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リビングリビールビルドリビドー

 夢に男が出てきたとする。その男は私でオナニーしているに違いない。そう気づいたのは保健体育の授業のことだった。私が小6でたどり着いた性知識をおさらいした。そこで思うに精子ひとつひとつが生命だとしたら、自慰の時に生まれた命は無駄にならないとしたら、どこで精子たちが報われるのだろう。古典の授業で「平安時代では夢に想い人が現れると両想いを確信するものだった」と教えてもらった。どうやって夢として思いを伝えるかといったらオナニーでしかあり得ない。オナニーによって行動に表すことで風が吹き桶屋が儲かりあの人の元へ思いが届く。そう考えたらオナニー、するしかないだろう。
 私には精子がないけど、オナニーは呪術と考えてもいいかもしれない。やることに意味がある。チョコレートに思いを込めて渡すことが様式ならオナニーだって完全な呪術だ。呪術でも基礎中の基礎だ。私の待ち人は遠い。バンドマンだし、手作りのチョコレートを食べさせる手段がない。手作りのチョコレートはゴディバより安くてみすぼらしくてみっともない。ましてやこのご時世毛髪入りなんて出禁案件だろう。地下アイドルに嫌いなものを送ってしまうと事案になるんだから、手作りチョコレートはだめだろう。というわけでオナニーをするしかないんだ。
 そう思って今日も股を一生懸命こすって呪っていく。私は一介のバンギャなのだが。大好きなバンドマンの彼を思い浮かべるも、股を弄りすぎてひりひりする。いく時はいつだって一人だ。一人だしもちろん独りよがりだけど最近はいくかいかないかギリギリだ。吹けばすぐにでも熱意は飛んでしまいそうだ。こんなに好きなのに、好きでいることで駄目になってしまう。そんな人生が私の身に降りかかりそうだ。でも、付き合ってるわけではないし。私は女子高校生だし。付き合ってたら淫行だし。あのバンドマンは売れてて私なんか眼中にないよ。
 バンドマンのツイートがどれくらいの密度で本当なのか嘘なのかわからない。もっとわかりやすくいうと、バンドマンの言ってることはどれくらいまで鵜呑みにしていいかすらもわからない。こんなに好きなのに、好きになって五年も経つのに、いまだにバンドマンへの向き合い方がわからない。これだけ好きなら、形を整えてファンレターにでも提出すればいいが、なにぶん不器用なものでインターネットで垂れ流している。エゴサに引っかかるようなツイートを連発して、どうにか知ってもらおうとしている。それに全霊力を奪われて勉強できない。すっかり馬鹿になってしまった。
 最近数学で2点を取った。まあ汚点は取るときゃ取るだろ。でも進路に影響した。進学校に通っていながら、入れる大学が見当たらない。でも探せばある。金さえ出せば入れるようなところ。素行が悪いわけではない。でもどの学部に興味あるかすらもわからなくて悩んでる。好きなものはなにかある? と聞かれて「キュアリビドーです」としか言えないのをぐっとこらえて、噛み砕いた末「音楽です」と言ったら担任は黙る。私だって、音楽はそんなに好きじゃない。授業で理論を教えてもらったけど役に立たないだろうし、ドイツ語の野ばらが歌えなかったからC判定だ。音楽が好きならなにが好きか。歌詞が好きなら文学部で歌詞の中のモチーフに関心を持てば哲学・社会学などいくらでもワープできる。でも私は何にも興味がない。ミシェル・フーコーもフロイトも、デカルトやキリストも、太宰も芥川も、キュアリビドーが引用してるから価値がある。指し示された意味が実際どうだったなんかどうでもいい。キュアリビドーが作った世界にしか興味がない。キュアリビドーの中の世界で生きていきたい。こちとら齢18にして人生やけくそなんだ。人生を爆破させるためなら犯罪以外に恋しかやることがない。私は人生に絶望している。私の前に人生が存在しない気がしている。青春して、就職して、みたいなライフスタイルがどうも用意されてない気がする。そんな中で人生を爆破するには株か恋か犯罪だろう。私は恋をやる。どうせならより汚い方法で。
 さて、高校三年生の秋である。大学に入ることでしか道は拓けないと思う。今から就職したところでコンビニの店員くらいだろう。曲がりなりにも進学校を出たというプライドがある。ただのフリーターとして生きるのはちょっと。これといった自信はないけど、言語化できない自負だけは確かにここにある。このままで終わってたまるか的な自負は。このままだったら直井侑哉と交わらない。言葉を交わしてない。ライブにすら行けない。直井侑哉とは。バンド「キュアリビドー」のリーダーかつフロントマンだ。

僕の夢は世界征服、ツイッターで世の中の建前を剥がしていく
 僕の夢はバイトを辞める、うまい方法があるはず
 僕は繁華街に行けば逝ける、どこもかしこも卑猥だと思う
 ほら そこにはチャットレディがいる、新宿本店

今日もスマホ内で眼鏡のモジャモジャの白衣が脳内で飛び跳ねる。このモジャモジャが直井侑哉で、十年前からバンド「キュアリビドー」を始めた。それまではVシネマのちょい役やちょっとしたイベントの司会をやってコツコツと仕事をしていたけど、元芸人仲間とやっていた音楽活動が芸人より成功するようになってきた。私が直井侑哉に夢中になったきっかけは、ネットで動画を漁って「電波系パンク」「統失パンク」「スピリチュアルパンク」というワードで検索していたらこのバンドが出てきた。今一番のお気に入りがこの「ロングロングツインテール」だ。この曲は実家でニートをやっていた時の直井が洋楽をパクって一日で作った曲でアンニュイな曲だ。その裏でギターとドラムとベースと打ち込みの管楽器が混ざり合うことなく血みどろに喧嘩している。治安の悪い通りを颯爽と歩くように直井はポエトリーリーディングしている。他の曲も似たような感じだが、この曲は特に切実な語りをしている。
 キュアリビドーは2015年に結成されたパンクロックバンドで、レーベルはインディーズのスプラッシュ!レコーズ、事務所はベースの親が運営するトーキングガスト。メンバーはボーカル作詞の直井侑哉、作曲とベースとギターの藤崎発人、ドラムで顔出しNGの菱沼謙太のスリーピースバンド。キャッチコピーは「スキゾチックパンク」。特徴は奇々怪々な歌詞、下手糞な演奏、コア層による圧倒的な支持、妄想で作られた世界観は聴く人を選ぶ。直井曰く「僕らみたいなのが売れたら日本は色々な意味で終わってる」。バンド名の由来は当時直井に口唇ヘルペスができて、風俗のせいだと考えた直井は早くこのちんこの問題から立ち直りたいという一心で「キュアヘルペス」と名付けた。それからもっと根源的に「キュアリビドー」とした。基本東京でしかライブをしない。ライブでは直井がずっと喋り続け、曲数としては4、5曲しか演奏しない。略歴は2009年、直井がピンでお笑いをやっている時にお笑いコンビ「北から南へ収束」のマネージャーである藤崎が何かやりませんかと提案する。藤崎は直井のツイッターのファンだった。2015年、藤崎の知り合いの菱沼が参加して本格始動する。2016年、自主制作で「スキゾチックバイポーラ」を販売。2018年「世界滅亡大作戦」、翌年世界滅亡大作戦ツアー(と言っても都内数箇所のライブハウスをめぐる)、2021年「俺だけ ep」、2023年「魔術惑星グーグルアース」からレーベルがついて発売するようになった。以上、ウィキペディアからの情報だ。
 最近かき集めているのはウィキペディアにない直井の芸人時代の情報で、調べる限り直井の芸人時代はめちゃめちゃくすぶっていた。どんなにネタを作っても披露する場が与えられず腐っていた。そんな中息抜きでやったバンドが成功し食べていけるようになった。その時を振り返るに「有り得ないことを信じ続けるという無謀な試みを支えているのは、無尽蔵にある根拠のない自信だ」と直井はインタビューで答えていて、私はときめいた。何も確実なものだけを信じている訳ではない。真実でないものを信じて良いのだ。それは希望なのだ。だから私は信じている。直井は私のアニムスなのだと。私のアニムスはいつか腐ったこの世界に爆弾を落としてくれる。私に爆弾を落としたように。
 私の生活で意識的に過ごしている時間はキュアリビドーのことを考えている時間ぐらい。ウォークマンで聴いてPVを脳内で再現したり、SNSやHPを見てリリース情報やライブを把握したり、ツイッターで曲についての感想を垂れ流したり、そういうのをやっているといつの間にかバスは最寄りに着き家に帰ったらご飯食べて寝る。その繰り返しでキュアリビドーを追いかけている内にすっかり一昔前の東京の地下芸人のことに詳しくなった。事務所の先輩の女芸人である乙原やい子はグラビアアイドル時代枕営業をやっていたが陰毛が臍の辺りまで生えているのでいつも断られていたとか、お笑いコンビ「南から北へ収束」のツッコミの四門という男は、「南から北へ収束」と一時期ユニットを組んでいた中の一人である女性芸人「てんとう虫うえの」と付き合っていたがお互いの風呂の水を飲み比べたり、互いの服を交換したり、人前でイチャイチャする時にはいかにダサい語りで愛を喋って公園にいる人を全員帰らせるかを日々やっていく内にうえのがピロリ菌に感染し、ギスギスしだして別れたにもかかわらず、未だにイチャイチャしているというどうでもいい話ばかり知って蓄積される。日本史で言うところの北条家の家系図とか源氏の家系図とかそういうの覚えないといけないけど芸人の話ばかり脳内メモリを食ってしまう。
 動画を邪魔するくらいの歓声が聞こえる。近くで盛り上がっている。彼は昨日夢に出てきた。席が後ろで、プリントを配るくらいの間柄で喋ったことない。その男子が、夢の中で意識ある私の死体をナイフとフォークを持って切り刻み、地道に食べ続けていく。女性器に差し掛かる時、ナイフもフォークも使わずに手掴みで子宮を引き摺り出して頬張るところを見ていると、冥利に尽きるような気持ちになった。この人のこと好きだったっけ? と思い始めていく内に夢は醒めた。あんな濃厚で性的な夢を見るなんて絶対こいつ私のこと好きだろう。はっきり言って私はあの男子をかっこいいと思ったことはない。だけどあんな夢を見てしまった。そこには何か意味があるとしたら、絶対こいつは私でオナニーしているに違いない。そう思いながら放課後を迎えた。椅子に座り、後ろの席を一瞥した。後ろの席の男子は月刊ムーを片手にカレーパンを齧っていた。2025年、タイムトラベルが10万で買えるようになった。ちょっと頑張れば好きな時代に行ける。ネットニュースより「人類は歴史を折り返す地点にあり、これから退化の世界になる」と伝わってかどうか知らないが人類は過去か未来かに拘ってばかりで今を実際よく感じられていない。芯を食っているのか食ってないのか私にはわからない言葉だ。後ろの男子が友達に言って聞かせることには、ムーによると人類はもっともっと人が嫌いになって孤独を極めていくようになる。それでもつがいを見つけた恋人同士は、どうやってデートをするのかと言うと夢の中だそうだ。ちょっと待って。君って夢に出てきたよね? 後ろの男子は相手の夢に出てくるおまじないについて検索して語る。自分の髪の毛を相手に食べさせたり、相手の名前をノートに千回書いて月夜で照らしたり、相手の声を録音して徹夜でそれを繰り返したり。バッカみてえだな、少女漫画の幼稚なやつだな、とかなんとか言ってるけど、君私の夢に出てきたよね? 後ろの男子がこっちを見た。私も男子を見ていたからわかった。目が丸くなった男子を見て、こいつはどっちなんだろうと思った。私で抜いたか抜いてないか。どちらにせよどうでもいい。私には後ろの席の男子より大事なロマンスがある。教室を出て、ウォークマンを点ける。

僕は彼女と話をして、コインを投げる。
 彼女は大学生だって。コンビニでアイスを三つ買ったらそれが夕食だって
 僕は世界征服をするための予定表を伝え、意見を仰ぐ。
 彼女はいくつか質問して、僕の作戦に賛成する
 僕の夢は世界征服。今日も新宿をパトロール
 僕の夢は市民を幸せに導く。新宿に大金をはたき二時間かけて帰る

いい曲だなあ。こんなにいい曲なのにみんな全然知らない。どんなに教えてあげたくても教えてあげたい人がいない。
 今日も家に帰る。そしてさっさと寝る。ベッドに向かう途中、父親の部屋が目に入る。鏡台の上にピンクのチラシ。……風俗だ! 父さん風俗に行くのか。最低だな……。そう思いチラシを手に取るとなんとタイムマシーンのチラシだった。一律、三回で10万円。高校の二駅隣のドヤ街のマンションの一室でやってるらしい。
「何やってるんだ」
 お父さんが帰ってきた。
「これ、どこで貰ったの?」
「母さんには言うなよ」
「これやりたい」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ」
「父さんは10万平気で使うじゃん」
「まあな」
「私だって10万円だけの鬱憤がある」
「タイムマシーンを買うのか?」
「お願い。お年玉で半分出せるから、5万は無理かな?」
「別に5万出してもいいけどな、絶対そのタイムマシーン偽物だぞ」
「父さんになにがわかんの。やってみないとわかんないじゃん」

