【自粛で分かったこと】何もしないで得た、何かやらなきゃという使命感について
GWがおわった。私ももちろん例外なく終わった。去年の今頃は超絶激務の中GWを迎え、毎日仕事が始まる恐怖に怯えろくに休日を楽しめなかった記憶しかない。今年はコロナによって自粛生活を余儀なくされたので、私のGWは2年連続でなんかうまくいかないらしい。今年はみんながそんな状況であるため、私も例に倣い自粛の毎日。
映画や読書、アニメが好きで元来アウトドア派ではないが、毎年行われていたこのシーズンの好きなバンドのライブに行けないのは悲しい。もちろん中止で行けないだけなんだけどね。
で、引きこもっている中でひとつ分かったことがある。毎年毎年、普通の週末でもそうだが、SNSにおいて他の人の充実ぶりを見ると、何かしなければ、と焦ってしまう、そうはいかなくても、なにか自分だけ何もアクションを起こしていないよで、落ち込んだ気分になってしまう。どうにもこうにも、私の中で、外に出て行動している=充実している=すなわち外に出ない私は充実していないという型を外せない。もちろん外に出ていない分家で映画をみたり、読書をしたり、という外に出ている人たちがしていないことをしているわけだから、何も得ていないわけではないのだが、んーなにかしないと、という使命感を持ってしまう。じゃあSNSを見るな、みなければいい、と自分に言いたいところだけど、今のご時世なかなかそんなことは難しい。
だが、今年は違った。
インスタグラムのストーリーに上がるのは、暇だ、することがない、暇暇暇、とにかく暇だということ。暇だから料理をしたり、散歩をしたり。みんな元来持っていた趣味というリミットを外すと、だれも何をすればいいかわからないんだ、ということ。私は自分で自分はどこか生き急いでいたんだなあ、と改めて認識した。何かしなきゃなんて焦って何かをしたところで、その行動で達成感なんて生まれることってあんまりない気がして。
ふと思えば、前職でも成果を出さなければ人権なし!といった環境で、なにかをやらないきゃ、成功させなきゃ、数字を作らなきゃ、成果をださなきゃ、という思いで働き続けたけど、今の会社は全体的にまったりしていて。もちろん前職では数字を出すことが全てだったんだけど、それで体を壊してしまっては、全く意味はないし。ああ会社って数字を追うことが全てじゃないんだ、と今の会社で認識させてくれた。無駄な時間というわけではないが、人と話をしたり、日々のささやかな変化や細かいとこまで気を配ってみる大切さを社会人になってはじめて私は実感した。
本題に戻って、本当に好きなことってなんだろう。人の幸福は人との比較の上で成り立つのは仕方のないことなのはわかるけど、自分の内観に手をあて、本当にやりたいことを考えるのは難しい。〜しなきゃ、という思考は本当に無駄で、強いて言っても、〜できればいいな、ぐらいの気持ちで一番いるのが楽な気がする。しかしながら私は、私の辞書に暇という文字はない、と思っていて、何もしないでいい時間さえ作る、という強気っぷりです。それでいて、SNSをみてこんな感情になるなんてまだまだだなあ。
自分に甘く、他人に優しく、っていうところが大事
仕事においても、好きなことはできるだけ突き詰めて、やりたくないことはそれが得意な人に任せればいい。全て自分で背負い込む必要は全くないんだ、と改めて考えたGW。
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