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語学学習とコーチングと哲学とオンライン教育の関係

コロナで自宅での仕事となったため、これまでやりたかった勉強にとりくむことができている。かれこれ30年近くやっている語学とうだうだやっている哲学的思考は脇において、ここ数ヶ月の間に猛烈なスピードでとりあえず触れている最中のコーチング、Courseraや放送大学のオンライン教育。後者、純粋に面白いし効率よくまとめられておりスピーディに学習できて新鮮。そう、うだうだやらないのがいい。動画再生だって1.5倍でできるし。自動字幕でざっと見れば外国語だって内容だいたいわかるし……。うだうだって今どきナニソレ?

と、一ヶ月半ほどやってたら、知識を猛烈につめこんでいるはずなのに、どんどん頭が悪くなっているような気がしてきた。なんなのかこの違和感は?どんどん自分が薄っぺらくなっていくような気がしてくる。これは、ちょっとストップだね……と細胞からの命令が届いた。このまま薄っぺらを続けると幸福度が下がる。

で、なんとなくわかったこと。私がここ数ヶ月やってきていたことは単なる種まき。発芽すらしていない。そしてこの薄っぺらい軍団からの修了書を私はまもなく手にする。大いなる矛盾。そして、浅い、浅すぎる……。

フランス語のレッスンで、年配のマダムは長文を必ず手書きでノートに写してくる。発音記号に単語の意味、それをキレイな日本語にして一文一文訳してくる。そんなことやっているからいつまでも語学ができるようにならないんだというやり方。けど、そう、うまくいえないけど、学習にはこの手間が必要に感じる。特に大人の手の込んだ丁寧な学習には。

話は変わって、コーチングの問は哲学の問そのもの。そう、方向性はあってるんだよ。でも、何かが違う。これまた、スピード感?質問の気軽さも答えを出すのもはやすぎる。「あなたの価値観は?」「大切にしたいことは?」こういう質問は、そうそう簡単に人にするものではない。そして、こういうことって、答えをだすのに下手したら一生かかる。30分や1時間ででてくる答えは、当然ながらきっとどこかから引っ張ってきたもの。

スピーディーさの中で、「価値観」や「大切にしたいこと」が薄っぺらになる。これはとっても怖い。そして、この感覚に鈍感な人間が一定数いる。私の美学的見地から言うと、こうしたスピードに自分たちと同世代の人々が巻き込まれていくことは、アンチエイジングにやっきになるくらい醜い。ということで、ちょっと休憩。

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