私は父さんから5万円もらった。その足でバスに乗り電車に乗り継いであの場所に向かった。普通にマンションの一室。なんか床にでっかいシミがあって事故物件臭い。
「いらっしゃい」
「三回分、10万円です」
「こんな大金。普通の人でも出さないよ」
「タイムスリップしたいです」
「いつがいい?」
 いつがいいだろう。キュアリビドーのデビュー当時でいいか。あの辺の曲が一番好きだし。
「十年前で。ついでに、場所も指定できますか」
「……いいけど、どこがいいの」
「十年前の東京でお願いします」
「了解。それじゃあいってらっしゃい。サービスにコーラどうぞ。そこの扉を開けて、眼鏡をかけて、ゆっくり休んで」
 私は瓶入りのコーラを持たされ、言われた通り扉を開け、部屋に入った。鏡張りの部屋の中でミラーボールが光っている。サングラスのような眼鏡をかけて、コーラを飲みつつ体操座りで待っていると、目の前がフラッシュした。私は時空空間の縫い目を掻い潜り、宇宙を彷徨い、加速して、消えるか消えないかの光になり、その勢いのまま進行を逆に変えた。黒い渦に飲み込まれて、黒い靄でしばらく耐えていた、やがて通り抜けると、目の前に意識が戻ってきた。

今私は繁華街のど真ん中にある公園の、公衆トイレの前にいる。ぼんやりしていると、モジャモジャが出てきたのでハッとする。直井だ。直井を追いかけないと。
「すみません! 直井侑哉さんですよね」
「いかにも。あれ君見ない顔だよね」
「未来から来ました」
「ははは。面白い子だ」
「そうですか。ご飯奢ってください」
「ふざけるなよ。君って高校生?」
「まあそうです。直井さんにお話を聞きたいです」
「歌詞で書いたこと以外何も考えてないぞ」
「じゃあ歌詞大体覚えてるんでそこから質問してもいいですか。私未来から来たんでお金の種類が違うからご飯食べられません。ペイペイってあるんですか」
「ペイペイって何。へえ。でもサイゼリヤしか連れていけないぞ」
「なんだっていいです。コンビニのおにぎりでもいいです」
 サイゼリヤは見つからず、ロイヤルホストになった。
「何時までですかね、ここ」
「いやいや大丈夫でしょ。君はどうなの」
「いつまでいられるかわからないですねえ」
「まあ、ジュースくらいなら頼んでいいよ」
「わかりました。早速ですが、本題に入らせていただきます」
「何本題って」
「キュアリビドーの歌詞って悪魔から精液を搾取されたり、誰かに思考を読まれたり、逆に読んだりするじゃないですか」
「はあ。それがどうした」
「あれどこまでリアルでどこまでファンタジーなんですか」
 直井はよくよく考えてざっくばらんに言った。
「そういうの言えば言うだけこっちは損だな」
「教えないんですか」
「そっちで補ってよ」
「じゃあ。せめて悪魔的介護の歌詞はどう解釈すればいいんですか」
 ちなみに「悪魔的介護」の歌詞は以下の通りだ。

黒い渦の中に/何度も飲み込まれ/生き返る/そういう定め/当たり前の経験を手に入れる前にすり抜ける/僕に悪魔が憑いている/真っ黒な濁流は/僕の生命を掠め取る/そういう定め/血腥い定め/僕は抗わない/終わらない定め/終わり方がわからない/それがあんたの為なら/本当は駄目だけどね/今までうまくいったことあるか?/初っ端で挫かれる/僕には悪魔が憑いている/じめじめした湿気に覆われて僕は射精する/血腥い定め/今は抗わない/もうそろそろ終わる/そんな気がしている/あなたはもう長くない/だったら最後まで付き合う/本当は駄目だけど/血腥い定め/最後に一つだけ/僕はパパに似てたかな/それだけだろう/あなたはもう死ぬ/最後を看取るのは/この僕しかいない/さっさと死ね

「どう解釈してるの、今のところ」
「親子の話かと」
「普通そうだろうね」
「違うんですか」
「なりたい自分を描いただけ。実際うちは普通だよ」
「なんで近親相姦になりたいんですか」
「見たことない? 虐待されている人」
「私友達いないからわからない……」
「虐待のある人生を送っている人はセクシーだよ」
 そういわれてもわかるようでわからないようでわかるような。小説とかで虐待がモチーフになっていると、登場人物に魔力が生まれる。そういうのはわかる。
「角川さんは毒親みたいですしね」
 そういうと直井はしいん、と黙った。そして怒った。
「5ちゃんねるを見るな」
「鈴鳴館、名門ですよね」
 ちなみに補足しておくと、直井の初恋は高校時代で、同じクラスの角川夏生という昔グラビアアイドル、今は女優の人だ。高校時代からその初恋は引きずっていて、歌詞を見ると「これ角川さんのことなんだろうな」というのを感じる。当時から厄介行動を起こしているようだが、なんでか事案化されていない。その辺も聞いてみたかったんだよな。
「角川さんって元カノなんですか? それにしてはエピソードが少ないような気がします。あんまりいい思い出なさそう」
「うるせえなあ。知りたいこと大体わかってるじゃないか」
「はあ。なんか。不毛な恋ですね……思い入れがあればいるほど」
「はー? 初恋って大体不毛だろう」
「報われないんですか」
「君は報われたのか?」
「わからない……」
「なんでわからないんだよ」
「初恋してないからですかね」
「そうかあ……」
実際は。初恋と呼べるものがあるならキュアリビドーだとして、キュアリビドーにさっさと振られたいんだけど。どうやったら打ち砕かれるかわからない。
「直井さん麦茶とサイダー混ぜるの好きですよね。持っていきます」
「十年後も好きなのか?」
「十年後もあんまり変わってないと思います」
 実のところ、2021年に出したCDで角川夏生に対する気持ちは方向転換する。というのも角川夏生が前年にカメラマンと結婚したからである。まあ離婚するんだけど。
 麦茶を注ぎ、ジンジャーエールを注ぐ。ジンジャーエールの注ぎ口から黒い靄がなだれ込み、私を包んだ。

「お疲れ様。これスタンプカード。今日は一回目ね。あと二回来るとしたら一年以内にお願い」
 家に帰るまでの間じゅうスタンプカードをずっと握りさっきまでの光景を噛み締めていた。やったぜ。直井に近づいた。私は今までにない軽い足取りで帰路に就いた。夕食はハンバーグ。弁当屋のハンバーグは筋だらけだ。でもしあわせ。私しあわせ。
 その夜は眠れなかった。オナニーしてセロトニンが出たとしてもタイムスリップで得たドパミンには勝てない。

次タイムスリップするならいつにしよう。どうせなら直井の人生が変わった瞬間に立ち会ってみたい。直井が直井であることを決めた日に。例えば直井が初めて風俗に行った日とか。例えば藤崎さんが直井に惚れたライブの日とか。一番、一番これだという日は、直井がお笑いコンテストに出た日。直井が高校三年生の受験に差し掛かるかどうかの日。その一日で直井はスベったりウケたりした。それから四年が経ち、直井は芸人を目指すようになる。次タイムスリップするなら、二十年前くらいがいいだろう。
 しかしタイムスリップするなら今日ではない。昨日の今日で興奮して風呂に入るのを忘れてしまった。風呂に入ってない体たらくでタイムスリップしたくない。だけど今すぐにでもタイムスリップしたい。ああ。体育で高校の名物ダンス踊りたくない。和子ダンス踊りたくない。たまにやる気出してキレキレに踊ってみたりするけどガラスに反射した自分に絶望する。アイドルになれない。なれると思ってないけど、未来の可能性がふさがると機嫌悪くなる。必修科目を思いっきりダンスして、ダサいなんて、恥ずかしいなあと思う。
 体操着を脱いでにおいをかいだら、風呂に入っていない臭いがして嫌になってきた。これから古典の授業は寝て、英語は授業と予習を同時平行して、掃除ののちホームルームでタイムスリップするかどうか悩もうと思う。今のところ行かないほうがいいと思う。昨日の今日だし。今日行ったらあと一回しか行けなくなる。
「おうおう丸山さん、進路のこと考えてますか?」
 担任のやたらおっぱいがでかい国語教師は私の進路をどうにかしないと肩の荷が下りないらしい。この人もあれなんだよな。私と一緒くらいの年齢の息子がいて、塾にやって、大学厳しいラインかなどうかなっていう状況なのをクラスメイトが噂してた。そんな状況なのに「おうおう丸山さん」なんてよく言えるなあ。まあ、担任の息子よりヤバいのは私だけどなあ。
「高卒でフリーターってヤバいですかね。地元のコンビニとかで働こうかと」
「この高校のフリーターはあんまりいいもんじゃないよ」
「でも私の成績で大学行けないじゃないですか」
「理系は無理って話よ。私立文系なら近所のあそことかいいじゃない」
「でもめぼしい学部がない」
「大学にはこだわりないって言ったじゃない」
「つまんないところには行きたくないです」
「あんたねえ。高卒でフリーターなんかもっとつまらないよ」
「職業に貴賤つけていいんですか」
「こっちは職業じゃなくてあんたを見て言ってんだよ」
 なんか厳しいことをいつも言われる。この担任は私のこと人として好きじゃないんだろうな、話しててムカつくだろうな、というのを感じる。なんでなんですかね?
「放課後話しましょう」
「えっ、何を話すんですか」
「あなたの親御さんとか見てると何も言われてないみたいだから、誰かが言わないとあんたはわからないと思ってだね。あんたには何がいいのか一緒に考えます」
「え~、先生に何がわかるんですか」
「はあ? 何もわかる訳ないだろ」
 古典の時間はマークシートで絵を書いて、英語の時間はぐっすり寝て、掃除は丁寧にやって、ホームルームで即決した。私は学校を出た。現実逃避になるのかもしれないけど、私は現実に向かって挑んでいるつもりだ。タイムマシーンを使って。地元の大学にいても仕方ない。キュアリビドーに関われないことには運命は開かない。とにかく待つのはもう嫌だ。向かっていきたい。

バスに乗り電車に乗り継いでまたあの場所に向かった。
「いらっしゃい」
「タイムスリップしたいです」
「いつ?」
「二十年前の東京で」
「了解。それじゃあいってらっしゃい。これサービスのコーラ。そこの扉を開けて、眼鏡をかけて、ゆっくり休んで」

言われた通り扉を開け、部屋に入った。時空空間を掻い潜り、宇宙を彷徨い、加速して、光になり、進行を逆に変え、黒い渦に飲み込まれ、「風呂入ってないんだけどなあ」と思いながら黒い靄を耐えた。やがて通り抜けると、目の前に意識が戻ってきた。

裏庭の井戸から抜けて、直井を探す。職員室の隣の面接室で、直井は七三分けのがんもどきみたいなおっさんと懇々と進路指導されていた。直井の第一希望は東京藝術大学だけど、学部が美術学部と音楽学部があるがコントで大学に入りたい直井は担任に第一希望を却下された。直井はどうしてかNSCに対して否定的だ。吉本興業の仲間ありきのキャリアの積み方に疑問があるというのを担任に話していて、あまり伝わってなかった。でも直井は人力舎に憧れているだけだろう。結局NSCに入ることになる。担任は直井の英語の点数を褒めて、地元の私立を勧めた。
「バイトするにせよ、普通の大学入ってからだな。普通になりなさいよ」
「それじゃあ、追いつかない……」
「はあ?」
「角川に追いつかない」
「お前さあ、角川んちの周り徘徊するのやめろ」
「なんで知ってるんですか」
「クレームが来てる。同じ高校の制服のやつがいるって。角川に執着するやつ、お前くらいしかいないだろ」
「はあ……まあそうですが」
「確かに角川は芸能界入るくらいには可愛いけど、嫌なやつだよ」
 へえ。角川夏生って嫌なやつなんだ。おっぱいがでかくて、世渡り上手ではあるけど。どう嫌なやつなんだろう。
「僕しか、角川を救えないような気がするんです」
「それはいい根性だ。でも実際直井は角川に嫌われてるじゃないか」
「確かに、携帯は着信拒否されてるし今何してるか公式ツイッターでしか知らないですけど、あの人の秘密知ってるの僕だけだと思う」
「秘密って、例えばどんなこと」
「先生はわからないですかね。三者面談とかで感じたりしませんでしたか」
「家庭事情は複雑だけどそれだけじゃないのか」
「角川は虐待されてるんです。誰かが彼女のカルマを癒さないと」
「本当すごい根性だよね。そうだとしても直井じゃ無理だよ」
「なんでですか?」
「直井、君は考えすぎてる。角川のこともだし、進路のことも。もしあれだったら教育大学どうかな。コントやりたいんだろ? ここの演劇部有名だから」
「うーん今は、考えないです」
「考えてくれよ~」
「もうすぐコンテストですし。これくらいしか僕のリビドーをリビールできないんですよ」
「あっそ。リビールって何」
「発露するとか、そんな感じです」
「数学教師だからわかんねえよ。ネタはできてんのか」
「まだです」
「いいかげんにしろ。帰るぞ」

