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「書く」ということ・・「あまりにもあいまいな」「ゆらぎ」

実は、草稿代わりに”note”を使って「小説」を書いてます。そのことに批判もあるかとは思いますが。
今、後編「ゆらぎ」の途中です。
実は、既に電子出版で、與謝野晶子「みだれ髪」の現代語訳を出してます。
たくさんの方に読んでもらいたいから出版するのですが、それ以上に「自分との対話」を大切にしてます。出遭うべきひとと出遭う・・そのことがわたしにとっては大事なことです。
以下、”note”の記事から抜粋します。
お読みいただき、率直な感想を聞きたいです。
何度か、お電話頂いたのですが、ちょうどタイミング悪く、喫緊の用事でバタバタしておりました。こちらからお電話すればいいのですが、何をおっしゃるのか、分かる気がします。
それで、以下の記事を添付させていただきます。
よろしくお願いいたします。


自分のことは自分がいちばんよく知ってる?

「自分史」がブームなのでしょうか。高齢化社会でもあり、さもありなんと思います。

自分のことは、意外と自分では分からないものなのでしょう。だから、「自分史」を書く時間とこころの余裕ができたら是非お薦めです。

私の場合は、「自分史」ではないのですが、「実験小説」という言葉が適切なのか分かりませんが、実験的に、自分が現場にいた社会的事件を問い直す試みを行ってます。

書いてみて、書くという行為によって、今迄見えていなかった新たな発見があったりします。そうだったのか!こういう意味だったのか!こんな因果関係だったのか!・・と、新鮮な気付きがあります。

自分のことは自分がいちばんよく知ってる・・というのは間違いかもしれません。むしろ、自分のことは自分がいちばん知らない・・のかもしれません。
だから、「自分史」でも、エッセイでも小説でも、とにかく、自分に視線を向けて、なにか書いてみるというのは、自分を知るのにとてもよいきっかけになるでしょう。

「作家デビュー」とか「出版」とか意気込む必要はないかと思います。そんな野心があったら逆に、自分を知るのに障害になるかもしれません。

文章も流行があるようで、「いい文章の書き方」を指南するサイトとかもあるようですが、それも、かえって、書こうという意欲を削ぐことに貢献している場合があるかと思います。

言語は、ほんらい(ここも「本来」と書いたっていいじゃないですか)「自由」を本質とするのではないでしょうか。
「正しい日本語」とか「正しい文法」とかにこだわると、いちばん大切なことが疎かになって、いい文章が書けなくなる気がします。

いいじゃないですか。ハートがこもっていれば、漢字を使おうが、文法がすこしくらい違ったって。句読点をどう打とうが、改行をどうやろうが。

自分のことを少しでも分かるようになったとしたら、それの方がよっぽど大事な収穫だと思います。


あまりにもあいまいな  - もうひとつの「三池争議」 -まえがき ・・・

戦後最大の労働争議、革命前夜とまで言われた「三井三池争議」、その敗北と、直後に起きた「戦後最悪の炭鉱事故・労災事故」と呼ばれた三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故・・それにより、死者458名、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839名を出しました。この大事故は、「三井三池争議」の帰結でした。
50~60年代に起きた、この一連のできごとは、その後の日本の基層を形作りました。
「総評」の解散→労働運動の御用化、石炭から石油・原子力へのエネルギの転換、政治の右傾化、そして、世界的に「社会主義」の変質・・。
この歴史の陰で、労働争議、社会主義、そして、歴史に翻弄された家族がいました。
その生き様は、
「三井三池争議」とは何だったのか?
「労働運動」とは何か?
「社会主義」とは何か?
「三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故」とは何だったのか?
「50~60年代の日本」は何だったのか?
を問うのみならず、
「人間」とは何か?
「親子」とは何か?
「家族」とは何か?
「死」とは何か?
「生」とは何か?
「性」とは何か?
ほんとうの「愛」とは何か?
ほんとうの「誠実」とは何か?
「魂」とは何か?
を問い直すものでもあります。
前編では、「三井三池争議」前夜~三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故を一本の糸として、その糸の揺らぎに翻弄された、ある家族の姿を、「幼児~こども」の視点から表現してみたいと思いました。


