見出し画像

宗教とスピリチュアル:ギリシア正教/ハニア(クレタ)・・ヨーロッパ放浪記(22)

数年前、アテネのアクロポリスの麓にある教会Agios Nikolaos churchに行ったのがギリシア正教(Greek Orthdox)との最初の出会いだった。衝撃だった。薄暗い部屋の祭壇のイコンのキリストにみんな口づけをして祈る。一瞬写真を撮りたい!と思ったが、シャッターを押せなかった。あまりにも神々しくて・・。

同じ体験を数十年前の冬の四国遍路道の岩屋寺でもある。大雪の参道を、障害を持った娘を抱き抱えるようにして黙々と歩いて登ってくる母子を見たとき撮りたい!と思った。どうしてもシャッターが押せなかった。あまりにも神々しくて・・。撮ってはいけない気がして・・。写真をする人間としては、その後、ずっと葛藤し続けている・・。

今回クレタでも、たくさんの教会を巡礼した。ちょうどイースター前のミサが毎日のようにあって、ハニアのCathedral of Saint Mary of the Assumptionの盛大なミサに参列した。近くのChurch of Agios Nikolaos ギリシア正教会の聖祭にも参列した。どちらでも写真はまったく撮らなかった。

自分が何故こんなにも教会に惹かれるのか、意識したことがなかった。

「類は友を呼ぶ」と言われたことがあったが、何故か、わたしの周りには「スピリチュアル」のひとが少なからずいた/いる。わたし自身は、「スピリチュアル」という言い方があまり好きではない。
ただ、自分が取り組んでいるソクラテス以前の「存在の問い」と密接な関係があるとは思う。ひとは、日常生活のなかで、ふと、無意識のうちにも「存在の問い」が重大な問題として、そのひとのなかに入り込む瞬間があるのではないだろうか。そんなとき、無意識にも、”meletē thanatou(死の練習)(プラトン(ソクラテス))”を行っているのではないだろうか。もともと、「哲学」とはそんな身近な行為なのだろう。

確かに、聖空間に入ると、自然とイコンのキリストに手を合わせている自分がいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?