その後も直井はネタを作る気配もなく、ドトールでヨーグルトティーを飲み干していた。一時間経っても何も変わらない。ここで勇気を出して話しかけることにした。
「あの、直井侑哉さんですよね」
「は?」
「未来から来ました。あなたのファンです」
「ああ、それはどうも」
「ネタ、書けませんか?」
「ネタはあります。ただどれもイマイチなだけで」
 直井のネタ帳を一瞥してみる。『袋とじから捻じれはらわた』『虐待からの下剋上』『トラウマと幸運』……。う~ん、なんというか角川夏生に縛られている。
「未来のネタ、教えましょうか」
「あの、僕って面白いんですか?」
「私は面白いと思っています」
「そうか」
「でも、二十年後も認められてるとは言えない」
「そうなんだ……」
 直井は落ち込んだ。私はいつタイムスリップが終わるかわからないのでヒヤヒヤしていた。早く行動しないと直井のコントが見られない。イマイチでもなんでもいい。とにかくスベったりウケたりしてほしい。思えば直井のコントなんて角川夏生に捧げたものでしかないのはわかりきっている。『枕営業』とか恐らく直井にとっての角川のドキュメンタリー映画だと思うし。――――『枕営業』というネタは直井扮する女子高生が業界のタウンページを片手に片っ端から電話をかけて枕営業を売り込んでいく話だ。途中で「度胸試し」と称された野球賭博に巻き込まれて内臓を賭けたり、酵素ドリンクの会社に売り込んで、ドリンクを飲んだ結果甲状腺が肥大したりする。そういうのは、角川夏生が黒い噂の人と交際報道があったり、酵素ドリンクの宣伝をやったりしているからなのだが。そういうのもっと面白くできないかなと思う。ちょっとモチーフを変えてみたら、とても面白いネタだと思うのに。
「あの、僕のファンの方でしたら、名前を言ってくれれば覚えます……」
「え。そんなあ。迷惑だったら出禁ですよね」
「いや、出禁にはしないので、とりあえず名前を……」
「丸山真和です」
「しんわ……?」
「地元ではしんわっていう消費者金融があって、父親が好きだったんで語感だけいただいたみたいです」
「変な名前だなあ」
「嘘です」
 あながち嘘ではない。しんわという語感になぜか居心地の良さを感じるなあ、と思った父親はある道路を車で走っていると取り壊されていない看板に「しんわ」と書いてあるのを見て血の気が引いたそうだ。そして私の名前になった。
「丸山さん、僕の未来のネタどんな感じなんです?」
 私は脚色しながら直井に伝えた。それから私たちはファミレスに行き、徹夜して、朝を迎え、直井はコンテストに出場した。ファミレスの間、ずっと直井がぶつぶつ台詞を唱えるのを眺めていた。まさか一日で仕上げるとは思わなかった。番号を呼ばれ、直井は寝ぼけ眼でステージに上がった。

「コント、枕営業!」
 開口一番に叫び、コントが始まった。
「あ~あ、つまんないな。田舎はつまんない。あたまのわるいやつらしか元気がない。こんなところさっさと出ていって、東京に行きたいなあ。東京に行ったら、たくさんやくざな仕事して、お金もらって、全部ウニに換えて毎日食べたいなあ……」
「ここではないどこかへ行くためなら私はなんでもやる。風俗だってストリッパーだって。おや、河原にエロ本ならぬタウンページがあるぞ。しかも真っピンク。どれどれ……。これは業界のためのタウンページです、この本の番号一覧に電話をかけると仕事がもらえます、だって。事務所とかにつながるのかな……」
「まずはモデル事務所から始めよっと。うわ~たくさんある。聞いたことのあるところから電話しよう。ピポパピポパ。ぷるるるる。あ、もしもし、私芸能人になりたいんですけど。あ、切れちゃった」
「ここならどうだ。ピポパピポパ。ぷるるるる。あ、また切れちゃった。ここならどうだ。ピポパピポパ、あ、もしもし。私芸能人になりたいんですけど。え、スリーサイズですか。上から81・57・85です。今、高校生やってます。顔ですか。顔はわかんないけど、どことなく三浦理恵子に似てるねと言われます。え、合格ですか。ありがとうございます」
「今、人員不足なんですか。欠員の代わりに今から枕営業に行くんですか。そんなあ。事務所にちゃんと所属してないじゃないですか。契約書もない」
「とにかく今困ってるんですね。わかりました。どこに行けばいいんですか? 真田組ですか。私でもわかります。やくざですよね。そこの乱交パーティーに行くんですか……。私高校生ですけど大丈夫なんですか? そういう子いっぱいいる? いいんですかそんなこと言って」
「真田組ってどこにあるんですか? あ、私の高校のすぐ近くですね。えへへ、結構頭いいでしょ。そこで待っていればいいんですね。そこでここの事務所の名前を出せばいいんですね。わかりました。制服のままでいいんですか。本当ですか。わかりました。あ、わかりました。それではどうも」
「……なんだか大変なことになってきたな。やくざとか怖くて仕方ないよ。でも大丈夫、私には白馬の王子様がついてるもん。王子様がいつも守ってくれる。私は白馬の王子様を探すんだ。来た道を戻って、ここをこう曲がれば、見つけた。真田組」
「ピンポーン。すみませーん。あれ。誰もいない。すみませーん。あのう、ガバライズのものですが……。あれ?」
「……あ、すみません、真田組の方ですか。なんだお前と言われますと、私は、ガバライズプロモーションから言われてきたモデルなんですけど。そんな用事はない? 今からパーティーやるんですよね? 違うの?」
「今野球賭博で忙しいんだ、姉ちゃんが野球拳やってくれるならチップをあげるけどな、って言われましても。私モデルになりたいんです。どうにかしてくれませんかね? これあげる、って言われましても。要らないですよタバコなんて。タバコでも吸って飛んでみなと言われましても。ガハハガハハと笑われても困ります。テレビに出してください」
「……出てけ? ここはおこちゃまが入るようなところじゃない? わかりました、ではこのタバコは返させていただきます。ええ……。もらっとけと言われましても。枕営業がしたいなら、この近くに青汁の会社があるんですね? わかりましたそこに向かいます」
「嫌な思いした。なんなんだよガバライズって嫌な会社だな。地下鉄に乗って乗り換えて、しばらくしたところに次の会社があるけど、全然近所じゃないじゃん」
「あーあ。外真っ暗。こんな時間になったら寒くなってくるし。地味に交通費かかるし。最悪。帰りにケーキ買って帰ろ」
「ずいぶん辺鄙なところだな。すみませーん。ごめんくださーい。CMに私を出してくれませんか? でも、こんな小さな会社がCM作れるようには思えないなあ。ノニジュースってなんなんだろう。ワニジュースかよ」
「あ、この会社の人ですか。こんばんは。CMってここやってるんですか。やってないけど、ポスターとかは駅に貼ってるんですね。もしよければそのポスターに私を使っていただけないですか?」
「なんで有名になることに執着しているのか、疑問なんですか。ええと。私は、ずっと白馬の王子様がいると信じているんですね。私をしあわせにしてくれる人がこの世の中のどこかにいるんです。その人をあぶり出すには、私が有名になるのが手っ取り早いじゃないですか」
「え、僕が白馬の王子様になってあげようか、ですって。やめてください。私の何があなたにわかるんでしょうか。冗談ならやめてください、え? でも僕にはわかる? 君が親に虐待されていることも。家から早く出るために白馬の王子様がいることも。なんでわかるんですか? 秘密? 僕には君のすべてが見える? このノニジュースを飲んでいるから?」
「私も、ノニジュースを飲んだら白馬の王子様のことがわかるかな? 本当に? わかりました。じゃあまず瓶一本ください。5000円? 出せます。また来ます。今度はお父さん連れてきます。それでは」
「帰りにケーキ買うどころじゃなくなったけど、ノニジュース、飲んでみるか。……なんか変なにおいする。雑草で作った泥水を一晩寝かせたような。……まず。でもドラクエの薬草とかこんなもんなんだろうな」
「あーあ、慣れてない路線の電車に乗ったから乗り継ぎ失敗しちゃった。お腹空いたしお金ないし最悪。っていうか、ノニジュース飲んでも何にも変わらないんだけど」
「ぷるるるる。あ、ガバライズプロモーションからだ。もしもし。真田組の件ですけど。あれどうなってるんですか。相手にしてもらえなかったんですけど。え、なんの話と言われましても。モデル事務所じゃないんですか? えぇ……これテレクラなんですか……。今から2万でと言われましても。うーん。でも、ケーキごちそうしてくれたら考えます」
「ありがとうございました!」

直井はスベってもないしウケてもないが、一部の他の出場者に比べたら客を切ない気持ちにさせることなく、つつがなく演じきった。歴史的光景に立ち入ったことで悦に浸っていると、直井が心底がっかりした顔でギャラリーの方に来た。
「未来からネタ盗ってきて賞獲れないのはまだしも、ウケたかもスベったかも何にも手ごたえがなかった」
「未来もそんな感じだから大丈夫ですよ」
 もうすぐ未来に帰る頃なのだろうなと感じているけど、いつ目が覚めるかわからない。できればその前に聞きたいことはないだろうか。今のうちに直井の秘密を聞き出せないだろうか。
「俺、普通の大学行くよ。地元の」
「え、いいじゃないでしょうか」
「なんかさあ。俺って普通なんだと思った」
「ええ~……」
「何。え~って」
「普通とか普通じゃないとかの次元で悩んでほしくないです」
「じゃあ、芸大行くのか?」
「そのままで居てください」
 そのままでいるために逆算したり努力したりしてほしいです。そうじゃないと私のもとに転がり込まないから。
「はあ? このままでいるのか? 耐えられないよ。角川に辿り着かないと。あいつ女優になるつもりだ」
「角川さんなんか大したことないです」
「なに急に怒り出してるの」
「怒ってないです」
「だったらなんで怒鳴るの」
「私はただ、未来に来たからには、直井さんが未来に辿り着くまで火を絶やしちゃダメなんです」
「はあ、なるほど」
「……………… ………………………… ……………………………………………」
「? 何?」
 言えない。はっきりとここまで、「角川さんとかじゃなくて私のもとに辿り着いてくださいよ!」と言いたかったけど声がでない。喉がひゅうひゅう鳴るだけ。あまりの突然の吃りに涙が出てくる。直井はうろたえる。涙で世界が滲んでいくと、タイムスリップの光景は溶けてなくなって、現実に戻った。あんなに泣いたが顔は汗でしか濡れてない。
「お疲れ様。スタンプカード返すね。次で最後だから」
 次タイムスリップしたら、直井に告白しようと思った。過去に二回会った私を覚えてない訳ないだろう。あれ? 直井と会った一回目、私は「誰だお前」と言われた気がする。

不吉な予感は当たる。っていうか、最初から気づけよって感じだけど。
 キュアリビドー(直井、藤崎)がYouTubeでラジオを月一で配信しているのだが、今月は遅れて更新していた。その前に、最近角川夏生が覚せい剤所持で逮捕されていた。報道で秒殺で流されるのを横目に、私はバスの中でYouTubeを開いた。
「最近ラジオサボってますね。なんですか。皆さんやる気ないんですか」
「いやいや、直井さんが一番やる気ないんでしょう」
「それはそうですね。僕、なんでか忙しいんですよ」
「特にリリースも仕事もないのに(笑)」
「はい。いや、ね。心中お察ししますみたいなメールよくくるんです。というのも僕角川夏生さんと同じクラスだったんですよ」
「ああ(笑) 好きだったんでしょう」
「そこなんですよ。僕角川さんに好きとか嫌いとか思ったことない」
「ストーカーするくらい好きだったんじゃないんです?」
「ぶっちゃけますと、今だから言えるけど角川さんのいたグループにいじめられてたんで変なこと思われたくない一心でしたよ」
「え(笑) いじめっ子なの」
「正確に言えばいじめっ子の彼女的な」
「鈴鳴館でしょ? いじめあるの」
「正確に言えば希釈したいじめ的な。僕は何かと過敏だったのもありますかね」
 なんか、話が違う。今まで私が獲得してきた経験と全然違う。しかも、ラジオではこうだけど……、みたいなトーンじゃない。
「たまに5ちゃんねる見るけどすげえ角川夏生が話題に出るよね」
「そうなんだよ。意味わかんなくて。申し訳ないのもあるけど」
「問題行動あったらなんもできるわけないのにね」
「ほんとそう」
 私はタイムスリップの疑問はふっと忘れて、得も言われぬ多幸感に浸っていた。好きな人が普通の人であると嬉しい。もっと最悪の状態を考えていた。
 だけど母さんに十万円の出費について詰問されることになり、タイムスリップに関して詐欺じゃないかと思い始めると腹が立ってきた。と言ってもあのおじさんを問い詰める気にはなれず。せっかくだしあと一回分使っちゃおうかと思った。

「いらっしゃい」
 あの、ここヤバいところですよね? と言いかけて飲み込んだ。タイムスリップを商売にしているのであればその時点でだ。
「十年後で」
「了解。それじゃあいってらっしゃい。コーラを飲んで、そこの扉を開けて、眼鏡をかけて、ゆっくり休んでって」
 あの、コーラに何か入ってますよね? そう喉まで出かかったのをぐっと堪えた。コーラをよく味わってみよう。

私は瓶入りのコーラを持たされ、言われた通り扉を開け、部屋に入った。サングラスのような眼鏡をかけて、コーラを飲みつつ体操座りで待つ。コーラの味だが、漢方を感じるような。大麻とかだったらどうしよう。
 目の前がフラッシュした。宇宙を彷徨い、加速して、消えるか消えないかの光になり、その勢いのまま進行を逆に変えた。黒い渦に飲み込まれて、黒い靄でしばらく耐えていた、やがて通り抜けると、目の前に意識が戻ってきた。私は未来へ着いた。

