見出し画像

「写真」を撮る・・ということ

ひとはなぜ「写真」を撮るのでしょうか?!

ひとは、皮膚で被覆された閉鎖系生物システムで、各感覚器官で、外界世界と相互交流しつつ生をまっとうするものでしょう。この点で、非閉鎖系となり、ひとは、社会的生物となるのでしょう。

光(波動の一部分)の物理現象を媒介にして、眼からの視覚入力が脳でホリスティックに処理されて、外界世界をイメージとして認識するものでしょうか。
ひとまずは、そうやって、ひとは世界を認識しつつ、他者とかかわりつつ生きるのでしょう。

ずっと以前、新聞の切り抜きを大事にとっておいていました。
とある原始宗教が解釈する「世界」の図・・半分に縦に切った玉葱のような多層構造が描かれていました。
インターネットが出現したとき、仕事でインターネットの仕組みを学んだとき、この図を想起しました。最先端テクノロジーの思想が、原始宗教の思想と通じるのは偶然とは思えません。
シュタイナーの「アストラル体」「エーテル体」などを想起してもいいかもしれません。

カメラは、その誕生からずっと、この「世界」のイメージを切り取って動的イメージを静止イメージに一定固定する装置なのでしょう。

シャッターを切るという行為は、撮影者であるひとのこころが、脳から指の末梢神経に指令を出して実行するのでしょう。

ひとのこころは、奥深いもので、たぶん、意識的、無意識的に、この多層構造が作用しつつ、「写真」が成立するのでしょう。
したがって、撮られた「写真」は、撮影者の、この多層構造を担いつつ、撮影者から独立した、別のものとして「世界」の中に存在し、ひとり歩きすることになるのでしょう。

要するに、「写真」を撮るという行為は、閉鎖系生物システムであるひとが、その外界である「世界」「他者」と交流して非閉鎖系となることなのでしょう。
「ひと」と同様に、「写真」も、当初は、撮影者の多層構造を担いつつも、撮影者から独立した途端、独自の多層構造を担うものなのではないでしょうか。

だから、「写真」の価値とは、「美しい」「雄大」「カッコイイ」「コミカル」「ほのぼの」「インスタ映え」「教訓的」「アーチスチック」・・といった言葉で言い表されるのかもしれません。

しかし、なにか、そこに、客観的というか絶対的というか価値基準を欲しくなってしまいます。「美のイデア」って、あるのでしょうか。

わたしにとって「写真」の価値とは、「多層構造」にフォーカスしたスケールから「世界」とか「存在」とかの『根拠』にリンクした価値なのかもしれません。
わかりにくいですよね(T-T) 
自分でもよくわかってないからですm(__)m

暗室風景

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?