あまりにもあいまいな  - もうひとつの「三池争議」 -あとがき 

数十年後、大人になった巧くんは、京都鞍馬寺のウエサク祭が深夜に終わった後、麓の駐車場にとめた自動車の中で仮眠しました。
尊天のサナトクラマが、とても意外な夢を見せました。巧くんが父親にしっかり抱かれている夢でした。
巧くんは、こどものころからとてもリアルな夢をよくみるのでした。まるで現場にいるようなリアリティがあるのです。
そのとき、父親の温もりすら感じました。
目覚めてから、とてもびっくりしました。
人間は、奥深いもの。
巧くんの深層の深層では、前編の最後で書いた巧くんの救いがたい父親否定とは違った感情、意味があるのかもしれません。
実は、巧くんは、幼児PTSDのせいもあるのか、不思議な体験をなんどもしているのです。
前編の基調となっている一本の糸を巧くん自身も家族も「封印」し続けていたのですが、じつは、深層レベルで見るとまた違った糸につながっていくのです。

文章に書くという行為は、漠然としていたものから何かひとつの意味をあぶりだしてくれるものなのかもしれません。長年にわたって構想していたものを具体化できて、とてもうれしいです。
お読みいただいて、ほんとうにありがとうございました。


三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故・・・#実験小説 #あまりにもあいまいな  
「労働者は、生産すればするほど、自分が消費するものは減り、
価値あるものを創造すればするほど、
自分は価値も尊厳もないものになってしまう」
                          カール・マルクス

特急「みずほ」号は、夕方、大牟田駅を発車した。
あの場所を通過するとき、体がこわばった。
父親は、上機嫌だった・・。
母親は、見送りに来てくれた姉との涙の別れからずっと泣いている。
まだ、関門トンネルの時代だった。
三段の寝台車。母親と一緒に寝た。
翌朝、東京タワーが見えてきた。父親がはしゃいでいる。巧は、なんの感慨もなかった。
その日は、神田の安旅館に泊まった。夕方、銀座に行った。まだ、茶色の山手線の車両の時代。数寄屋橋の路上で、光るヨーヨーを父親に買ってもらった。

荻窪の三井鉱山の長屋式の社宅が新居だった。炭住のように、会社関係のひとたちばかりだった。炭住と違って、当然、三池主婦会もデモもない。

巧の父親が『東京本社栄転』した直後、「総資本対総労働の対決」『三井三池争議』は、あっけなく第一組合(本来の原則的な労働組合)が負けた。その後の労働運動から見ると、垂涎ものの奇跡と言っていい程の「団結」(「万国の労働者よ、団結せよ!」マルクス・エンゲルス『共産党宣言』)だったのだが。

「去るも地獄、残るも地獄」とよく言われた。
確かに、去る者(解雇を容認した第一組合の組合員たち)も地獄、残る者(第二組合(会社側が「飴と鞭」で第一組合の労働者を切り崩してでっち上げた御用組合)の組合員たち)も地獄・・まさに文字通り「職場死守」した筈の第二組合組合員たちに待っていたのは文字通り「死」「地獄」だった。

小学校は最悪だった。教科書が違い、少し進んでいた。当時の先生は、まったく配慮してくれなかった。最初から進んだ個所からだから、成績は最悪だった。巧も、まったく勉強には身が入らなかった。体育の時間、懸垂をまったくできず、しなかったら・・不思議なことが起きた。先生が福岡出身なのか、怖い眼をして、方言で言った。差別用語だから、ここではそのままのことばでは書かないけど、要するに「おとこでない くさった よわむし」という意味だった。巧にまったく覇気がなく、こどもらしい明るさも皆無だったからなのだろう。それを記憶しているくらいだから、巧は、よっぽどショックだったのだろうが、なんの反応もせず、聞き流した。