未来の私は今と何にも変わってない。まあこれは所詮バッドトリップであってタイムトラベルではないのだからそれはそうか。未来の私は寝間着でスマホを弄って渋谷のスクランブル交差点を徘徊していた。人々は私の体をすり抜けていき、幽霊にでもなったのかと思った。十年後、私は二十八歳になる。二十八でこの存在の透明感は不気味なのかもしれないが、なにぶんまだ高校三年生なのでその実感がわかない。ニートないしはフリーターであること、自分という生涯をまっとうするための、土台となる財産のあてが固まってないのはまずいことであり、そりゃ心配性な世間から毎日広告や景色や顔色などで物申される。親の金でどうにかなる自信があるなら適当に流していくが、金あるんだろうか。そうだ、私大学に行くなら奨学金借りなきゃいけないかもしれないんだった。それでフリーターやんの? まあどうにかなるだろう。高校三年生の私だったらそう思う。最悪お母さんがなんとかしてくれるはず。
 渋谷を彷徨うと、ライブハウスのような建物がいくつもある。この中のどれかにキュアリビドーがいるはずだと信じていて、片っ端から覗いていく。ここはガールズバンド、ここは白塗り、ここはアイドル。なかなか辿り着かない。財布の中には百円玉が無限大にあって、ドリンクを頼みまくる。チケットはないけど透明な体で裏口から入れば客として成立してしまう。酒を飲んでも味がよくわからん。酒のせいか歩き疲れたからかわからないけど、ぐったりしてしまいライブハウスの隅っこでうずくまり、それでも居心地が悪くて移動していたら外に出た。空き瓶の掃きだめの隣で、寝間着の上にダッフルコートを着て眠る。
 雨が降って、より寒さが増す。ライブも終わり人気がなくなってきた。私は寒くないんだ、なぜなら存在が透明だから……と自分に言い聞かせていたら、人がやってきて、ゲロを吐いているようだった。ふらふらとした足取りで直井はこちらにやってきて、私を見つけた。
「この酒はな、ベッドされた金なんだ。吐いては浴び、吐いては浴び……。俺ももう年だな。リバウンドしている」
 直井は四十八になっているはずだが三十八の現在となんら変わらない。戯言を言っているのは酔っぱらっているからだろう。キュアリビドーは十年後成功しているのだろう。成功している世界線で悩んでいるのだろう。
「そこの姉ちゃん、失恋でもした? 何もかもに疲れているよ」
 その言葉そっくりそのまま返してやりたい。多分直井が失恋して、疲れてるんだと思う。私は幽霊だからなあ。幽霊が見えるってことは相当摩耗していると思う。
「僕も君みたいな時期があったよ」
 ああ、大学卒業からバンド始めるまでのことを言ってますよね。とは言えなかった。ちなみに二十八歳くらいまでを指す。確かに私くらいの年齢だろう。
「大丈夫かい? どうせなら楽しくなろうよ」
 そう言われて渡されたのは銀紙にくるまれたチョコレートだった。
「これはチョコレート。禁じられたチョコレート。虫歯がひどくなる。でも所詮砂糖だ、僕も食べてる、何かあったらガムで歯磨きすればいいよ」
 実際包み紙を開けてもチョコレートだった。ひとかけら食べてみたら一気にぶっ飛んだ。甘くて苦くて辛くて渋い。ハーブで人生とは何かがわかるというのを聞いたことがあるけど、実際ハーブじゃなくてなんでもいいんだろうな。ドトールのブレンドとか大きなメロンパンとか、スイカとかリンゴとか桃でも。チョコレートひとかけらで人生を極めた私は確信した。私は今魔法を手に入れた。しばらく無敵だ。
「わかっただろ、ただ楽しいことをやろう。恩とか情は要らない」
 私は直井に気に入られ、キュアリビドーの裏方として雇ってもらうことになった。実際に何をやるのかというと、普通直井がやってると思われていることを全部やることだった。例えば歌詞を書くとか、インタビューの文言を考えるとか。きっと直井はチョコレートにまみれて機能しなくなっているのだろうと推測できる。

「新曲書いた?」
 さっきから何度も直井から催促がくる。私は慣れないことばっかりでモタモタしている。
「すみません、まだ一行も書いてません」
「まあまだ時間はあるから。これ前払いになってて昨日入金したんだけど、確認できる?」
「うわ、初任給くらい貰っちゃってますが、いいんでしょうか……」
「そういうもんだから、気が引ける前に歌詞書いときなよ」
「すみません、直井さんに拾っていただいて、本当に感謝しています……家まで用意してもらって、やっぱり家賃は報酬の四分の一くらい払います」
「そんなにかしこまらなくてもいいし、尊敬しなくていいよ。でもしょうがないかな。君は感じないの? この間は楽しかったけどさ」
「え、感じるって、何をですか?」
「悪い予感というか」
「……? なんていうか、全能感を獲得できた気がしましたけど」
「あのさ、今楽しいのは君だけだよ」
「え、なんか、ごめんなさい」
「でもそれはそうだよね。だけど次チョコレートを食べるまでに何をすべきか考えなくちゃ」
「と、言いますと……?」
「ねえ本当に何も思わないの? わからないならそれはそれで」
 直井からの連絡が途絶え宙ぶらりんな気持ちで創作に挑むと、ニュースが飛び込んできた。スプラッシュ!レコーズの社長が詐欺で捕まった。どうもヤクザが絡んでいるらしい。私はあのチョコレートは文字通り麻薬だったのだなと感じた。まあこの件はその程度で済んだが、これから私はキュアリビドーの実態を知ることになる。
「これ、君に渡すわ。僕になったつもりで歌詞を書いてくれるかな」
 後日、直井からそう言われて盗聴器をもらった。そこから(直井になったつもりで創作すればいいんだ)ということがわかり、歌詞を上げることができた。

僕たちは魔法を手に入れた
 しばらくは無敵だ
 今とここだけ感じてろ
 とにかく楽しくやろう
 そのためには何でもする

やっと君は気づいた
 二度と元には戻れない
 不吉な予感を払って
 ヤクザな道を選んだ
 とてもヤクザな道を

わかっただろ
 恩とか情は要らない

キュアリビドーの日常は慌ただしい。昨日はインタビュー、一昨日はラジオを撮りためて、今日はプロモーションビデオ撮影である。私はインタビュー前に戦略を立てて指示し、撮影の様子は盗聴器で聞き、映像はYouTubeで確認する。

カメラの中心が白いスニーカーを捉える。スニーカーは履かれて、地面に貼りついて離れると、靴の裏にのっぺりとしたキスマークがついている。

僕はここにいる
 こっちを見てくれ

「私」は無視する。キュアリビドーはアパートの屋上で演奏する。

見てくれとは言ったが
 見ないのが正解だ

夕方になり、夜になり、朝になり、夜になり、キスマークはどんどん増えていく。

こっちを見てくれ
 しかし見てはいけない
 見たらおしまいだ

キスマークはスニーカーにとどまらず、部屋の四隅やトイレットペーパー、スケジュール帳や食パンにパープルピンクがぼとっ、と落とされている。私はそんな日常に嫌気がさしている。

知ってるよ、君は笑顔が素敵だって
 でも見てはいけない
 恋が始まってしまうから

朝目が覚めると、寝間着の脇腹や太ももにキスが落とされている。夜中に魘されると、寝間着が真っピンクに。不安で眠れない中、音楽が鳴りやまない。

君のこと
 かなり前から知ってるよ
 君の取り巻くすべてを
 眺めてにやにやしている
 事前にわかっているのさ
 君の手数は

バンドの演奏が一区切りつくと視点は私に戻る。

僕はここにいる
 こっちを見てくれ
 今日は迷いがあるね
 集中力がないよ
 こっちを見てくれ
 しかし見てはならない

私は口紅で染まったスニーカーを履いても誰も何も言われない。仕事をして、仕事を終える。家に帰ると壁が白くなくなっていて一面にキスマーク。
 中には血が滲んでいて日記の文字は全部誰かの言葉にすり替えられて、作り置きしていたコンソメスープに二つの指輪が一本の赤い糸で結ばれている。

おっと
 僕が君を見てしまった
 僕は笑いをこらえる
 恋が始まらないように

サビに入る前に、クローゼットを開けると、昔殺しておいたはずの神様が体操座りをしてこっちを睨んでいる。

君のこと
 かなり前から知ってるよ
 君は知らないだろう
 君がした一つ一つを
 僕は思い出しにやにやしている
 大体網羅しているのさ
 君の行動は

神様が意図を示してもこちらが採用しなければただの雑念でしかない。私は神様に空気を入れて温めて復元する。神様はいいことをしても悪いことをしても変わらない。ただクローゼットに居座るのみである。神様は生きている以上汚くなっていく。私がキスをしても、舌が歯垢を感じ取ってしまう。字幕で神様は言った、「君の部屋汚いよ」「生ごみの臭いがする」。しかし神様がいるから汚いのだ。神様が腐っているのだ。
 そんな中でも音楽は鳴りやまない。

馬鹿な事を言うけれど
 気にしないでくれるかな
 たまに変なこと言うけど
 どうでもいいんだよね

神様がしくじって、サプリメントを床にばらまく。急いで拾い集める神様の背中に欲情した私はいきなり神様に抱きついた。かつての神様がフラッシュバックする。神様はかつて現実とドパミンを司る勇猛なライブの神様だった。今となっては、このビデオを一貫して顔にモザイクがかかっている。神様は汚い肉塊になった。
 神様は掃除機をした後シャワーを浴びた。クローゼットの神様がいたところに、大きなカメラがあった。

ほんとのところ
 君はどうなのかって
 君が実際何してるのか
 どうでもいいよ

ビデオを再生すると、部屋のものが一つ一つ映っている。コンソメスープから指輪を取り出す私。寝間着を着替えにシャワールームに行く私。隠し撮りばかり溜まっていた。たまに青空やゴミにたかるカラスや、近くの海や浜辺、どこで撮ったかわからないアジサイやハイビスカス、小学生の集団登校があった。
 神様は実のところ私がいなくても神様を始めていた。

あんたのこと
 かなり前から感じてたけど
 あんたは何も知らない
 あんたは何も見ていない
 ただ空気を見つめて笑ってる

二人は部屋の白かった壁で神様が作った映画を見ている。アダルトビデオっぽいのに全然臨場感がない。世界は滅亡するらしい。

わかってるつもりなら
 わかってるのかしら
 私の手数を
 次何するのかしら
 次何するのでしょうね

「私」はスクリーンを引き裂いた。それも神様は撮っていた。「カット!」
 私の指示通り撮影は無事に終わった。人生に無駄はないんだなと思った。自分がもし映画を撮るならと温めていたアイデアがここに活きた。順調に進めば今月にでも新曲が発売する。

新曲をリリースして束の間、キュアリビドーにスキャンダルが出た。キュアリビドーについてのタレコミが5ちゃんねるであって、そこを参照すると、元スタッフのブログのURLがあった。それは私の前任者なのだが何も情報を知らないままだった。あらゆることをここで知ることとなる。

――――私はさそり、21歳。都会に居たら、あちらこちらでバンドサウンドが流れてるでしょ? その中で一番かっこいいとしたら、それは恐らく「キュアリビドー」というバンドが作ったものに違いない。ねえ、この曲かっこいいでしょ。それもそのはず、盗作してるから。クレジットでは直井の名前が記入されているけれども、実際この曲はほぼほぼキュアリビドーのファンである私がボランティアで作った。私は勉強が出来ずに、というよりは学校がいつまでも好きになれなくて、結局中卒の状態で工場で働いている。その間の息抜きとして宅録があった。直井と繋がれた当時の私は化粧もしなかったけど、何度かの接触の結果直井と食事するまでになり、出来心で欲しいと言った機材を直井が買ってくれた。そしたら曲が書けるようになった。私には直井以外に売り込めるものがなかった。だから直井は私の才能をリリースした。私の名前を出すことはいろいろと面倒だった。直井がファンを食ってることとかわざわざ言わないだろうし。そしたら、今ここらで一番の名曲になってしまった。
 私はそれで不服なのかって? 知らないなあ。今のところ金をくれとかは思わないよ。直井だって本来なら自分で自分の曲を作りたいだろうし。今はそれどころじゃないんだと思う。そんなことよりキュアリビドーのことを検索したら、気になるサジェストが出てくる。直井はゲイだって。厳密にはファンの女の子とも遊んでるし、バイセクシャルなんだろうけど、ここ最近はサポートのピアノにぞっこんだと見てて思う。本当なら、そのピアノを口説き落としたいけど、ピアノは絶対振り向かない相手のことを好きになりがちだ。しかも直井に歌詞にされてる。耳鼻科の受付嬢とか好きになるみたい。なぜすれ違う相手にいちいち惹かれることがあるのだろう。すれ違っておけばいいのに。とにかく、男しかいないバンドメンバー内で恋愛沙汰を噂されているけど、見たところピアノは直井に興味がない。だから成立しているのかもしれないけど、直井は大変だなと思う。バイタリティがあって、そのバイタリティぶん消耗しているはずだ。
 直井たちは自由にやってる、話を聞いていると他のバンドよりはよっぽど。キュアリビドーは好きなことを好きな時にやっている。でもそれだけじゃあうまくいかない。要所要所に工夫や知恵を生み出せない時バンドは解散するだろう。藤崎発人が辞めてその後はっきりとパワーを失ったのを見た。こんな風にバンドは消えていくんだなと思った。同期のバンドは色んなことを考えて変なことやってたけど、キュアリビドーは曲さえよければよかった。それを披露できれば良かった。それがライブであれ配信であれどこでも良かった。それも段々フォロワーやファンが目に見えて減っていく時に私と直井は知り合った。私はキュアリビドーのどのメンバーよりキュアリビドーを体現していると自負している。キュアリビドーが今どんな曲を作っているのか想像できない。流行りくらいはわかるだろうけど、そこで何するかとかすでに筋力が衰えていると思う。ブランクが長い。直井と知り合ってから数年経つけど、最近になって直井に避けられている気がする。たしかにパワーバランスが取れない。無料で曲を提供するなんて、普通有り得ないし。
 直井にメールを送った。「新しい曲ができました」
 直井から返事はまだ来ない。働いているのだろう。
 直井と連絡を取ることが出来るが、他のメンバーが何を考えているのかは知らない。キュアリビドーらしく作っているつもりではあるが曲調の変化に気づいたりとかしているのだろうか。わからない。たまに直井から他のメンバーの感想をいただくけど、「ほお」「すげー」「がんばります」くらいのものでしかない。
 直井のインタビューを雑誌で見たけど、音源の売り上げってどんだけあるんだってくらい贅沢な暮らしをしていた。私の手によるものだとしても、毎日風呂に入り、最新の流行を身に纏い、それなりに豪華なものを食べている生活は楽しいのだろうか。怖気づいてはいないだろうか。与えられたからには甘んじて享受してほしいと願う。記事では軽く哲学書を読んで眩暈がしたらベッドに向かって昼寝をする。その夢の中でインスピレーションを得るのだと言う。歌詞書いてないくせに。
 直井から返事がきていた。
「毎度この質問をするけど、どうしてこんなことをする?」
 私は心から正直に返信を綴った。
「直井さん、私は曲を送ることに意味を感じています。報酬を貰ったら、曲が書けなくなりそうで怖いです。直井さんこそ、大丈夫ですか? いつも浮かない顔して、こんな状況なら思い悩むのも無理ないと思います。いつでも嫌なら断ってください。でも私はこのまま続けたいです」
 私はいつもこういう回答をする。毎回厄介事を厄介事のままにして返す。もしあなたならどうする? きっと直井はこれから飲みに出かけるよ。一人で片っ端から飲んで、何にも喋らないまま帰るんだよ。あの人が何がしたいかって何年も前から悩んでるけど、やりたいことなんてないんでしょうね。ただ目の前にあるものをこなすだけしか私たちにはできない。直井は周りから成功したバンドかのように褒められる度苦虫を噛み潰したような顔をしないように誤魔化している顔をする。成功とか失敗とかのラベリングのワードに弱いみたい。実情が悪かったり実情だけ良かったりするものだし。でもキュアリビドーは成功しているんだよな。こういうやり方で。なーにが成功なんだろうね。
 皆には内緒ね。新曲をこっそりベランダで流します。どうか聞いてやってね。曲名は「マーガレット」です。キュアリビドーの新曲の、ミュージックビデオの女の子の名前をつけました。直井の指示です。では、どうぞ。

