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「写真」を撮る・・・・『「ひと」を撮る』ということ (2)

少女は 突然 おどりだした
立ち木に向かって こばしりに走る
すでに 舞がはじまっている
木に手を廻して 満面の笑みで 自由に舞う
こちらを向いて ポーズをとる
ちょっとした仕草がすでに 「舞い」になっている
彼女の体ぜんたいが 「舞い」そのもの
 
嫉妬するくらい いや そんなレベルすら超えている・・
恋愛感情? いや もっともっと 異次元・・
天使 ?
そう思えるくらい
いや ほんとうに 天使なのだ
彼女の存在自体が神々しい・・
 
木の葉が舞うように
木の葉が揺らいで 滴が そっと ひとしれず 落ちるように
花びらが そよかぜに揺れるように
とんびが ゆうゆうと 大空を舞うように
夕焼けの 赤く色づいた雲がそよぐように
少女は 舞う
                    
大塚櫻
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舞台撮影をさんざんやった。
お陰で、「天才」というものが実在することを知った。
何人もの「天才」と出会った。舞台撮影のお陰である。
「舞い」に、舞台に命を掛ける/賭ける「天才」とも出会った。
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私は、写真学科を出た訳でもなく、「舞台撮影」について何処か学校で習ったこともない。
 当時、会社の近くだったので、富士フォトサロン、ニコンサロンとかよく通った。其処で、松本 徳彦氏(師)の「舞台写真」の個展を知った。
 会場に行くと、幸運なことに、お客さんは誰ひとりおらず、松本徳彦先生がお一人でいらっしゃった。
先生を独占して、質問責めにした。
具体的且つ実践的な質問をしまくった。松本徳彦先生は、使用フィルム(TX)から感度(400)、三脚の大事さ、シャッター音の消音の仕方(サイレンサ)に至る迄、私の質問に全て丁寧に答えてくださった。結構長い時間だった。・・・
実は、韓国舞踊の趙寿玉の、初めての舞台撮影直前だったのである。先生の指示通りに撮影した。
この時、松本徳彦先生から教えていただいたことが、その後の私の舞台撮影の基本になった。先生は、記憶されておられないでしょうが。
商業的に舞台を撮影するカメラマンの「記録」写真だと、全身を写すことに拘るのでしょうが、松本徳彦先生はアップでも撮られる。多分、舞い手の微妙な表情・視線から心の襞を撮ろうとすると必然なのでしょうか。多分、「舞台撮影」に対峙する松本徳彦先生の構えの違いなのでしょう。
 
 此の撮り方が、その後の「宮大工」撮影でも役立った。だから、松本徳彦先生から、舞台撮影のテクニックのみならず、先生の個展会場で見た「舞台写真」たちを通じて、「写真」を撮る、『「ひと」を撮る』際の一番大切なことを教えてもらった。
 
前回、わたしは、こう書いた。
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・・要するに、「写真」を撮るという行為は、閉鎖系生物システムであるひとが、その外界である「世界」「他者」と交流して非閉鎖系となることなのでしょう。
「ひと」と同様に、「写真」も、当初は、撮影者の多層構造を担いつつも、撮影者から独立した途端、独自の多層構造を担うものなのではないでしょうか。
だから、「写真」の価値とは、「美しい」「雄大」「カッコイイ」「コミカル」「ほのぼの」「インスタ映え」「教訓的」「アーチスチック」・・といった言葉で言い表されるのかもしれません。
しかし、なにか、そこに、客観的というか絶対的というか価値基準を欲しくなってしまいます。「美のイデア」って、あるのでしょうか。
わたしにとって「写真」の価値とは、「多層構造」にフォーカスしたスケールから「世界」とか「存在」とかの『根拠』にリンクした価値なのかもしれません。・・
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『「ひと」を撮る』・・韓国舞踊・ムーダン(韓国シャーマン)・能舞台・歌舞伎・日舞・ジャズダンス・宮大工を撮ってきましたが、宮大工も含めて『人体表現』と言ってもいいかも知れません。
冒頭に書いた「少女」が、最初の出会いかもしれません。わたしの人体表現撮影の原点かもしれません。

写真 林洱調 IMiJo(韓国人間国宝)

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