荻窪駅前商店街に狭い間口の本屋さんがあった。
どういうきっかけだったのか、忘れてしまったが、小学校低学年にしては、難しい本を買って読んでいた。まず、漢字も知らないものが多いし、ことばも内容もほとんど理解できなかったが、「パリ・コミューン」「ホー・チミン」「ド・ゴール」といったようなタイトルだった。父親がびっくりしたが、知り合いに自慢げに話していた。
多分、父親が思ったのとは全く異なり、巧の原風景が引き寄せたのかもしれない。本の何処かに赤旗の絵か写真があったのかもしれない。
印象によく残っているが、小さくて薄い本と出会った。上手とは言えない絵が描いてあった。人間が、頭も手足もいっしょくたになって丸い玉になったような不思議な絵だった。古代ギリシア哲学者の説を簡単に絵解きしたものだった。たぶん、この冊子で、タレス、アナクシマンドロス、パルメニデスといったソクラテス以前の哲学者と初めて出会った。内容は分からなかった、と言うか、むしろ、シンプルな記述と下手な絵が面白かった。「世界」が主語になること自体、巧の関心事だったから。あの小冊子は、何度かの引っ越しで、無くなってしまったが、今いちばん欲しい本かもしれない。
小学生の頃から、夏目漱石とか森鴎外とか芥川龍之介とかトルストイとか読み始めていた。「教養」とかといった言葉とはまったく無縁で、当時の巧にとっては、それらの本は「実用書」だった。が、とても難しかった。巧が生まれ育った熊本・福岡での刺激的過ぎる出来事が消化できず、巧の心身を蝕んでいたから、それから楽になる手段としての「本」「読書」だった。何処かに、巧が死闘している難問の答えが載っていないかと、巧にとっては、難しい哲学書も「ハウツーもの」だった。

一年もしないうちに、半年ほどで、荻窪から石神井の大きな農家の離れみたいな一軒家に引っ越した。あの先生から離れられるのが嬉しかった。
石神井でも勉強は嫌いで、全体に出来なかったけど、図工の先生からは褒められた。音楽は最悪だったけど、横笛で曲を一曲吹けるようになると色分けしたビニールテープを笛に巻いてくれるということを音楽の先生がやっていて、それだけは結構上位になった。でも、音楽の成績自体は最悪だったが。はっきり覚えているが、意識的に音楽はサボっていたから。とくに理由もなく。
本をたくさん読んでいたので、国語の成績だけはよかった。
担任の先生が「百人一首」を書き出した、わら半紙を配って覚えてくるという冬休みの宿題があった。それは、とても楽しかった。
家族としては、穏やかな日常が過ぎていた。母親の目論見は成功した・・。


ある日、母親が巧に小さな低い声で、ぼそっと言った。
「三川坑で炭塵爆発があったって・・」
「えっ・・」
それで終わった。
父親の発言は、まったく記憶にない。
父親の会社の事故なのだから、会社では蜂の巣を突いたような騒ぎだった筈であろう。
しかし、家に帰宅してからの父親の様子は、まったく記憶していない。
父親と母親が何を話したのかも、巧はまったく知らない。
いつもと変わらない日常が過ぎていた。

 1963年11月9日午後3時12分、三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故が起きた。
死者458名、
一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839名
を出した。
戦後最悪の炭鉱事故・労災事故だった。

三井三池争議で、労働組合=第一組合の組合員の大量不当解雇を容認し、それに抗議する第一組合員たちをゲバ棒で乱打してでも職場を「断固死守」した筈の御用労組=第二組合の組合員こそが、皮肉にも、その被害者の多数を占めた。
酷い差別を受けてきた与論島出身の労働者、戦時中日本帝国主義により強制連行されてきた朝鮮人労働者も含まれていた。
「去るも地獄、残るも地獄」と言われた。
事故で生き残った者と雖も、事故後半世紀ほど経過しても、一酸化炭素中毒により、多数の患者労働者が寝たきりの闘病生活を強いられている。