金が必要だから働くのさ
 何て忙しい日々!
 曲のために花を摘み
 酒を飲み
 男について考える

男は震えている
 「俺は死んだ方がマシだ
 こんなに駄目だなんて
 どうして罪人じゃないんだろう
 殺してくれ
 さもないと破滅だ
 だけど俺は変われない
 いつまで経っても変わりゃしない
 なぜなら俺は生かされている
 君がどんなに僕を詰っても
 明け方に毛布をかけるだろ
 そこに愛があるとかないとか
 じゃなくて
 変わらないからなのだろう
 君も僕もあいつも」

金が必要だから働くのさ
 何て忙しい日々!
 曲のために飯を吐き
 薬を飲み
 男について呪ってく

私の名前、スコーピオン。直井の星座。直井が好きだからこんなことやってる。嫌がらせしている。その倍嫌な目に遭ってもね。それでも私は直井侑哉が好き。――――――

このブログにはこの一記事しかないのだが、のっぴきならない怨念がここに凝縮している。この記事についてキュアリビドーはコメントしなかったし、話題にも出なかった。とにかくキュアリビドーは作品でしか繋がっていない共同体なのだ。直井の書いてきた作品は、私だけじゃない誰かに担われてここまで繋がれてきたことを知った。藤崎さんが辞めたなんて今知った。なんとなく、嫌なバンドだな、と思った。私がやっていることは嫌なことなんだろうな。

直井がサポートのピアノに無視され続け、結局ギターにちょっかいをかけている。ギターは社交辞令的にいなしていく。それを直井は強行突破しようとしている。
「君ってかわいそうだね。馬鹿にされてるの気づかない?」
「えっ、なんでそう思いますか」
「言ってることがエキセントリックだから。でも僕はまともだってわかるよ」
「そうなんですか、ありがとうございます……」
「だって君は素敵な胸板がある」
「はあ」
「ナイスバディだよね。きっとお母さんもナイスバディだ」
 面食らうギターを前に直井は鼻歌を歌い出す。
「こんないい男はなかなかいない。眉目秀麗・頭脳明晰・質実剛健・親が金持ち……」
「まあ、実家はAV作ってますけど。質実剛健は初めて言われたっす」
「あのCD屋つぶれるらしいね。なんとかならない?」
「どうにもできないかもですね」
 直井たちを見ていると、善人であることへの努力が馬鹿馬鹿しくなる。持たざる者は何も持っていないのだ。だけど私はすでに持っている。直井がそうじゃないのか。でも直井が他にいい人を見つけたら私には何が残るんだろう、ねえ、どうなの。

それにしてもこんなにいい男はいない
 眉目秀麗・頭脳明晰・質実剛健、親が金持ち
 このラーメン屋まずくなったね
 なんとかならない?

直井はギターの心を掴んで、彼をサポートから正式メンバーに登録した。ギターはよく直井にものを貢いだ。ワイヤレスヘッドホン、ふかふかのソファー、コーヒーメーカー、デスクトップパソコン、ソニーのウォークマン、キングサイズのベッド、ベンチにダンベル、酵素ドリンク、自転車スーツ、全部買ってもらった直井は全部無駄にした。なんやかんやですぐにダメにしたりほとんどのものを使用せずに捨てた。
 ギターと直井は仲良しになった。レコーディングなどの後には必ず二人でホテルに泊まることにした。直井とギターのセックスはおままごとみたいだった。ずっと直井がお母さんでギターが子供。大の男二人があんな熱を帯びておままごとに熱中するのは大変滑稽だった。

ギターと直井は仲良しだが直井はだんだんイライラしてくるようになった。
 ギターは精神疾患だ。慢性的な不眠症で悩んでいるらしい。ギターの悩みをずっと聞いていた直井は思い立ってキレた。
「君は薬が大好きだね。君は薬を飲んでも困らないだろうね、健康体だし」
「えへへ……そうかな?」
「でも君はよくならないよ。お母さんが君を一生離さないだろう。クリニックとかやめれば? 僕なんかよりずっと病気が好きなんじゃない?」
「どういう意味」
「僕はいち抜けたよ。君を励ますのはもうこりごりだ。自分で元気になってくれよ。僕は君がいなくても平気だ。僕は君のママになれなかったな。なんだかとてもくやしいな」
 それを聞いて私は吹き出してしまった。ギターはキレた。一か月でバンドを辞めることになった。直井はハミングする。

それにしてもこんないい男はいない
 眉目秀麗・頭脳明晰・質実剛健、親が金持ち
 それにしてもこんないい男はいない
 眉目秀麗・頭脳明晰・質実剛健、親が金持ち

「なあ、そこの君、聞こえるか?」
 直井が私を呼ぶ。聞くのは聞けるが応答はできない。
「俺の医者、ヤク中なんだ。どうにかならない?」
 この一言でこの歌詞はオチた。医者がヤク中とはどういうことだろう。っていうか直井って通院してるんだ。
 私も高校で勧められたし、メンタルクリニック行こうかな……。そう思っている内に夢から覚めそうになるのを必死に堪えて、また夢を見始めた。

それにしても、キュアリビドーはすっかり変わってしまった。やっぱり藤崎さんがいなくなったのが大きいだろう。曲はダンスチューンというやつに変わってしまい、直井も歌詞を書かなくなったので、前みたいなおもちゃ箱をひっくり返したような初期衝動はもうどこにも残っていない。私がそういうイメージを引き継いだ歌詞を書けばいいのだが、そういうイメージのない曲ばかりやってくるのでどうしようもない。
「直井さん、昔みたいなパンクロックやらないんですか?」
 正直に聞いたところ、次のような答えが返ってきた。
「昔みたいな気持ちになったら、ね」
 それはどういうことだろう。昔みたいな気持ちとは、2010年代のムードでそうさせているのか、それとも当時にあったモチーフがそうさせているのか。はたまた、当時流れていた手癖のグルーヴなのか。どれだ?
「直井さんは、昔の曲好きですか」
 ふと気になった。統失系ロックを名乗っている頃はどうだったのか。その辺の態度について気になる。
「昔の曲はまごうことなく僕たちだと言えるけど、今だって僕の作品だって言えるよ」
「どうしてですか? 完全に他人に譲渡してるように見えますが」
「まあ見てなって。僕の作ったお城を見せてあげよう」
 そう言われて、私は直井宅に行くことになった。直井の家までは電車を乗り継いで、誰も興味なさそうな田舎にまで飛んで行った。
「直井さんってホテル住まいでしたっけ」
「そうでもないよ。地方行くときだけ」
 こんなところまで毎回毎回帰るの嫌だろうと思う。しかし直井は好きでやってるみたいだ。それとも……。
「今から別荘に向かってる訳ではないんですよね」
「よくわかったね。まあこんなところに住む訳がない」
 直井が笑いながら私をおちょくってると、直井のもとに電話が鳴った。
「ああ、めありちゃん。どうしたの? えっ、僕そんな約束したっけ。あーごめんごめん。埋め合わせ? あーするする。いつにする? 今度の土日? 多分空いてるよ。あー、土曜日の夕方ね、わかったわかった、はーいありがとー、じゃーねー」
「今の誰ですか」
 聞いた瞬間、聞くことで直井に関して自分がなにものかになったような気がして、まずいような気持ちになったけれど、直井は何にも気にしてなかった。
「アイドルの、めありちゃん。最近歌詞提供したはずなんだけど」
「ああ、あれですか」
 アイドルって聞くと、キュアリビドーに回ってくる仕事といえば大学生を兼業しているようなアイドルくらいしかいないので、分類ごとに似たような顔つきが多い。優等生顔とか、ファンキー姉ちゃん顔とか。男受け良いのはコンカフェ顔だ。私が好きなのは不思議ちゃんの類の顔だが、めありとか言う人のいるグループにそんな人はいなかった。アイドルに書く歌詞とか皆無だわと思いながら「U象M象」という歌詞を書いた。アイドルといえども、あなたの前じゃ有象無象という歌詞だが。提出した後にまずかったなと思っている。
「アレですか、歌詞書いてないのに好かれてるんですか」
「まあね」
 直井は全然嬉しくなさそうだった。
「何がそうさせているんでしょうかね……」
「僕が金持ちそうに見えるんじゃない」
「実際金持ちなんですか」
「君は、今の暮らしをどう思ってる?」
 確かに、今の私の暮らしはそこそこ儲かっているような気がする。家にこたつがあるし、スティック状のココアのストックもあるし、最近はハーブティーに凝っている。パソコンも新調したし、何も困ってない。
「まあ阿漕なことをして金が貰えるってことは、それだけ災難もあるってことだよ」
「と、言いますと」
「あそこ、僕の家なんだけど」
 直井が指した家は一見普通の一軒家だが、近くに女の人がいる。もこもことピンクハウスの服を着込んで、こっちのことをまっすぐ見つめている。
「侑哉、最近ご無沙汰じゃない。その子誰?」
「いつも見回りご苦労様ですよ、こいつはスタッフ」
「ねえ、お腹空いてない、煮物あるよ」
「どうせ君のお母さんが作ったんだろ、自分で食べなよ」
 直井は決定打を出さない。私にこの人が誰であるかを示さない。……一体誰なんだろう。
「今日のところはここまでで。次はライブで会おう、な?」
「って言いながらなかなか北陸まで来ないじゃない」
 なるほど。この人はストーカーなんだ。直井はあくまでファンサービスに徹している。この人を警察にやってないみたいだ。
「じゃあ、またね」
「ちょっと。このスタッフをどうするつもりよ」
「次の制作があるんだ。その時を楽しみにしてくれ」
「んもー。わかった。帰ります。スタッフさん、どうもでした。それでは」

バンドマンとはこういうものなんだと感動していると、
「君、塩を買ってきてくれないか」
 と言われた。コンビニしか見当たらないので簡単なやつでいいかと言うとそれでいいそうなので買ってきた。
「君はバンドをしようと思ったことがあるかね」
「いや、ないですね。友達がいなかったもんで」
「そうか……。バンドはなあ、夢だけじゃないぞ」
 そう言って直井の家のドアを開けると、部屋中お札だらけだった。
「事故物件なんですか」
「違う。僕が事故物件なんだ」
 恐々としながら、直井宅で作業をしていると、いろんなことが起こった。まずラップ音が聞こえて、ネズミかな? と思ったけど途中から女のすすり泣く声が聞こえてきて霊的現象なんだなとわかった。直井はひたすら資料をスキャンして私のパソコンに送りつけて、私はそれを確認しながら歌詞を書いていた。急に直井が「あっ…………!」というので無視していると、トイレに駆け込んで、パンツを履き替えたみたいだ。
「何やってるんですか?」
「ここに居たらずっと霊に股間を撫でられて変な気分になるんだよね」
 それからずっと直井は幽霊に手コキをやってもらっていた。地獄みたいな話だなと思い、それから作業が進まなくなった。
「気にすることないよ」
「世の中にはこんな地獄があるんですか」
「もうひとつの家はちゃんと休めるから安心して」
「なんでここは安心できないんですか」
「メンテナンス不足というか。それにこの光景が君にいいスパイスになればいいじゃない」
「いいスパイスになってるんですかね……」
「もうすぐ夜になる。夜になるともっと見えてくるよ」
 そう言って私たちは作業を片づけて、宅配ピザを取り、お湯を沸かして寒さをしのいだ。直井の家にテレビがなくて、アマゾンで600円で買ったというスティックを借りパソコンに点けてワンセグを見ていた。環境が環境で画質が荒いのもリラックスできない理由の一つだが、落ち着こうとしても何者かによる視線を感じて気が抜けない。今日は徹夜なんじゃないか。
「直井さん、股間大丈夫なんですか」
「なんかもう飽きたね」
 飽きることがあるのか。なんか薄々気が付いたけど、バンドって嫌な仕事だな。自分はゴーストライターとしてその一端を担っているけど、これから深みにはまりたくない。私がこんな仕事をしていると特定されたらどうしようという不安も抱えながら仕事している。
「直井さん、風呂入りたいんですけど」
「勇気あるね」
 直井に風呂を案内してもらった。離れ的な場所にあった。怖い。
「直井さん近くにいてもらえないですかね」
「別にいいけど、自分の身は自分で守ってね」
「どういう意味ですか」
「あんまり、僕は役に立たないからな」
 そう言われても、風呂に入らないと気が済まないので風呂に入る。出てくるお湯がぬるい。鳥肌が止まらない。――――アナタハダレ、ナオイノオンナ? ナオイノナンナノ? アナタハダレ、アナタハダレ…………。こだまのような思いが私の心に響いてくる。私は誰かと聞かれても、直井にとって誰とは聞かれても、何者でもない。今は、何者でもないをやれているとしても明日には結婚するかもしれないし破門かもしれない。
「アナタハダレ、っていうあなたは誰なんですか」
 シャワーの向こうの窓に問いかけてみた。
「私は昔ツブラって名前でネットしてけど……」
(私は名乗るほどのものではありません)
 名乗らないんだ、とがっかりした。相当陰湿ないじめだなと認識した。最低なやつだなと思っていたら、風呂場の電気が消えた。
「あ! 直井さん! ブレーカー落ちてない?」
 私が騒いで怯えていると直井が駆けつけてきた。
「わかったわかった、見てくるよ」

