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ゆらぎ 7 -あまりにもあいまいな(続編)  四面楚歌

労働者側の弁護士2名との打ち合わせの際、彼らは巧に厳しいことを言った。
「この裁判を提訴しても勝利判決を勝ち取れるとは限らない。」
「もし、敗訴したら、会社の攻撃は更に激化し、解雇も覚悟しないといけない。」
「提訴しただけでも、職場では厳しい攻撃を受けることになるだろう。」
ということだった。
巧の「覚悟」は決まっていた。
「もし敗訴したら、会社のみならず裁判所も相手に闘争します。」と言い切った。

弁護士から、地域の労働運動活動家を紹介された。もちろん、某政党派ではない「左翼」、つまり、某政党が言うところの「過激派」である。
その活動家2名と飲みに行って、巧は酔い潰れた。
巧の話を聞いた活動家は、地域の某争議団組織を紹介した。
活動家2名は、某新左翼党派だったが、その某争議団組織は、無党派ノンセクトラジカルも党派の人間も混在する、ひたすら、各個別争議(不当解雇など)を共闘する緩やかな組織だった。某新左翼党派の労働組合、某地域合同労組からも強いラブコールの声が掛かったが、巧は、某争議団組織の緩やかさの方が気に入った。

いよいよ提訴。
職場では、「年休8割条項」に抗議する抗議文を巧は会社に個人名で出し続けていたが、会社は、文書回答し、更に意見があるのなら文書で出せという、いつも通りの文書回答が来た。それに対する回答として、巧は、回答期限日に会社に東京地裁への訴状で応えた。
それと同時に、巧は、某争議団組織の全面支援を受けて、就業時間前の一時間、丸の内のど真ん中にある会社の社前で抗議集会を開いた。赤旗が林立する中で、某争議団組織の宣伝カーで情宣しながらビラを、出勤する地域のホワイトカラーのサラリーマン労働者に配った。

巧は、法廷闘争のみでは会社はビクともせず、むしろ、痛くも痒くもなく延々と付き合うだろうと思った。法廷闘争を裏付ける現場闘争が必須だと判断したのだ。

就業時間直前に、巧は職場の自分の席に着いた。巧の心臓はドキドキしたが、同時に清々しい気分だった。某争議団組織の新聞に「狼の群れに入る仔羊の気分だった」と書いたらうけた。

その日、管理職たちは会議室に閉じ籠もっていた。初日は静かに過ぎた。
翌日から、会社は、巧への攻撃を強化した。

巧は、独和翻訳者だったが、まだ、新入社員だった。巧の仕事のミスを針小棒大にあげつらった。直属上司が大きな声で、巧の翻訳ミスを注意した。「巧は仕事ができない」というキャンペーンを全社的に行ってきた。
インフォーマル組織「職場を守る会」では、「巧は、「外部」の「過激派」とつるんで、会社を潰そうとしている。」とキャンペーンを張ってきた。巧のような「過激派」から文字通り「職場を守る」として、インフォーマル組織「職場を守る会」所属のラジカルな社員数名も積極的に巧に個人攻撃をかけてきた。業務上必要なことすら、彼らは巧を睨み付け、無視した。

巧の自宅に深夜に電話が鳴り、巧がとると「バカヤロー」と怒鳴る声がして、すぐに切れた。その声は特徴のある声で、巧はすぐに誰だか分かった。

就業時間中に、他の労働者から電話があり、やさしい声で、あたかも味方のような口調で「最近活躍してるみたいだねぇ。でも、命の危険を感じたら、辞めた方がいいよ。」という脅迫だった。

さらには、巧が元委員長だった、某党派の労組組織の職場支部の組合員たちも巧を完全無視した。かつての仲間だったが、巧とは、まったく話をしなくなった。
某党派の組合本部は、東京都下の各労働団体に対して、巧が提訴した裁判は、自分たちの労組の運動とは「まったく関係ない『分裂策動』である」という文書を配布して、巧の闘争を積極的に妨害してきたからだ。巧を無視することは、本部からの通達でもあったのだ。

こうして、巧は、職場内ですべての社員から完全に無視された。四面楚歌だった。上司管理職からの、巧の仕事のミスをヒステリックに詰る罵声だけが、巧が聞く唯一の声だった。

こういう環境に耐えられる人間はどれだけいるだろうか。巧も例外ではなかった。堪えた。
巧は、管理職たちのヒステリックな罵声の下で、心の中で、幼児体験の三池争議でさんざん聞いた「インターナショナル」「労働歌」を口ずさんでいた。
巧の悲惨な幼児体験に比べたら、今の「地獄」なんて、なんでもないと思った。巧の悲惨な幼児体験は、今の、この地獄を耐えるためにあったとさえ思えた。

更に悲惨なのは、会社のみならず、自宅に帰っても、三池争議の負い目がある両親は、決して巧の行動を支持せず、むしろ、会社を退職することを勧めた。父親は、「そんな会社、辞めてしまえ!」と言った。

母親の「会社もたいへんだねぇ。ちょっとなにか言ったら、大騒ぎされて。」という発言には正直いちばん堪えた。「ちょっとなにか」・・そんなレベルのことのために、ひとり息子は、精神に異常を来すギリギリまで、歯を食いしばって頑張っているというのか。

更に父親は、自分は「向坂学校の優等生だった。」と昔のことを自慢して、あたかも自分は「左翼の社会主義活動家」だと言わんばかりに偉そうに巧の労働運動にもアドバイス、意見を言ってきた。内心、このひとはホンモノのバカだ、と思った。さすがに、巧は、「敵前逃亡した人間に言う資格はないよ。」と静かに言い切った。母親は、「そりゃ、そうだ。」と言い、それ以来、父親は、巧の闘争に意見しなくなった。と言うか、父親の、巧の労働運動に対する敵愾心が密かに増していた。
巧の妻は、育児時間闘争の後、退職し、別の会社に転職していた。巧のような幼児体験がない人間には、巧の行動が理解できなかった。と言うか、巧自身は、自分の行動の直接のきっかけは、Jさんの一粒の涙だと思っていた。

巧は、会社でも自宅でも孤独だった。
唯一、地域の某争議団組織の仲間だけが救いだった。彼らも、苦しく厳しい状況だろうに、底抜けに明るかった。そんなひとたちの側にいる自分が誇らしかった。

(写真は、三井三池争議最中の三井三池製作所内の父親)

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