 事故原因は、三井三池争議に端を発する常規を逸した「合理化・大量解雇・人員整理」のために、安全対策が等閑にされて保安無視の生産第一主義になっていたこと・三井資本の「三池炭鉱に限って炭塵爆発事故など起きるはずがない」「実際に何十年も起きていない」という「安全神話」にこそある。
何処かで聞いた台詞でしょ?
そう!
三井資本の「三池炭鉱に限って炭塵爆発事故など起きるはずがない」という奢りは、そのまま、311前の「原子力村」そのもの。

 巧の父親は、何を思っただろうか。
自分に責任があると思っただろうか。
母親は、何を思っただろうか。
自分にも責任があると、少しは思ってくれただろうか。

この後、ずーっと、何十年にも亘る、父親の酷い酒乱・母親に対する暴力は、その気持ちの反映だったのだろうか。

これに関しては、父親も母親も、巧には、一言も気持ち・考えを語りはしなかった。

ただ、ひとつ、巧には、気になることがある。
しばらくして、父親が母親と巧に言ったこと。
「親戚の○○さんが突然会社(東京本社)に来て、社長室に行った帰り、札束をそっと自分に見せた・・・。」
(三池争議中、暗躍してたから・・?)
(それ以上のことは、父親も知らないようだった。知っていたのかもしれないが、巧には言わなかった。)
何故、父親は、まだ幼い巧にそれを言ったのか。自分の親戚は、こんな『おおもの』がいるということを誇示したかったのか。

・・・・聞きたくなかった。それを巧に言った父親の人間性を疑った。巧は父親を軽蔑した。
巧の父親には、虚言癖がある。
もし、そのことが嘘だったとしたら、父親は、人間として許されないと巧は思った。
そのことが本当だったとしたら、父親は、人間として許されないと同時に、巧は、自分自身の「血」を恨むと思った。

それでいて、巧の父親は、まだこどもの巧に、「俺は向坂学校の優等生だったんだ」とニヤニヤしながら自慢した。
父親はどう思って言ったのか知らないが、小学校低学年の巧は、そのことばの意味を完璧に理解した。
父親の「社会主義思想」のメッキが完全に剥がれた瞬間だった。そこにあったのは、「思想」の「し」にも値しない屑以下の屑・クソだった。
これは、致命的だった。
巧は、完全に親離れした。特に父親を軽蔑するようになった。小学校低学年で。

なによりも、巧は、巧自身の中の「父親」性こそ最も軽蔑するようになった。

三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故で、資本、国家権力により殺された即死者458名の魂を考えると、父親が行った行為・言動は、決して許されるものではない。母親にも、その行為に至った原因を父親に強いた責任がある。たとえ、「こどものため」という言い訳・合理化しようとも。

こどもは、親を選んで生まれて来ると言う。
巧が、この父母を選んで生まれて来た理由が分かりかけてきているのかもしれない。
巧自身が、自分では処理しきれない程大きな「業」を背負って生まれて来て、父母が、その巨大な「業」に対する落とし前をつける「手助け」をしてくれたのかもしれない。そのために、父母は、更に大きな「業」を負った。
 巧の為すべき使命は、自身の、その「業」の落とし前をつけつつ、そのために父母が負った更なる「業」の落とし前もつけることだ。つまり、三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故で、「近代化」、主体性なき非国家に殺された死者458名と、一酸化炭素中毒患者839名に対する責任を巧も負うべき。
 人間は、過去に学ばないものだ。特に、日本人は。
 三井資本の「三池炭鉱に限って炭塵爆発事故など起きるはずがない」という奢りは、そのまま、311前の原子力村そのもの。いや、311後も何も変わってない。もう手遅れなのだろうか。

 それでも、最後迄仲間を裏切らず、「ひと」としての誇りを失わなかった三池労組=第一組合、三池主婦会の矜持を原風景に持たせてくれた巧の父母に、巧は、心から感謝している。

父母と巧自身の罪を償うべく。

前編終わり
(フィクションです)

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