窓の向こうから緑と白の菱形が無限大に現れた。
(名乗ったってあなたにはわかりはしない、あなたの名前が私にわからないように、私もあなたにわからない)
 電灯の伸びる筒状に蛇が巻き付いて黒い薔薇が次々と咲き乱れる。
「じゃあ、直井に何かされたの?」
 体の芯から凍える危機感はそこで止まる。今までの幻影がパタパタと片付いていく。
(私は……直井に何かされたまでは言えないの)
「はあ。どういう」
(勝手に貢いで勝手に破滅しただけ)
「……いや、でも、何か理由があるでしょう」
(理由? たとえば……)
 そこでしばらく止まった。幽霊は覚悟を決めたのかその後は、一気にしゃべった。
(ダイレクトメールに一切返事がなかったの。私は一時期一番貢いでいた自信があったし、返事がないってことは無言で肯定してくれていると思ったの、そこでどんどんエスカレートしていって、返事一つくらいくれよと思いながら、今自殺しているの)
「直井で自殺するなんて、勿体なさすぎる……」
 心からその言葉が出てくる。人生を棒に振る理由として直井を挙げるのは人生に対して勿体なさすぎる。だって、取るに足らないくらいつまらないやつだよ。歌詞とか私が書いてるし。……これは言ってはいけないのか。
「とにかく直井を理由に死ぬのは黄泉の国で馬鹿にされるから今のうち現世に復帰したほうがいいよ。っていうか寒いしさっさと風呂から上がりたい」
(あのさあ。私は普段から死にたかったの。死んでもよくない? 現では借金が待ってるんだよ……)
「じゃあ死ねるなら死んでみたらどうでしょうか……」
(……私死ねなかったみたい。ふざけんなって感じ。もうキュアリビドーなんか聴かねえわ。それじゃあどうも)

風呂の電気が点いた。
「お祓いしてくれたみたいだね」
「え、わかるんですか」
「いつもの感じがないから。それより、歌詞書けそう?」
 それから私は徹夜で歌詞を書いた。あれだけの恐怖体験を経たのにいまいち深みのない歌詞になってしまった。

さよなら君 わかってるだろう君は綺麗
 さよなら君 わかってるだろう僕は醜い
 さよなら君 わかってるだろう君は強い
 さよなら君 わかってるだろう僕が弱い

僕は君を騙した
 君は僕に誓った 僕への忠誠を
 僕は君を騙した
 僕は君を無視した 君だけじゃないんだ
 わかってくれるだろう 君は強いから

さよなら君 わかってるだろう君は正しい
 さよなら君 わかってるだろう僕が違う
 さよなら君 わかってるだろう君は生きろ
 さよなら君 わかってるだろう僕が死のう

僕は君を騙した
 君は僕に誓った 薔薇の数の愛を
 僕は君を騙した
 僕は君を見放した でも君だけじゃない
 わかってくれるだろう 君は強いから

さよなら君
 さよなら君
 さよなら
 ありがとう
 毎度あり

ノルマが直井宅滞在中にあらかた終わったので、帰りの新幹線では寝て過ごそうと思っていたのに、なかなか寝つけられなかった。
 その間直井が何しているのかというとSNSを一気に5アカウントで投稿したりしている。殊勝なことだ。なんとなく使ったけど、殊勝ってどういう意味だっけ。
 じっと見ていれば怪訝な顔もされる。
「何、滑稽なやつとか思ってるんでしょ」
「そんなことないですよ」
「君って他に仕事なかったの?」
 他に働き口があるのかって話か。知るかよ。
「なにがおすすめですかね?」
「文字起こしとか向いてるんじゃない? やっぱこの仕事してるからには」
 ライターってことなのかな。ライターかあ。いまいち現実味ないなあ。
「僕が聞きたかったのは野心があるかどうかだけど」
「野心?」
「君ぐらい頭がいいやつにはもっといい仕事があるんじゃないかと思ってね。でも見たところ君には野心がないから当分は僕の手駒でいいってとこかな」
「野心って……なんですか」
 私は今、野心がないことがまずいと思っている。なんでそう思うのかって、わからないけど、野心を今のうちから用意してないと損するかもしれないと本能的に感じている。
「野心って、辞書引きなよ。その通りの意味だよ」
「直井さんって野心あるんですか……」
「そんな。心外だ。野心だらけじゃないか」
 直井って野心あるんだろうか。今まではその野心のからくりは全部角川夏生によって説明していたけれどそれも最近覆ったし。何のためにこんなことをやっているのだろう。
「直井さんっていじめられてたんですっけ」
「うわ、何カウンセリングしようとしてんの」
「角川夏生さんの彼氏? になんかされたんですっけ」
「それはまだマシだよ。もともと僕いじめられて仕方ない人種だからね」
 ずいぶんと立派な自負だなと思った。現状からするに、どこからでも腐敗して破綻してもおかしくないような自転車操業にキュアリビドーはある。直井のやり方は不器用だと思う。あまりに不器用だから馬鹿にされるんだろうか。わからないけど。
「初めていじめられたのは何が理由ですか」
 直井に突っ込んだ質問をしてみた。ただしちゃんとした答えがあるかは期待しない。
「万引きがバレた」
 ただしこの答えは嘘かもしれない。信用しない。でも信用するつもりで会話は進むものだ。
「何を盗んだんですか」
「地元の個人経営の本屋に売ってる唯一のレコードがあって。聴く機械も持ってないのに、どうしても欲しくて、盗んだ」
 おやおや。……エピソードとしてもっともらしいぞ。
「アーティストは誰ですか」
「ダニエル・ワードマン」
「知らないですね」
「君が知ってる訳ない」
「検索して出てきますか」
「してみたらどうなんですか」
 ダニエル・ワードマンで検索したら、それらしいものが二、三件出てきた。海外のバンドかと思ったら邦楽だった。おや。「世界大恐慌体験記」とか、初期のキュアリビドーに通ずるタイトルなのではないか。
「全部パクってるんだ」
「やっぱりそうですか」
「手を変え品を変えやってるんだ。今のキュアリビドーの制作システムも、そのバンドを倣ってのことだ」
「世の中、そんなもんなんですかね」
 オマージュといえばいいのかもしれない。オマージュにまで高めることができればいいのかもしれない。しかしながら、どうすればまがい物に意味をつけることができるのだろうか。直井の作品はただのコピーなのかどうか検証すべく、ダニエル・ワードマンの音源を漁りたいところだがどれもリンク切れだ。
「君はがっかりしてるんだろ」
「いや別に」
「僕は後悔してない。そこだけが落とし所。誰かの真似をしても僕が僕として生きていればいいんだ。僕はレコードを盗んで見つかったけど結局手に入れることができたし、つまり世界を手に入れることができたんだ」
「キュアリビドーは、この体たらくは、直井さんにとっての世界なんですね」
 そりゃあいじめられるよなあ、と思った。これを駄目だと思わないと頭がおかしい人になる。なんて脆い自分を持っているんだと思われる。でも現状をよくするにはどうしたらいいのかわからない。ほぼみんな役割としては非正規雇用だし。この際ぐっちゃぐちゃに終わるしかないんだろうか。
「君は僕をいつか見限るだろうな」
「さあ、どうですかね」
「こんな僕でもまだ夢を見る余地はあるか?」
「別に見限ったりしないですよ」
「そう? ならいいんだけど」

駅に着いた。ここでお別れして別行動のはずだが、昼間なのに直井は酒を飲みたがる。つまり付き合えとのことだ。
「君さあ」
「はい」
「僕のことめちゃくちゃ好きだったでしょ」
「……はい」
「仕事してて魔が差しそうにはならないの」
 ――――試されている! すぐにわかった。
 「どういう意味ですかね。困っちゃいますう」とのたまった後、直井はただただワインを開けて、私はただただピザを食べていた。何を試されているのかを探りながら、自分は何がしたいのかを心の中で問い続けた。そんな調子でいると、直井が切り出した。
「次のアルバム、ゴージャスにしたいんだよね」
「そうなんですか。前もゴージャスだったじゃないですか」
「まだ足りない」
「はあ」
「やれることがあるはずだ」
「例えば?」
「セクシーな曲が上がったんだ」
「はあ」
「セクシーな詞を書いてほしい」

試されている。魔が差すかどうか。魔が差してしまったら、たちまちキュアリビドーは瓦解するだろう。私は直井と一晩疑似恋愛することになった。そして歌詞を書くのだ。

夢を見続けてどれくらいだろうか。何度寝しただろうか。営業時間は大丈夫なのだろうか。知らないふりして、また寝る。これからの夢を見逃さずにいられるか。

直井はホテルに着くとベッドにダイブした。隣の部屋からうるせえと壁を叩かれた。直井がまどろんでいるので先に風呂に入ることにした。風呂に入りながら、このままのムードでは直井が熟睡し私はテレビを見て終わるなと思った。歌詞を書くのであれば何かしらロマンティックでドラマティックでなければならない。恋ってそういうものだろ。今のような組織に対する責任を感じているままでは駄目だ。感じなければならないのはそれはそうだが、歌詞を書くためなら自分の負い目にガソリン撒くくらいの賭けをしてなんぼだろ。なんせ月に二十万貰ってるんだから。歌詞を書く以外に社会に貢献した覚えがない。
 反省しながら風呂から上がると、直井が起きていた。シャツをだらしなくはだけさせて、ビールを飲んでいた。
「肝臓大丈夫ですか?」
「そういうのやめろ」
「業務的ですか」
「もっと俺に酔いしれてくれよ」
 直井のどこが好きだったっけ? 考えてみれば、バンドが好きだからなんだよな。バンドというか、直井から紡ぎ出される言葉ひとつひとつに電気が走っていたな。今は私が作っているのは、願ってもないラッキーなのかもしれない。いやそうだろ。こんな状況にいることにすごく舞い上がっている。そして仕事をこなしている。でもそれでいいのか迷っている。今は、自分を放出してもいいのかもしれない。こんな運命を背負っている私。それを歌詞にするには。直井の口からリリースするには。
「俺の特技を見せてあげよう」
「ありがとうございます」
「裸で踊るんだ」
「芸人時代の黒歴史ですね」
「そう、これで営業回ったんだ」
 直井がシャワーから出てくると、風呂桶を急所にあてながらミスタービーンよろしく鼻歌を歌い、ちょっとしたコントをやった。いにしえの2000年代に流行ったアイドルの物真似というか、そのままをやっているだけだが。
「ああ、すっきりした。たまにこういう意味のないことをやらないと疲れる」
「普段の私たちって意味のある活動をしているんですか?」
「うるさいなあ、実入りよくなると意味に感じてしまうだろうが」
 無駄なことをする、かあ。無駄なことってなんなんだろう。無駄が意味に転じる時、絶望するのかな。嬉しいのかな。
「真和」
「なんですか」
「君は処女か?」
 二十八歳になっても処女を守っているのだろうか。わからん。でも処女でありたいと思う。なぜなら、本当に好きな人しか知りたくないよね。夢見がちだろうか。
「もしそうならどうしますか」
「ここで処女散らすか?」
「うーん……」
 なんでだろうな。いまいち現実味ないな。だいいち、ここで行為に至ったとしたら、無駄が意味に転じてしまうんじゃないのか。
「やめた」
「あっどうしてですか」
「乗り気じゃないだろう」
「直井さんはその気なんですか」
「んな訳ねーだろうが。ムードを焚きつけてるだけだ」
 そう言われるとがっかりする。散らしてやろうか処女。そんなもんだろどうせ男女なんて。だけど裸になれる勇気はなかった。ここまできて、直井とセックスする現実が見えない。
「君と僕でロマンスを形成するにはどうすればいいのか」
「多分……ですけど」
「おん?」
「多分、私が私を忘れてただのファンになることからだと思います。リスナーいてこその作品だし、私という立場があるとどうしてもタガが外れないです」
「なるほど。僕にバンドマンをやれってか」
「お願いします」
「歌詞書けよ。今から徹夜だからな」
 直井は歌った。かつての「ロングロングツインテール」「残留思慕」「悪魔的介護」「変な女」「彼の名はスペード」などなど。
 それを聴きながら私は歌詞を書いた。仮想だが、ファンを食っている直井を描写するのだ。

もう邪魔者はいない
 最果ての国へ
 
 それからうまく文字がひねり出せないでいると、直井が私を呼び、ぶちゅう~と口づけた。意表を突かれた私は失神しそうになった。
「かわいいじゃん」
 そう言って直井はもう一回キスをして、それから最後まで続いた。AVみたいな初体験だった。なんかまずいような気がしたけど、でも夢だからいっか~と思った。でも歌詞は書かないといけない。書かないと……と思ったけど、セロトニンが出てきてぐっすり眠ってしまった。

