ゆらぎ 5 -あまりにもあいまいな(続編) 「出る杭は~」・・試練のはじまり
組合員の相次ぐ脱退の原因は、もうひとつあった。労災闘争で勢いづいていたが、労災申請が却下された。そのことも、大きな原因であった。支援してくれていた地域の某政党派の労組組織も次第に疎遠になっていった。
数人に切り崩された職場組合の会議では、「これからどうするか」が主要な議題だった。巧も会議に参加していた。
会社が行っていることは、明らかな労働組合潰しの不当労働行為であるということは、共通の認識だった。しかし、積極的に少数派組合を続けていこうという積極意見は、執行委員のうち、委員長、副委員長のふたりだけだった。他の組合員は、消極的だった。かと言って、積極的に「組合解散」を提起することもしなかった。なぜならば、そうすることは、委員長、副委員長ふたりの事実上の解雇を意味することをみんな熟知していたからだ。巧も継続派だったが、なにしろ、新入社員だったので、影響力は小さかった。
かつて、労災闘争でお世話になった、地域の某政党派の労組組織から活動家を招いて、学習会を開催したことも数回あった。しかし、組合継続の方針はなかなか確立しなかった。
結局、組合解散が大方の意見となった。組合の大会が、少数ながら開催された。その時、奇蹟的なことが起こった。病気で長期休職していたひとりの女性Mさんが職場に戻ってきた。彼女も組合員だった。
組合解散決議の組合大会の筈だったのが、Mさんのひとこと「続けましょう」で覆った。他の組合員たちも、内心、委員長、副委員長の職を奪うことになる決議に申し訳ないという気持ちがあった。それほど、この頃は、同僚ということ以上の人間的な繋がりの強い職場だった。
Mさんのひとことで、その気持ちが後押しされた。結局、全員一致で、組合継続が決議された。それと同時に、地域の某政党派の労組組織の全面支援を受けるべく、地域労組加盟も決議された。地域の活動家たちに対する、組合員たちの信頼が強かったこと、学習会の成果でもあった。
しかし、組合員の討論に参加していなかったMさんのひとことで組合員の意見が逆転し、かつ、統一されていった点の意味をもっともっと重要視すべきだった。
男性ひとりの巧が委員長を引き受けることになった。新入社員なので、攻撃されるのではと危惧する組合員たちもいたが、かと言って、委員長を率先して引き受ける組合員もいなかった。
堂々巡りの議論にならない議論の末、業を煮やした巧だった。この事実の意味するところは、小さくなかった。巧は、このことを、もっと重要視すべきだった。
巧の原風景が、巧を後押ししたことは事実である。もっと、大きな理由は、執行委員のひとりJさんが、「どうしたらいいかわからないわ。」と言って流した一滴の涙が、巧を突き動かした。
巧を委員長に、前委員長Mさんが副委員長に、前副委員長Iさんが書記長に、Jさんを含む前執行部のメンバーが新執行委員になった新体制の地域労働組合支部が発足した。地域の某政党派の労組組織が全面的かつ強力に支援した。
こうして、巧は、火中の栗を拾った。巧の人生が大きく変わった瞬間だった。
巧の幼児体験が強力に後押ししたとはいえ、大学でもノンポリ学生だったのに、巧には大きな負担だった。夜間働きながらだったので、学生運動に関わる時間もなかった。高専でも、そんな気配を示したら即刻排除されかねない雰囲気の学校だった。高専の授業は、当時かなり進歩的で、学生の発表授業が多く、「歴史」の授業での巧の発表内容から、危険視されてはいた。太平洋戦争は、経済利権を巡る帝国主義的侵略戦争だったと発表した巧に、教授は、「理念」を巡る戦争だったとコメントしたことがあった。体育の教授から「最近は、何を読んでるの?」と静かな声で聞かれたことがあった。巧は、咄嗟に判断して、当たり障りのない本のタイトルをあげた。当時、平気で学生に往復ビンタを喰らわす暴力教師だったので、巧は意外だった。
巧が組合委員長になった途端、職場の雰囲気が変わった。職場組合を解散に追い込めると踏んでいた会社および社外の組合潰しの労務コンサルタントの思惑が外れ、労働組合対会社(および労務コンサルタント)の対立構図がはっきりした。
巧の直属上司や、周辺の管理職の態度が一変した。ドイツ人管理職も、巧を見ては、ヒソヒソ何か話しこんでいることが多くなった。巧は、新入社員としては目立たない存在だった。それが、一躍職場の有名人になった。
組合運動が超多忙となり、登山はほとんど行けなくなった。毎朝、満員の通勤電車の中から遠くに見える丹沢の山並に見とれるばかりだった。
反して、Sの方は、冬山、ロッククライミングとこなし、ホンモノの山屋になっていった。
(タイトルフォト 大塚櫻)