「科学は万能」という無能
科学は人類の知識と技術の発展においてその骨格をなすもの。
現代社会において生活に密着する医療、通信、交通、環境保護など、またそれにとどまらない数多の分野において、私たちはその恩恵を確かに日常生活で享受しています。
そのせいもあってかないのか、科学者への科学万能論者レッテル張りがとまらない。
常に発展途上
科学は観察、実験、そして論理的推論に基づいて自然現象を理解しようとする試みと言える。
自然を理解する上でその方法論は、今日私たちが手にする実用性を備えた応用技術につながった、という意味において有用性は高い。
しかし当然ながら限界もあります。
現時点でベストと思っている知識や技術も新たな発見や技術の進歩によって覆される。
言われてみれば当然のようにも思えるけど、この点を押さえておかないと万能論の深みにはまります。
天動説に対する地動説の台頭を挙げるまでもなく、多くの科学的パラダイムシフトをかつて私たちは経験しています。
得てして人類は、その時点での科学知識を絶対化しがち。
そして過去の研究者の悲喜こもごものトライ&エラーを、あたかも自分には無縁なことのように薄ら笑いで思い返す。
しかし常に進化し続けるものという当然のことを思いおこせば、今手にしている科学知識も絶対的な真理などであるはずもなく。
人類は科学研究を通じて宇宙に生起する様々な現象の多くのことを解明してきました。
それは事実なんだけれども、依然として解明されていない事象だって山ほど存在します。
意識の本質や宇宙の始まり、生命の起源など、宇宙や生命に対する根本的な問いに対するアプローチに至っては、まだまだこれからと言ってよい。
既存の知識だって、よりましなものにグレードアップする必要性に迫られることもあります。
例えば石炭や石油を燃やせば電力は得られるけれども、資源として捉えた時のそれらの有限性とか環境への影響、そして社会の持続可能性を考えると、次世代エネルギー源を求めての研究が必要になります。
歴史的にはむしろ、問題解決が新たな課題を浮かび上がる、この繰り返しだったりする。
研究成果が次の課題をもたらす、と言っても良い。
科学の進歩とは新たな問いを生み出すプロセスでもあるのです。
まずは現象そのものが存在するかどうか
私がこの稿を起こした直接の原因は、超常現象肯定派と呼ばれる人たちの科学者批判にあります。
そのキーワードがまさに科学万能論。
「お前らは科学万能論者だ」ってね。
いやあ、まっとうな科学者なら科学が万能だなんて誰も思っていないって。
看過できなかったのは「科学で解明できない問題が超常現象として残されている」という発言。
こんなの完全に事実から逸脱した妄言というほかはない。
現今科学者が取り組んでいる研究テーマのうち、超常現象にカテゴライズされるものなんてどのくらいあるのだろう?
超常現象について言うと、科学は確かに「超常現象」名でくくられる諸現象の多くを説明することができません。
これについては二つの問いかけが重要でしょう。
まず、超常現象と称されるその現象そのものがそもそも存在するのか、という問い。
UFOや幽霊などの目撃談をことさら取り上げて云々しても、それだけで実在性が認められることはもちろんない。
肯定派(=ビリーバー)が目撃談に飛びつき、それが真であることを前提に話を進めるのは、科学的な態度とは言えない。
というかレベル低すぎて、相手したくない。
それらは大抵、他の事物の見誤りや心理効果などで説明ができるし。
真を置くのは、科学的推論過程を経てそれが真であると確かめられた時。
それまでは最大でも「可能性」にとどめておくべきでしょう。
ついでに言うと、UFO(未確認飛行物体)という用語が指し示すのは、本来は空を飛んでいてその正体が不明なものすべて。
それイコール「宇宙人が乗った宇宙船」みたいな議論をしている自称UFO研究家は、もうその事実だけで研究家を名乗る資格はない、と私は思っています。
言葉の定義をあいまいにしておく段階で、研究もへったくれもないでしょ。
ESP(超感覚知覚)は、Wikipediaによれば「五感や論理的な類推などの通常の知覚手段を用いずに、外界に関する情報を得る能力」。
これに含まれるのは、テレパシーや透視などですね。
これと念力を含めて超能力と言ったりします。
この辺についてまず問題なのは、手品と区別がつかない。
ご存じのとおり、今のマジシャンってすごいですからね!
手をかざして方位磁石を動かすのだって、ユリ・ゲラーが超能力だと称してやるとそれっぽいけど、あの程度のことマジシャンならはっきり言ってお手のもの。
なおかつ彼らはタネも仕掛けもある手品だよと明言し、エンターテイメントとしてやっている。
此と彼の線引き、なかなか難しいよ。
科学者赤っ恥
科学的な調査対象として、超能力を実地研究する試みはありました。
一例として1979年、米ワシントン大学が設立したマクドネル超能力研究所。
超能力者を詐称したマジシャンの見せる技を科学的に検証すること4年、ついにホンモノ認定、つまり本当の超能力とのお墨付きを与えてしまいました。
1983年、当のマジシャンたちは満を持して記者会見。
「すべてマジックでした」と。
手品と超能力を現象面から見極めることの難しさを物語るエピソードです。
発展性に正しく期待
「超常現象」なるものを科学が説明できないことに対する二つ目の問いかけ、それが冒頭の科学論に直結します。
現在の科学がピーク、という捉われ(うぬぼれ?)からの科学無力論。
万能論で科学者を攻撃する蒙昧さが、この無力論に結びついてもいる。
万が一超常現象自体の存在が認められたとしても(私は可能性はあると考えています)、それが必ずしも科学の無力さを意味するものではない、ということ。
それは現時点での科学的理解の範囲を示しているに過ぎないのです。
科学は常に新しい証拠や観察結果に基づいて自己修正を行います。
これが科学的方法論の強みであり、その柔軟性と適応性が科学の信頼性を支えています。
注意すべき点として、科学は人間の価値観や倫理観を直接指し示すものではない、ということ。
一定程度客観性をもった事実を提供することはできます。
しかしそれをどのように利用するか、あるいはその結果をどのように解釈するかは、人間の判断に委ねられます。
例えば遺伝子編集技術。
それ自体は重要な科学研究の帰結であり知識の進歩ですが、その適用には倫理的な議論が伴います。
科学は、社会的・倫理的問題に対する答えを提供するというより、それらの問題を理解するための重要な情報を提供する役割を果たします。
科学の本質を正しく理解し、その限界を認識することで、科学をより効果的に利用することができる、と言えるでしょう。
「科学は万能」などとは、いずれの意味においても言えないことはもうお分かりでしょう。
科学者は科学の不完全さを理解しているからこそ、絶え間ない探求を続けています。
この探求心こそが、科学を前進させる原動力であり、人類の知識を深める鍵となるのです。
科学の限界を認識することはまた、他の知識体系や視点を尊重することにも繋がります。
科学的手順は非常に強力なツールですが、それだけが唯一の、真理に迫る手段を提供するもの、でもありません。
哲学や宗教、芸術など、他の領域にも人間の理解を深めるための重要な視点があります。
これらの視点を統合することで、人間として生きるためのより豊かな知識と洞察が得られるのではないでしょうか。
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