頭の中で歌詞の続きをぐるぐる考えた。

ここはまるで天国みたい
 ここでなら一度くらい
 変なこと考えていいだろ

これみよがしなムード
 いかがわしいシンボル
 もう変なことしていいだろ

近づいて 瞳を閉じて
 これ以上はもう
 これ以上はもう
 これ以上はもう 言えない

ダニエル 影をまとう貴公子
 その上お尻が大きくて
 モジャモジャ髪で
 ほかほかした体温
 こんなにパーフェクトな貴公子
 願ってもない
 願ってもない

こんな所でそんなことされちゃ
 プレイメイトもお手上げ
 ダニエルが私の名前を呼ぶ
 それだけで何も要らない
 何も要らない

目が覚めると、直井が真っ青な顔をしていた。なんでだろうと思いつつ、ツイッターでキュアリビドーのエゴサをするとどういう訳だか私たちがホテルに入っている画像が界隈で出回っていた。暇だなあ~! と思った。
「直井さん何をそんなに恐れているのですか」
「君は恐ろしくないのか? 僕は君に手を出すつもりはなかったんだけど」
「そうなんですか。お酒って怖いですね」
「僕は君のほうが怖いよ。もう仕事したくない」
「でもサポートのギターに手を出していたじゃないですか」
「女は怖い。何を担保に要求してくるかわからない」
 確かになあ。その気持ちもわからなくはない。でも。
「でも大丈夫ですよ、私夢見てるだけなんで」
「はあ? なにそれ。意味わかんない」
 そう言って直井は鞄から一週間分のピルケースを取り出した。月曜日のところを開けると、薬をちぎってコーラで一気に飲み干した。薬は十種類をゆうに超えていた。
「薬のせいで手が震えて楽器もできない」
 直井はスキャンダルを気にしなかった。よくある話だから。しかも一晩間違えただけの話でしかない。しかしここのところ直井は落ち込むようになった。
「どういう訳だか、僕の信用が落ちているみたいだ」
 盗聴器ごしに打合せをしつつ雑談をしている。
「仕方ないですよ。直井さんのやることって結局ワンマンですから。他人の色に染まらないでしょう」
「だけど、今になってあの人もこの人も仕事をくれないのはどういうことなんだろう」
「あ、貧乏ゆすりがうるさくて何言ってるかわかりません」
「薬の副作用なんだ。足がむずむずする」
 直井は目に見えて日に日にイライラしているようになった。日照時間も関係あるのかもしれない。とにかく態度にムラが出て仕事がままならなくなってきた。
「休んだほうがいいんじゃないですか」
「休むって何をだ?」
「人に会うのをやめたほうがいいですよ」
「そしたらキュアリビドーはどうするんだ、休んでいる間どうやって金を工面するんだ」
「今まで大概稼いできたんだからそこらへんのサポートはできるはずじゃないですか」
「とにかく次の食い扶持が確保されないことには休めない」
 そういう訳で、また歌詞を書く。キュアリビドーはファンからの期待は薄い。新曲を出せば買ってくれる見込みはあったが新曲を出す度にファンが離れていくのを感じた。キュアリビドーの泥船をどうにかしたい気持ちで書き進める。この曲でキュアリビドーに区切りをつけるような、直井がこのままでは駄目だと思い直すような歌詞を書こうと思った。

新曲を初披露したのはネット配信番組でのパフォーマンスだった。
サポートメンバーで固めた新生キュアリビドーで直井は曲からもメンバーからも孤独に歌った。照明がオレンジになり、黒と白で縁どられた直井を照らす。直井は伏し目がちに切り込んだ。

僕は待たされている
 君が僕を撃ち抜くのを
 かれこれ何十年も待っている

カメラが切り替わって、直井は振りかぶる。だらだらとだらしない図体でステージに入る。

何を迷っている
 撃ちたきゃいつでも撃てばいい
 だけど僕は死ねないよ
 君がどんなに正しくても
 僕は先回りしてこんなに汚いみたいだ

熱烈なギターリフ。それから直井がグルーヴを紡ぐ。たまに歌詞を噛んでいる。ろれつが回らないのだろう。睡眠薬が切れてないのだろうか。歌っていてなんとなくだるそう。歌うのが面倒くさいのだろうか。

毎晩やっている
 違う人とやっている
 でも僕は平気なんだ

僕は生きている、君が買うから
 これを聴いているなら
 もう手遅れだね
 さっさと殺してよ
 無理だとしても
 さっさと殺してよ
 無理かもしれないけど

スタジオを直井が練り歩く。ギターやベースに絡みつきながら直井はくだ巻くように歌う。そして客席にも乱入する。

毎晩やっている
 違う人とやっている
 でも僕は平気だ

僕は生きている、君が買うから
 これを聴いているなら
 もう手遅れだね
 さっさと殺してよ
 無理だとしても
 さっさと殺してよ
 無理かもしれないけど

ドラムが展開を急かして、曲調は安定期に入る。カメラがアップになる。爬虫類みたいなつるつるした顔。その口から私の歌詞がこぼれる。私が直井に歌わせたい言葉はここに尽きる。おっ、直井が、こんな歌詞歌っていいのか? という歌詞を歌わせていく。その歌詞は声となりやがて私を突き刺す。

僕はおそらく
 さっさと死にたいんだろう
 君で死ねなくて残念だな

ラストスパートになると直井もへばってきて、淡々と歌うようになった。ポケットに手を入れる。声がだんだんダミ声になっていく。

僕は待たされている
 誰かに殺されるのを
 もういい年になってきた
 何を迷っている
 見限るなら今しかない
 だけど僕は死なないよ
 君がどんなに正しくても
 僕は先回りしてこんなに汚いみたいだ

この曲が入ったアルバムをリリースして、キュアリビドーの活動休止が決まった。その途端、直井の盗聴器は機能しなくなった。直井が今どこで何をしているのかわからない。
 しかし、私は知っている。直井がついに自作の曲を作って、パソコンの中に閉じ込めていることを。その曲は直井が作詞していることを。私は知っている。どういうわけだか知っている。ほら、今にもメロディが脳から溢れ出す。
 ――――僕は恐らくエリート。世の中の道理はすれ違う誰よりも知っている/僕は今のところニート。親を泣かして貯金を下ろしてく/僕は世界を回している、コーヒーを三杯飲んで/世界は僕を恐れている、僕のツイートは不適切だ――――ってこれ、「ロングロングツインテール」じゃないか。
 ――――駄目だ、もう夢を見れない。

私は目を覚ました。今まで一年分くらい夢の中で過ごしてきたが、実際に寝た時間は2時間くらいのものだった。
 私はかつての普段通り、電車に乗って家に帰った。風呂に入り、宿題をしてベッドに入る。直井を呪いに自慰をするかどうか迷って、迷った挙句、してみるのだが、うまくいかずに寝た。
 夢にしては具体的すぎる未来体験だったので、私はそういう未来が待っているのだと自然と考えるようになった。これから28歳までの10年間をざざっとおさらいしよう。

まず、高校生活に復帰するのだが東京に行くのは10年後と考えた時、いかに10年無駄に過ごしてやるかを考えて浪人してやろうと思った。すると担任が怒り、浪人することがいかに人生に悪影響を及ぼすのかを説明した。私みたいにこれと言って目標のない(ように見えているが実はめちゃめちゃキュアリビドーに賭けているのだが)学生が漫然と中途半端な身分を生きるのはよくないと言われた。確かに。男子学生だったら風俗にはまっていただろう。とりあえず私は地元の私立に願書を出した。大学のことがある程度決まってから、しばらくは穏やかに過ごせていた。

キュアリビドーの未来を危惧したのはこの頃になってからで、バイトも始めてこれから思う存分キュアリビドーに投資できると思っていたのも束の間、キュアリビドーはあっさり解散する。しかも円満だった。藤崎さんの親の会社が大きくなって、その手伝いをするのを機に、じゃあこの活動もやめとこうかという話になったみたいだ。それまで続いていたラジオもなくなり、私の日々のルーティンワークがなくなった。 それから直井侑哉を単独で応援することになるのだが、直井は完全に音楽をやらなくなった。もともと楽器をやるような人ではなかったけれど、落語家の人とつてがあるらしく、落語家になった。私はほとほとがっかりした。
 あまりにショックなのでやけっぱちになった私は、処女を貫くと思っていたのに流れに抗うことができずバイト先の専門学生の兄ちゃんとセックスしてしまった。その帰り道にキュアリビドーを延々と聴いた。未来が朧げになっていく予感はこの時から始まった。キュアリビドーの「変な女」という曲を聴いてこの頃はメンヘラチックになっていた気がする。専門学生の兄ちゃんとは長い間仲良くしていたけれど結局バイトを辞めたきりで会うことはなくなった。
 それでも私は野心が果たされる未来がやってくると信じて準備した。何かしらいいネタがあればそれをどんな場面でもスマホやメモ帳に書き入れたし、PVとかもいろいろ流行を見てアイデアを膨らませていた。

大学ではひたすら孤独だった。友達は高校でもできなかったくらいだから大学でもできなかった。フラストレーションがたまってきて、大学の成績をよくしようと卓球の授業でイカサマをやった。そしたら完全に村八分になった。
 二年生になって文芸部という部活に入った。というのも授業でよく一緒になる人で、私に話しかけてくれる女の子が文芸部に入っていて勧誘された。私はそこで詩を書いたら褒められ、小説を書いたら大いにウケる。実は中学生の頃に担任の先生から「丸山さんは小説家になるといい」と言われたことがある。

そんなこんなで大学四年生になった。大学四年生になると生活リズムが乱れに乱れまくって、メンタルクリニックに通うことになった。メンタルクリニックに通ってエビリファイとかいう薬を飲んでごまかしてきたが、部活の同期から「絶対薬合ってないよ」と言われ続けた。その傍らでオナニーがやめられなくなった。一日二回はザラで毎日のように股をこすり続けてきた。就職活動では一個も内定を貰わなかった。私というのは一見何も考えてなさそうな、無個性そうな顔つきをしているが、実のところ相手に要求するレベルがめちゃくちゃ高い。そういう訳で、身の丈を知らずに大企業ばかりを受けては落ちていた。そもそも私の身の丈というのは、地元の私立大学を卒業見込み、それ以外は特にこれと言ったサークル活動も苦労するようなバイトも経験してない。かといって公務員を目指すように前もって勉強してきたわけでもない。公務員を目指すように親に言われたこともあるが、準備が煩わしいようで、無計画に就職活動を進めた。
 私はどこか遠い目をしているが、あまり落ち込んでいなかった。それがどうしてだかわからなかった。落ちるとわかって就職活動を進め、その自分はどこに落ち着くのか。そういった旨を鍵付きのブログにあげては削除していた。ある時、バイトから入って、正社員を目指そうと思い立った。というのも従姉からそう入れ知恵されたのである。その従姉は転職して正社員になってなんだか前よりしあわせそうだ。
 従姉に感化されて、検索して上がったゲーム会社に面接を申し込んだものの、急に面接が中止になった。理由は、最後にメールの返事をしたのが会社側だったのが気に入らないというものだった。私は働く意欲がなくなったが、あまりにふさぎ込む娘に、両親は「一年間なら、ニートをやってもよい」と言ってくれた。それが大学四年生の冬だった。就職活動を考えなくてよくなったが、困ることがあった。友達との飲み会に、親に逐一連絡してお金を貰うのにはなかなか気が引ける。そういう訳で卒業してから派遣でパートをすることにした。
 結局データ入力のバイトに落ち着いた。派遣先は官公庁で、空気があまりよくない。ピリピリしている。そんな中ひたすら、写真集から蝶の画を取り出し、スクラップし続ける作業を頼まれた。この作業で何を創出しているのかさっぱりわからなかった。それでも心を無にしてばりばりと上質紙を切り裂いた。一匹取り出し、二匹取り出し、やがて一冊の写真集から数百枚の蝶を取り出した。今度は、同じ写真集からバッタを取り出すように指示された。同じように、一匹取り出し、二匹取り出し、数百匹取り出した。次に、違う写真集から、天道虫を取り出すように指示された。ここまで三か月が経っている。勇気を出して質問した。
「これが何になるんですか?」
 すると、上司は
「実は、僕もわからない」
 と言って、そそくさと煙草を吸いに行った。
 世の中にはいろんな仕事があるとは考えていたが、まさかこんな仕事があるとは。いつまで経っても慣れなかった。仕事の成果が現れる日が来た。上司が車に同行するように命じたので、ついて行くと、市の青年研究博物館に到着した。そこで切り抜いてきた数々の昆虫たちが大量に保管されていた。それらをカートに乗せ、近くの焼却炉に行く。
 焼却炉は森の中にあった。轟轟と燃えたぎる炎の中に切り抜いた写真たちが放り込まれた。ショックだった。こんなものを見に来たのか。奥歯を食いしばって、火が消えるのを眺めていた。炎は灰になり、風が吹いた。すると灰が、切り抜いた昆虫たちそのものになって、森の奥へ飛び去って行った。魔法は存在するのだ。
 しかしその仕事も長く続かなかった。

