見出し画像

第2夜「教育を『関係』として捉えてみる」の解説



おはようございます。今回は第2夜の解説になります。元の音声はこちらで聞けますので、聴きながらご覧ください。


【内容の紹介】

前半は、前回の復習を踏まえた上で、「しつけ」「ケア」「教育」の三つについて話し合った。この三つは昔はそれぞれ別の人が担っていた(しつけは親、ケアは町の衆、教育は学校)。しかし現在は、3つ全てを親がやろうとしている。そこに過剰な負担と、役割の混線が起こって、親子間の様々な問題の原因となっている。

後半の話題は、教育と能力開発の間のギャップ。上位の大学に行く人は、高校その他の教育の内容が役に立つ。他方でそういった大学に行かない/行けない人にとってどんな意味があるのかという問いがたてられ、解答として、教育の形式(90分座っていられる、など)が役に立つという説が挙げられ、部活や行事もその類ではないかという話があった。また、能力かいは、自分の置かれた環境や前提を批判する能力を養うという点でも重要だという指摘があった。



【用語の解説など】


9分ごろ「理念型」
ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが用いた用語。現実の個々の出来事を理解するために、特定の観点からその出来事の本質を抜き出し、論理的に整合するように結合させた型をさす。例えばこの音声では、独自の社会・教育観から「教育」という現象の本質を考察して(しつけ・ケア・教育)、それを用いて現実の教育を理解しようとしている。


10分ごろ「リベラリズム」
自由で独立した個人同士の対等な関係を基礎とする社会。音声で言及されていたが、「教育は対等ではなく、リベラリズムに回収できないものがあるが、リベラルな社会である限り、子供はリベラルな主体として育てなければならない」というジレンマがある。


11分ごろ「立憲主義国家」
動画でも言われていた通り、個人の自由が前提としてあり、それを守るために国家を縛る、権力に勝手なことをさせないという考え方。
よく民主主義と並べられるが、立憲主義に則ると、「みんなが決めたからといって(たとえ「民主的」であっても!)、個人の自由を奪ってはいけない」ということになるので、立憲主義と民主主義とは対立することもある。音声では「リベラリズム」と並べられていたが、これと「立憲主義」「民主主義」との関係はどうだろうか?


15分ごろから「しつけとマナー」
万人に共通のマナーがあるのか、また、押し付けでないマナーはあるのかという話になっている。
通常は、正当な理由があるからマナーになるというわけではなく、不安や嫌悪感が一定の形を取ってできたのがマナー(例えば、ヨーロッパ人がフォークを使い始めたのは、病気になるからという訳ではなく、手で食べるのがみっともないから)なので、普遍的ではなく、ある程度押しつけとなっていることが多い。
また、教育からは少し外れるが、マナーは暴力や衝動を抑え込んだり、文明化とも関わったりしている。気になる方はこのあたりをご覧になってください。

38分ごろ「(開成は)教育してない」
開成ではどういう意味で教育していないのかは語られていないが、一般に進学校ほど校則が緩く(ない場合も少なくない)、教師も介入せず、授業は(教師が趣向を凝らしてはいるが)強制されず、塾にも行かず、といったように好き勝手やっている印象がある。


51分ごろ「階層の固定化」
貧しい人の子供は貧しいまま、お金持ちの子供はお金持ちのまま、といったように、生まれた時の生活のレベルを変えることができず、固定してしまうこと。反対後は、「階層の流動化」で、例えば「貧しい人(貧しい家の子供)でも頑張ればお金持ちになれる状況になる」ことを指す。ここでは経済を例に取ったが、社会的地位(商人の子は商人)など、別の基準についてこの言葉を使うこともありうる。


今日はここまでになります。気になることなどございましたら、コメントをいただけると嬉しいです。


いただいたサポートは、他のnoteクリエイターの方の応援に使わせていただきます。 コメントにてご感想等いただけたら大変嬉しいです。 ご質問等がもしございましたら、執筆者名指しでいただければ、記事内で回答させていただきます。