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イスタンブールのモスクで、井筒俊彦の『Concept and Reality of Existence』を巡ってトルコ人ムスリムたちと2回にわたって対話しました(報告)

日本を旅立つに当たって、持って行く本は限られていました。せっかくトルコに滞在するのだから、井筒俊彦の「イスラーム哲学の原像」と「コーラン」も入れました。

・・・出発点は、「存在一性論者の問題とする存在とは、われわれ自身とか、われわれが自分のまわりに感覚的に見出す個々の事物、つまり具体的な存在者ではなくて、それらすべての存在者を存在者たらしめている存在そのものであるということです。」(井筒俊彦著「イスラーム哲学の原像」p140)の一文に出遭って衝撃を受けたことからです。

これは、わたしが慣れ親しんでいる井上忠の問いそのものではないか!と驚きました。
「事実は、factであり、factumであり・・それは為されたことであり、作された結果にほかならない。根拠とは、かく作さしめるもの自身の謂なのである。」(井上忠「根拠よりの挑戦「出で遭いへの訓練」p131)
つまり、パルメニデスの存在の問題でもあり、ソクラテス以前の哲学者たちの問題でもあるからです。

井筒俊彦が「イスラーム的思惟の動向を・・イブン・アラビー系の「存在一性論(wahdat al-wujud)のうちに認めて・・・理論的構造を分析記述するとともに、さらにその表層的構造の下に伏在する深層的実在体験の働きを明るみに出してみようとすることにある。」と序に述べているので、存在一性論の発展の頂点というモッラー・サドラー(Molla Sadra 1571-1640)の以下のことばを手掛かりにしてムスリムの友人たちにぶつけました。

  1. “Existence itself that makes all concrete beings exist” (上述の「存在者を存在者たらしめている存在そのもの」)

  2. “Where does the existence come from, dwelling in essence, and transforming the essence into an existence?”(「存在は何処から生起してきて本質に宿り、本質を存在者に変貌させているのか」(井筒俊彦著「イスラーム哲学の原像」p141)

  3. “The illusion of a lake-that-suddenly appears in the middle of a desolate desert, where there is actually not a single drop of water”(「本当は一滴の水もない荒涼たる沙漠の真っ只中に忽然として浮かび上がる湖水の幻影」(al-Shawahid alRububiyah, Teheran, 1967, p.448) (井筒俊彦著「イスラーム哲学の原像」p160)

  4. 「選良中の選良」(hhawass al-khawass)、すなわち「理性と直観を合わせた人」(dhawawu al-‘aql wa-al-‘ayn)」(Haydar Amuli “Jami’ al-Ashar wa-Manba’ al-Anwar「あらゆる玄秘の結合点、すべての光の発出点」) (井筒俊彦著「イスラーム哲学の原像」p180)

1および2は、同質に議論できるでしょうが、3については、感覚的事物は、このようなものだが、「まったく実在性を欠くわけではない・・形而上的根源との関連においては、・・存在者である。・・われわれの経験界には何一つとして完全に非実在的なものはない・・」(井筒俊彦著「イスラーム哲学の原像」p160)というのが、存在一性論の立場とのことです。

4については、イランの思想家で、存在一性論の代表的思想家ハイダル・アームリー(Haydar Amuli)の「経験的世界すなわち現象界は、いかなる意味で、またどの程度まで実在的なのであろうか」の問題にたいして、「理性と直観」の必要性を述べたものでしょう。
このことは、井筒俊彦の「神秘主義的な実在体験と、哲学的思惟の根源的な結びつき」「「神秘主義と哲学の融合」という、この本の結論にも相当する立場でしょう。奇しくも、弘法大師空海が同様のこと、つまり、「理性と直観」の必要性を言っているのは面白いです。

イスラーム哲学の存在一性論では、新プラトン主義、アリストテレス、中世スコラ哲学、アヴィセンナの影響・作用を受け、GODを頂点とする超越的、直観的理論が展開されていきます。

問題点を整理すると、上述の井上忠、パルメニデス、初期ギリシア哲学者たちの存在の問いと、イスラーム哲学との間には当然ギャップがあります。しかし、このことは、井上忠も、プラトンも了解事項なのでしょう。
ここの場所で考え込んだので、井上忠に助け船を求めたら、「途の灯しとしての言葉」p267 に、手掛かりとなる一文を見つけました。

『ものの地平に眺め入ってかえってものが見えなくなるよりは、「言葉のうちへ逃げ込んで言葉において存在の根拠が露わとなるのを考察すべきだと思った」プラトンは、そこで言葉がものの「写像」としてものに依拠するのではないことを明言し、「これらの言葉において存在を考察する場合、ひとが、事実(ものの地平)において考察する場合に比べて、(根拠から)もっと(離れた)写像において考察している、なぞと言うことは到底承認できない」と「ソクラテス」に語らせている(『パイドン』99e4-100a4)。「写像」でない言葉とは、みずからのうちに根拠を宿し、これを露わにさせ得る言葉であり、それゆえにわれわれにとって根拠への途の灯しとなる言葉である。』p267

中世の普遍論争、近現代の自然科学の発展、現象学、L.Wittgenstein からの「言語」「論理」への哲学的問い、論理実証主義、先端科学、量子力学での数学言語の絶対的優性から見ても、「言語」の足枷は、1および2の問題を考察する際に大きな意味を持ちます。
この際どい部分についても、ムスリムの友人たちと議論しました。
要するに、「言語」の定義の問題であり、つまり、「魂」故の言語であり、”nafs”「魂」の意味のとらえ方の問題なのかと理解しました。言語は、単に言語にあらず、人間の言語は、”nafs”「魂」を持った言語である点をしっかり見ないといけないのでしょう。

「理性と直観を合わせた人」であってこその「存在者を存在者たらしめている存在そのもの」の理解なのでしょう。

ここまで、対話した後、ムスリムの彼らは、モスクで礼拝をするというので、私がいっしょに参加することは許されるのか確認すると、寛容な彼らは、「体験としてやったらいい」と薦めてくれるので、生まれて初めて、イスラームの礼拝に参加させてもらいました。その実際の行動により、「言語」以上の言語の存在を『直観』しました。

ここまで整理できたのは、彼らのお陰であり、こころ優しいトルコ人たちにこころから感謝したいです。

この体験が、私の、これからのソクラテス以前の哲学者たちの「存在」の問いとの対峙にとって、どれ程有意義なことか、計り知れません。なぜなら、新プラトン主義、アリストテレス、中世スコラ哲学、アヴィセンナ、中世の普遍論争、近現代の自然科学の発展、現象学、L.Wittgenstein からの「言語」「論理」への哲学的問い、論理実証主義、先端科学、量子力学、AIにいたる知・智の根源なのですから。

私も「みずからのうちに根拠を宿し、これを露わにさせ得る言葉であり、それゆえにわれわれにとって根拠への途の灯しとなる言葉」を発するために「アルケー」「根拠」と対峙していきたいです。

              写真は、聖ゲオルギオス大聖堂で撮影
5.31.2024  

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