『わたしのつれづれ読書録』 by 秋光つぐみ | #40 『一銭五厘の旗』 花森安治
2024年8月1日の一冊
「一銭五厘の旗」花森安治 著(暮しの手帖社)
8月が来た。
8月が来るたびに、ジリジリと背中を焼く太陽の光と、何処に行っても鳴り響く蝉の鳴き声を感じながら、思うことがある。
8月は、私にとっては「いのち」について考える月。父の命日、広島・長崎原爆の日、そして終戦の日。これらの日が続くことが起因しているのだと思う。
前々回で紹介したみうらじゅんによる『さよなら私』でも綴られているように、人は生まれながらに死に向かっているという理論のもと日常を送っているので、死生観というものは常に物事を考えるときの土台として、私の中心に据えられている。
それでも。
身近な人間の死を弔うことは、人生最大の出来事であり、深い悲しみの底に尽き果て、同時に行き場のない思いを抱き続けることを覚悟させられる。何が苦しいかって、自分の人生は構わず明日もまた続いていくということ、その現実をいたく突きつけられる。これは個人的な体験に基づいた話。
さらに、今回焦点をあてたい話。世界でただ二つ炸裂された核がもたらした悲劇としか言い得ぬ事実、そして、ほんの 79年前の夏まで日本が戦争をしていたという歴史。
8月は、これらのことと今一度向き合う特別な時間が、私には与えられているのだろうと、思わずにはいられない。
死、核、戦争。そういったことをぐっと近くに引き寄せて、じっくり向き合う時間を、さらに意味のあるものにすることができる本がある。それが今日の一冊、花森安治による『一銭五厘の旗』である。
発行元の暮しの手帖社から案内されているこの本の紹介文(刊行当時の「毎日新聞」書評より)を敢えて引用する。
とにかく怒っている。花森安治は激しく怒っている。この本を読み進めるにつれて、彼のほとばしる怒り、感情の勢いの凄みを感じる。それでいて、放たれる言葉には理路整然とした落ち着きと、真に伝えたいことを如何に伝えるべきかを考え抜いたしなやかさも滲み出ている。
今、いくら辛いことがあろうと、悲しいことがあろうと、退屈であろうと、私は自分の好きなことを選びそれによって気分転換をすることができる。辛いこと、悲しいこと、退屈からの「逃げ道」を自らつくることができる。今の暮らしの中にそれを選ぶ権利があり、実行することのできる余裕がまだある。
しかし、戦争中はその「逃げ道」を与えられない。贅沢は敵だと規制され、満足に食べる権利も奪われた。そのことが楽しい、うれしい、美味しいと思う感性さえも奪ってゆく。
「戦争」が「生活」そのものになってしまう。
「美しい」と思うことよりもまず、人は何とかして生き伸びようとする。生きるために食べ、生きるために逃げ、生きるために死なないように、と。
生きてはじめて「美しい」と思う心が育まれる。
何人たりとも、そういった心を奪われていいはずがない。
花森安治の言葉がいたく胸に刺さる。戦争とは、「美しい」と思う心を奪うもの。
今を生きる私たちにできることは何なのだろう。
まずは「知る」ことなのだと思う。
核とは、戦争とは。それらが至らしめるものが一体何なのか。単なる歴史の一幕ではなく、今に地続きであることを知り、隣に居る誰かと話してみる。それを繰り返す。
そうした機会があればその度に私は、明日が続く限りこのいのちを燃やしながら、この本から受け取ったことを芯に据えていたいと強く思う。
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秋光つぐみ
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