私がパート先で体調を崩して、それからしばらくして精神病院に入院したとしても、心は上京する野心でいっぱいだった。上京したいのに、上京するのをやめておいたほうがいい理由ばかり蓄積される。退院して、直井の下手くそな高座を配信で見て、あまりに私にとって報われない欲望が多すぎると泣けてきた。
 私は不本意ではあるが、自分のために自分の夢をかなえようと思った。自分には夢があって、それはキュアリビドーで実現してほしかった抒情性を自分の手で実現することだった。私はそれを実現すべく、とにかくネタを探した。一芸を磨こうと思った。
 まず私は占い師になって、気運を学んで自分を高揚させつつ、人の人生相談を聞いて小説にでもしようと思った。占いはメンタルが落ち込んだ時にハマった。占い師の専門学校もあったが、金銭的に厳しいので、とりあえず地元の手ごろな占いの館に行って、その筋の人に気に入られるように務めた。すると、可愛がってくれるマダムがいて、そのマダムから占いの字引など一式揃えてもらい、この誕生日が来たらこのページを開くなどの作法を学んだ。タロットカードの手順も覚えて、どう読むかを何回も練習して、いざお客さんをとることにした。
 結局私は数日で占い師をやめることになるのだが、その中でも一番印象的だった客について残しておこう。その人は私が在籍した日は毎日3000円持って占いに来ていて、何度占っても「問題は今解決しない」という回答になり、それを伝えていたのだが懲りなかった。その人の問題は毎回言っていることが曖昧で一緒のような違うようなわからない。とにかくその人は「今私は幽霊に憑りつかれていますか」「相手は誰ですか」「どうしたらいいですか」という旨を言っていたと思う。そして占うのだが、どう占っても幽霊が憑いているとは出てこないし、ましてやタロットカードや九星気学で幽霊の是非を言い渡すなんて専門外だと思っていた。霊視の人に見てもらえばいいのに。何度もその女の人はこの占いの館で検証したがっていて、何度も否定されて、絶対あきらめなかった。
 他にも毎日のように来る人はいて、毎日「今日一日何が起きますか」と聞いたりしていたけれど、占いを検証して何になるのだろう。占いっていうものはまるっきり当たるなんてあり得ないし、たまに当たるからありがたいもので、毎日のように常用することで日々に張り合いが出てくる訳でもない。占いとかスピリチュアルは信じないのであればそれが一番いい方法だと思う。信じてしまうのならば、ずるずると黒魔術の奈落に引きずり込まれるのが落ちだと思う。占いは黒魔術だ。呪術を使った世界と現実を照らし合わせてどこまで本当か嘘かを検証する気持ちはよくよく考えてみたらやましい気持ちでしかないのだろう。
 という訳で私は黒魔術を紐解いてしまったようで、客をとるようになってから体調が悪くなってきた。訳ありの人と接するとこちらも訳ありの人になってしまいそうになる。マダムとはお別れをして、私は違う一芸を探すことにした。
 次に目をつけたのは宗教である。神の力を味方につければ世界の真理が見えるかもしれない。そう思って志願した訳でもなく、ただ何も働かないでいるよりはボランティアでもしたほうがいいのかもしれないと思いこども食堂で働くことにした。
 神父がいて、五人子どもがいて、妻がいて、信者が七世帯くらいいて、ただ子ども食堂を利用しているだけの家庭もいたらもっといた。私はそこで、キリスト教の嫌なところを見た。どんなに間違っていても、愛の下ではみな平等だという教えが根っこにあって、その教えに則っていろんなサービスがここで行われているのだと思うが、近所の人と仲良くなるなんて田舎臭いなと思った。私は二日行っただけで子ども食堂を辞めた。私は田舎が嫌いだ。
 田舎が嫌なら、思いっきり都心で働くにはどうしようかと考えて、一回チャットレディの面接を受けることにした。チャットレディというからには、チャットで客を喜ばせるものなんだと思っていて、文才に磨きがかかるなと思っていたら、チャットで自慰を見せるサービスなのだと気が付いた。面接の途中でこれは落ちたな、と実感した。在籍している子はみんな美人だった。
 日雇いバイトや短期のバイトをこなしていくうちに新しい仕事が見つかり、お金も貯まるようになった。私は貯まったお金で一念発起、整形することにした。まずはこの重たい一重瞼をばっつり切って二重にした。すると街中でじっと凝視されることが増えた。何より、自作の詩を朗読する配信に人の出入りがかなり増えてきた。
 一時期、私のファンを名乗る人がいた。その人はコメントだけして顔を出すことはなかったけど、かなり可愛がられてしまった。かといってその対応に居心地の良さを感じることはなく、いつも配信をするとその人がいた。ある日、配信はせずに布団に入って寝ようとすると、天井に赤い靄が見えた。普段からいるような見覚えがあったので何もしないでいると、その赤い靄がこっちに向かってきて、私を覆いつくした。なんだか嫌な胸騒ぎがするので、その様子を記録すべく、実況配信を行った。すると、コメントに
「それ、僕だよ」
といつもの人がそう言い残していた。それ、僕だよ……? どういう意味かわかりかねていると、赤い靄が消えた。コメントはさらに続いた。
「いいこと教えてあげようか」
「君でしごいていると、僕が君の目の前に現れるんだよ」
 そう言われたら、おっかなびっくりで恐怖しかないが、自分も人のことが言えないでいる。私だって、直井侑哉でさんざんオナニーしてきた。彼にとって私みたいな人はたくさんいるのだろうか。

かれこれいろんなことを経験して、もうすぐ10年だ。10年後の未来では私は日銭を稼ぐことすらままならないし、キュアリビドーはもういない。夢の中で直井はいろんなことをしていたがそれも全部夢でしかないのだなと思うとつらくなってくる。
 私は直井との思い出を全部文書に書き出した。ブログにも投稿サイトにも載せるのが惜しくて書き溜めたものをどこにも吐き出す場所がなかった。もうどうにでもなれと思い、賞に応募することにした。賞に応募したとしても、一次選考で落ちてしまう。
 何度も書いても、直井のことばかりになってしまい、同じことの繰り返しになってしまい、自分はなんて無力なのだろうと痛感した。同時に自分に文才はないのかもしれないと思うようになった。文才ではなくて、ものすごく濃ゆい未練があるだけ。未練といっても、晴れることは二度とないような気がする。でも私だって、黒魔術を召喚してしまったのだから仕方ない。直井に関して人一倍知りたいという欲望が、タイムトラベルもといバットトリップを呼び起こし、今日まで人生を棒に振った。
 ある日、新しく小説ができた。小説を何度も読み返し、意を決す。

トイレの前でさめざめと泣く私はカットケーキを握りつぶしてこれでもかと喉へ詰め込んだ。麦茶で流し、すぐにトイレに向かって吐いて流し、ずっと繰り返していた。
「何してるの真子ちゃん」
 精神病棟の措置室の後ろから無為な人生だった死者がこっちを見ているのを感じる。
精神病棟は殺伐としているが、暗闇に光が反射するとたちまちタトゥーみたいにカラフルな世界が広がる。あっちもこっちも赤白水玉。蛍光灯には蛇がとぐろをまいて、四隅にはバーチャル世界の初期設定みたいな映像がずっと流れている。
「いつもオナニーやってる真子ちゃん。措置入院になって電マがないからできないね」
「うるっさい、あんたに何がわかんの」
「僕には見えるから。君のすべてが」
 死者は見えないが幻覚は見える。よく喋るやつが1人、何も喋らないやつが3人で、3人のうち頭がキマってるやつが1人、良心のある奴が1人、ずっとニヤニヤしてるやつが1人だった。
「ホラ、真子ちゃん、読者に説明してあげて! 何で君はメンヘラになったの?」
「オーバードーズを…やりすぎた」
「本当にそれだけ?」
「好きな…バンドマンに、ツイッターをブロックされたから…」
「そう! 僕たちは、誰に似てる?」
「(好きなバンド)」
「ザッツライト! 君は、幻覚を見てるんだ。かわいそうにね!」
 私はもともと統合失調症で、昔から幻聴や被害妄想があったけど、オーバードーズの末に見てはいけない世界を見てしまった。これもなるべくしてなった。仕方ない。
「ねえ。真子ちゃん僕とセックスしないの? 真子ちゃんは僕が好きで入院前はよく夢小説を作ってたじゃない。僕が君のクローゼットの中にいるんだろ? いつも僕は君のことを見てるんだろ?」
「ねえ! 真子ちゃん聞いてる? 今ならできるんじゃない? 僕とセックスできるんじゃない?」
 そう言ってバンドのリーダーである男が片膝をつき、私に手を差し伸べる。
受け取ったら絶望するんだろうか。それとも現実はちゃんと認知しているんだろうか。傷つきたくないから、無視したいけどこいつは諦めない。握り潰すように掴んだら幻が消えた。セックス、どうやるんだよ。
 私はそのあと18時間くらい寝た。途中服薬や食事や検温とかで起こされるけどそれでも眠かった。インベガで麻痺した脳内には悪夢がよく映る。ライブで出禁になる夢。書いていた二次創作が炎上する夢。何より悲しいのは、好きなバンドマンが私にお願いだからファンを辞めてくれと言う夢。何度も何度も見る。
 私は入院するくらいには頭がおかしい。そのおかしい頭をもって好きなバンドにありったけの愛を投げつけた。頭がおかしいのは私のせいだとしても、私を生かしたのはバンドの商売だ。あのバンドは、金を積めば何秒かだけ恋人になってくれる。みんなの彼氏になってる様は、切ない。しかしこの切なさが生きてる! と実感できる手段なのだ。あとはオーバードーズに過食嘔吐だが、バンドを追っかけてる時が一番痛む。
 すぐに夕方になり、でもまだ寝れるぞと思っていたらあいつがやってきた。
「昨日は傷ついた?」
「今日は僕本気だよ。是非セックスしよう」
 私は紙コップに注がれた二つの水のうち、一つをあげた。
「これ、飲んで」
「セックスするにはどうしたらいいかわかったんだ」
「はい、これ、飲んで」
「君が僕を感じとればいいんだよ」
「飲んで、ね。飲んで」
「だって僕は君と共にあるんだから」
 我慢できず私がコップ二杯を飲んだ。セックスしたことない。だけどめちゃくちゃ性的衝動が強い。薬飲んでもあんまり変わらない。毎日オナニーしてたのにそれもできない。今措置室にいて監視カメラでずっと撮影されているが、こっそりオナニーしてもバレないだろうか。
「今日の夜、僕、夢に出るから」
「その時セックスしよう、じゃ」
 バンドのリーダーはどこかへ行った。
 病院食はとてもおかずが少ない。ご飯ばっかり食わせる。配分を計算して食べる。入院したならご飯くらいしか楽しみがない。あとは病気であることを自覚するだけ。食べたら歯磨きして洗顔してすぐに寝る。こんだけ空調がコントロールされていると風呂に入らなくていい。
 夢を見る前に脳内に誰かが話しかける。「か、え、れ! か、え、れ! お、う、ち、に、か、え、れ!」凄いなあ。私もここまできちゃったか。幻覚を聞いているといつのまにか悪夢に入り込んだ。
 私とバンドのリーダーはラブホにいた。
「やあ、真子ちゃん。きてくれたね」
「僕はここで見てるから、君はそこでいつも通りやるんだ」
「僕は君を見つめてる。それがセックスだ」
 私は。自慰動画をこいつに送り付けて、それが原因でアカウントをブロックされた。オナニーしたいけど、現実だったら泣いていた。でもこれは夢なのでオナニーをしてもいいだろう。病衣の隙間から手をまさぐって、電マより根気がいるが頑張ってみた。なかなか濡れない。インベガを12mg飲んでいると汁気の余剰は出ないのだろう。
「濡れないね。手をどかしてごらん」
 でも私はどかさなかった。もうちょっとでいけるかもしれない。でもあってもなくても一緒だけど。
「もう諦めなよ。第一君のオナニーを見ても何も思わないよ。ただ泥臭く痛々しいだけだよ。君だけじゃないからね」
 私は諦めた。念願のオナニーだったのに……。手を病衣で拭いて、ベッドに正座した。
「僕はね、君ともセックスできるんだ。君がその気ならね。君が僕を感じとればいいんだよ」
「それは……どうやって?」
「僕の名前を呼んでくれ」
 私はバンドマンの名前を呼んだ。すると、尿道からおしっこが止まらなくなった。おしっこの出る感覚めちゃくちゃ気持ちいいなと思っていたら、夜中目が覚めておねしょしたことに気づいた。それが何だか精神的にショックで、どうしてこんなつらいものが日常に蔓延るようになったんだろうと思うと涙が出てきた。私は鏡を割らないといけないと思った。幻鏡を割らないと退院できないだろう。
 主治医にバンドの話をした。かなり詳しく話した。そしたらバンド禁止令が出て、バンドのことは考えないように言われた。それから6ヶ月入院して、一時外出が認められた。早速バンドについて近況を調べたら、メンバーの不祥事が原因でいとも簡単に空中分解していた。なんでも、メンバーのニヤニヤしたやつが複数の女子高生のファンと関係を持って食い散らかしていたらしい。ファンが徒党を組んで、バンドを破滅に追いやった。私もそれ、やりたかった……。
 あのバンドのリーダーは、ソロとして活動するみたいで、アカウントも新しくなっていた。私は「半年前はすみませんでした」とだけダイレクトメールした。
 退院してから、バンドのリーダーの幻を見ることは徐々に減った。薬も変わってオナニーの回数も減った。

私は今日、最後の最後と思って出版社に原稿を持ち込みに行く。思い出作りといえば思い出作りだ。門前払いのまま会社をあとにして、近くで酒を飲んでいく。
 渋谷を彷徨う。ライブハウスがいくつもある。財布の中には小銭がいっぱいあって、喉が渇いて次から次へとドリンクを頼む。疲れたからか、ぐったりしてライブハウスの隅っこでうずくまる。それでも居心地が悪くて移動していたら外に出た。空き瓶の掃きだめの隣で、寝間着の上にダッフルコートを着て眠る。
 雨が降って、寒気が強まる。終電もなくなり人気がなくなってきた。私は寒くないんだ、なぜなら幸福の未来はないのだから……とぼんやり反芻していたら、人がやってきた。ゲロを吐いていた。ふらふらとした足取りで男はこちらにやってきて、私を見つけた。
「どいつもこいつも仕事をくれない。一体僕の何が悪いのか」
 直井はいくつになっても年を取らない。肌がきれいなままだ。戯言を言っているのは酔っぱらっているからだろう。キュアリビドーはなくなったけど、でもここに迎えが待っていた。
「そこの姉ちゃん、失恋した? 何もかもに疲れているよ」
 その言葉そっくりそのまま返してやりたい。

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