大火では、奇しくも強風が吹き迷い、燃え広がることで都の三分の一が灰燼と化したそうだ。辻風は、言い換えれば竜巻であるが、地獄の業風に準えるほどで、被害にあった家々の財産はすべて空に吹き上げられたそうだ。更に詳しく描写されているが、添えられた作者の所感は以下の通りである。

・人のいとなみ、みなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて、寶をつひやし、心をなやますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。

・人の行いは、皆愚かであるが、その中でも、これほどまで危険な都の中に家を作ろうと、財産を費やし、心を悩ますことは、特に無益なことであります。

養和の飢饉では、ひどい旱魃により洛中さえも夥しい餓死者が出たそうだ。人が皆正常ではなくなり、日が経つにつれて極まりゆく様を、作中では、少水の中で死にゆく魚に準えている。死体の数も、それを取り捨てる術も知らず、死臭は世界に満ち満ちて、その腐乱する様は目も当てられないと表現されている。底本(國文大觀 日記草子部)の文章のまま、意訳を添えて紹介したいのは以下である。君は何を感じるだろうか?

・さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて心ざし深きは、かならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。又、母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。

・去りがたき妻や夫を持つ者は、その思いが強くて深い者の方が、必ず先立って死ぬ。その訳は、自分の身を後回しにして、愛おしく思う者に、たまたま手に入った食物を、まず相手に譲るからである。故に、親子であれば決まったこととして、親が先立つ。また、母の命が尽きたと知らずに、幼い子がその乳房を吸いながら寝ていることもあった。

元暦の大地震の描写は、国内で同様の震災に見舞われるたびに、昨今も新聞や書籍などで良く引用される。地震雷火事親父の、最上位は今も昔も揺るぎない。それが地震であることは、神の皮肉であろうか。飢饉の悲惨さは、こうして過去と通信しなければ理解しがたいものであるが、地震は容易に理解出来る。いつ来るやもしれぬ恐怖は、この国に住む者の日常である。

・おそれの中に、おそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。

・恐れるものの中で、特に恐れなければならないのは、ただ地震だと思われました。

その上で、方丈記には余震の回数や期間なども克明に記されている。無論、作者が体感した限りであるが、これは貴重な震災の記録である。移り行く世相についても触れられていて、月日が重なり、幾年か経った後は、地震のことを口にする者はいなくなったそうだ。これも現代に通ずる点。まさに教訓である。

作者の鴨長明は、これらの震災を三十歳までに経験した。多感な時期に起こった不幸の数々は、彼の人生観に大きな影響を与えたと思われる。晩年まで色褪せなかったその記憶を頼りに、方丈記を著したのは、一説によれば五十八歳である。故に、若干の誤謬は否めない。それも文学の魅力である。

平清盛による人災・・・と、一括にしてはいけないが、福原遷都についても触れられている。悪政に庶民が振り回される様は哀れを誘う。そして、権力者に付き従っても、心は休まらないと断言する。大いに楽しめず、大声で泣くことも出来ず、常に恐れおののいて、要するに媚びへつらって過さねばならないと。鷹の巣に近づく雀の如しとは、言い得て妙である。財あれば恐れが多く、貧しければ嘆きが痛切であり、他人を頼れば我が身はその人の所有物になり、他人を可愛がれば心は愛情のために使わされ、世に従えば我が身が苦しくなり、従わなければ狂人に似たものとして扱われ・・・斯くもとんでもない世の中を我慢して、三十年余り心を悩ませて、儚い運命を悟ったと回想している。

作者はこの頃、住んでいた父方の祖母の家を出る。縁欠けてと記されているが、恐らく縁を切られて、留まることが出来なかったようだ。作中にない情報を補足すると、十八歳の時に父親を亡くして、母親は不明である。

