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日本人クリエイターが持ちがちな"自身の生み出す著作物に対する極めて独占的かつクローズドな考え方"は、自分にとって非常に理解し難いものがある、という話

表題どおり。

日本人クリエイターが持ちがちな「自身の生み出す著作物に対する極めて独占的でクローズドな考え方」は、自分にとっては非常に理解し難いものがある。それでいて、二次創作の文化が非常に根付いていると言うのだから、なおさら意味がわからない。

例えば、絵柄に著作権はないが、絵柄に著作権があって当たり前みたいな考え方が、なぜ普通に浸透してるのがほんとに意味がわからない。半世紀近くコミケットが続いてきた国でそれをいうか?

が、そうした矛盾を抱えているのが日本人クリエイターのサガであり、結局のところは島国的自閉としか言いようがない。

ネット上のイラストに、自由にタグ付けができる「Danbooru」を毛嫌いしておきながら、なじみ深い類似サービスの「Pinterest」を使ったり、Google画像検索に問題がないと思ったりするのもそう。

集団的無知がなせる業である。

(▲てんとう武士氏は「AIイラストに関しては存在していいと思ってる派」であり、別に「反AI」ではないのだが、これが世間的な認識だと思う)

多くの日本人クリエイターはコモンズ的な考え方に無知無理解


そもそも日本の著作権法は「他人の利用に対する排除する権利」であると同時に「著作物の創造と利用を促進する」という目的がある、きわめてアンビバレントなものである。

だが、そのトレードオフをめぐる議論がクリエイター側でなされた記憶はない。うやむやのうちにここまで来てしまったのが実情だ。それは外国人からしたら、極めてハイコンテクストな文化だろう。多くの日本人クリエイターはコモンズ的な考え方に無知無理解だし、プライドが高いので、残念なことに「前者」のことしか考えていない節がある。

それゆえに大した実害がないにもかかわらず、二次利用を過大に悪と評価し、「お気持ち」次第で徹底的に叩き潰すことが慣例となっているが、それは本来、著作権法が目指した途ではない。むしろ公開した時点で作品は「公共財(コモンズ)」としての役割も果たすというのが自分の立場である。

著作権者は決して「神様」ではないのだが、この国はクリエイターに対する感情的な神様信仰がとにかく強いがゆえに、このギャップは未来永劫に埋まりそうもない。もちろん神としてのリスペクトも必要だと思うが、それが作り手側の無知や無理解を正当化する理由にならない。

他人のまんがで「遊ぶ」ことには寛容なお国柄

コミックマーケットの盛況を見ればわかるが、いわゆる「おたく」と呼ばれる作り手や送り手は、二次創作やパロディにわりと寛容なところがある。

「二次創作やパロディにわりと寛容なこと」と「自作に対する独占的かつ排他的な感情」が共存するのは理解に苦しむが、そういった二次創作活動の原動力こそ「まんがで遊びたい」という欲望のあらわれであるといえる。

で、そんな自身や取り巻きの「遊び」には寛容であっても、他人に使われることに不寛容なのは、虫のいい一方的なわがままに過ぎないと思う。もちろん二次創作の場合、権利者の目に触れるのは良くないという後ろめたさと暗黙の了解があるからだろうが、それはそれでどうなんだろう。それこそ反AIだけど二次創作はOKみたいな論理破綻のダブスタが当たり前になるように。

話は飛ぶが、コミケ初代代表の原田氏はコミケを離れた後に二次創作が異様に氾濫したことを又聞きして「いったい版権はどうなってるんだ?」と思ったそうな。一方、集英社の鳥嶋氏は日々の業務が忙しいので「ファン活動を黙認していた」と証言している。

2代目代表の米やんは80年代以降「まんがの遊び場」に変容していくコミケに対して、あいまいな態度をとり続けたが、そのあいまいさこそコミケ拡大の大きな理由になっている。著作権問題を棚上げにして開催に踏み切れたのは、米やんの優柔不断さと懐の深さ、そして作り手側と読み手側の「共犯関係」に他ならない。

それが半世紀も続いた以上、それは巨大で多様な市場として否定できないものになっているが、ファン活動をめぐる「曖昧な認識」と「自作の権益」を無意識に、強引にひとまとめにしてしまうような土壌や風習が自然と形成されてしまったのだとしたら、この国はあまりに牧歌的だと感じてしまう。

(2024年4月14日)


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