・三十餘にして、更に我が心と一の庵をむすぶ。これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。

・三十余りにして、我が心のままに一つの庵を作った。これを以前の住まいと比べると、十分の一の大きさである。

親族と離縁した作者は、鴨川のほとりに粗末な庵を建てた。相応の暮らしをしていたと行間から読み取れるが、具体的にどう生計を立てていたかは記されていない。そして、彼は五十歳の春を迎えて出家した。世を背けりと、はっきり記されている。

・もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。

・もともと妻子がないので、捨てがたい身よりもない。官位と俸祿もなく、何につけて執着を残そうか。

遁世したのは大原の山中である。今日の住所は京都市左京区。即ち都から然程離れていない。ここに五年住んだとのことだが、やはり未練があったと思われる。人間臭くて良いではないか。

その後、日野の山奥に居を移す。末葉の宿り、終の棲家である。といっても、場所を思い定めてはいなかった。気に入らぬことがあれば、容易く居を移す心づもりの、極めて簡素な庵である。

・廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。

・広さはわずかに一丈四方(四畳半)、高さは七尺(二メートル強)に満たない。

方丈記という名の由来は、この庵にある。独りで暮らしながら筆を執り、春は藤の花、夏はほととぎすの声、秋はひぐらしの声、冬は降り積もる雪と、四季折々の自然を愛でる。出家したにも拘わらず、念仏が面倒な時は、自ら休み、自ら怠けると、正直に告白している。妨げる人も、恥ずかしく思う人もいないということだ。時折訪ねて来るのは、山の番人の子供であり、年の差凡そ五十の友として、退屈な時は共に遊んだそうだ。風の頼りで都の不幸な出来事を知ると、過去を思い返して、つくづく今が幸福であると語っている。

・たゞかりの庵のみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あり。一身をやどすに不足なし。がうなはちひさき貝をこのむ、これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。我またかくのごとし。身を知り世を知れらば、願はずまじらはず、たゞしづかなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす。

・ただ仮の庵のみ、穏やかで恐れるものはない。狭いといっても、夜寝るところがあり、昼座るところもある。我が身一つを宿すのに不足はない。やどかりは小さな貝殻を好む。これは良く身の程を知っているからである。みさごは荒磯に暮らす。即ち人を恐れているからである。私はこれと同じ。身の程を知り世の中を知っているので、野心を持って動かず、ただ静かであることを願って、不安がないことを楽しみにしている。

その後、これは金持ちに対して言っているわけではないと書き添えられている。時代を超えて、私達は当時の金持ちよりも物質的に豊かになったわけだが、自分たちに向けられたものではないとしても、本書から学ぶことは実に多いと思う。作者はこのような生き様もあり、このような幸福もあり、すべては心の持ちよう一つであると言っているのであり、世捨て人としての価値観を押し付けようとはしていない。都に出ることがあると、そこで生きる者たちを気の毒に思いつつも、乞食の如き自分の形が恥ずかしくなるとも言っている。彼自身もまた、完全に自己肯定は出来ていなかった。

私たちは今をどう生きるべきか。震災が相次いでいる。未知のウイルスまで現れた。それを過剰に恐れて、方丈記を参考にひっそり山奥で生きようとする者も現れるやもしれない。私は比較的恵まれた環境にいるせいか、世を捨てて逃げるべきではないと考えるが、時に人生は、逃げざるを得ないほどの苦境に置かれる。その場所に執着して苦しみ続けるのなら、捨てた方が良いということがある。方丈記の最後は、愛すべき物事への執着を戒めている。

さあ、どうだろう。君は方丈記をきちんと読んでみたくなっただろうか。古典の名作と称えられるだけに、文章は言葉の一つひとつが光り輝き、さながら流麗な銀河の如く、再読する度に行間が変化する。もとの星にあらずだ。是非君にも、その感覚を味わってほしい。


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【畑野 慶 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。そこでの経験が、表現することの探求に発展し、言葉の美について考えるようになる。言霊学の第一人者である七沢代表との出会いは、運命的に前述の劇団を通じてのものであり、自然と代表から教えを受けるようになる。現在、neten株式会社所属。

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