『二十歳の原点』に寄せて

独りであること、未熟であること。
これが私の二十歳の原点である。
高野悦子『二十歳の原点』

二十歳もとうに超えてしまった今、ようやく『二十歳の原点』を読んだ。50年前に京都のまちに実在したある女子大生が、20歳で自ら命を絶つまでの日記である。

いまミスiDというコンテストに応募していて、せっかく「#読書と女子」という企画をやっていたので、この本について何か書きたいと思い、相方に写真を撮ってもらい、駆け足で文章を書いて、Cheersに載せた。最終日23:58のことだった。2分後には企画が終了しタグそのものが消えてしまったので、読み手を失った記事は錨を失った船のようによろよろと漂流しだしたという。はたして、誰かの目に触れたのだろうか。
『二十歳の原点』に寄せて色々と書きつけたつもりだったけれど、「何の本の話かわからない」「そもそもこれは本の話なのか」などと友人や相方に言われ(それもそうだよな)と思ったので、少しだけ補足を加えておきたい。そして、恐らくほとんど誰の目にも触れなかったこの文章の供養をしたい。

この本を知ったのは20歳を過ぎてからだったけれど、20歳の私なら、この本はきっと怖くて読めなかっただろうと思う。
あの頃の私は、「死」について考えること自体がタブーだと思っていたからだ。まっすぐ見つめようとすると、そちら側に引きずられてしまいそうだと感じたから。禍々しいことを考えたらそれだけで、破滅してしまいそうな気がしていたから。今になって偶然この本を手にしたことは、実は偶然ではなかったのかもしれない。

読んでみてすぐ、ああ、わかるなあその気持ち、と思った。
彼女の生きた時代はちょうど学生運動の真っただなかだった。目の前に広がる闘争、意志と意志のぶつかり合いに、傍観する大多数の学生たち。私は類似する学生運動を現実に見たことはあれど、参加したいと思ったことはない。しかし、彼女の気持ちはよくわかる。傍観なんてとんでもないが、ただ漫然と参加するだけでは「自分の意志を持っている」とはいえない。彼女は自分のなかに、自分だけの思想体系を構築しようとした。自分の思想がない怖さ。薄っぺらな思想を破られる怖さ。自分の考えにすら、自覚的でない怖さ。とてもよくわかるのだ。

一つひとつの思想を精査し、何に賛成するのか、何に違和を感じるのか、考えなければいけない。自分の立場を明確にしなければいけない。でも、そう考えるのが正しいとするこの姿勢すら、誰かの言葉の受け売りかもしれない。
私は自分の考えに自信をもつことが出来ない。いつも、真逆の意見が頭をよぎる。どちらの考えをを自分の意志とするか、判断するのは自分だけど、対岸の人びとの考えを否定しきることはできない。
毎日あらゆることに自覚的でいようとすればするほど、相当の精神が疲弊する。考えるべきことは頭の網をすり抜けて、誰も見えないところへ逃げてしまう。高野さんは、生きることを実感するため、炎に指をかざして自覚的に痛みを求めた。私にはそんな勇気はないけれど、自罰的に、半ばやけくそで、自覚できる痛みを望んでいるのかもしれない。

二項対立では決して言い表せない世界の事柄や、複雑な自分のあれこれを、言葉で伝えようとすること自体がおこがましいのかもしれない。表現はどうしても曖昧かつ煩雑になってしまう。どこまで伝わっているのか。
しかし、これだけは言える。生々しい葛藤や生活のなかのひとときの軽やかさ、悩み、弱さ、何を書くかを選び取り、悩みながら、衒うことなく書いた彼女自身との対話の記録に、私は心を動かされたのである。

最後に、Cheerzに掲載した投稿の全文を引用する。

非日常性は没落し、いまや日常となった。日常のあいまに存在するひとつひとつの矛盾を拾い上げ、埃を払い、また元の場所に戻す。 
非日常性に没落し、本心はもはや放棄された。夢見る足取りで遊ぶように、毎日を歩く。私達は、何と闘っているのだろうか?

なぜ私達の身体は、降り注ぐ雨を凌ぐのだろう。
なぜ私達は、自覚的になることから目を背けるのだろう。

自覚的な痛みを望んで炎に指をかざす勇気なんてない。よく知る行き先のバスに乗り、聴きたくもない歌を聞いて、自覚的に乗り過ごす勇気。それだけだ。随分遠くに運ばれた頃合いから我に返り、ほらまた、時間に置いていかれるさまを演じる。あの胸の痛みはいったいなんだろうか。

「そんなに考えなくても良かったのに」
そうだろうか。

生きたいと生きたくないの狭間で、刹那、少し極端にふれてしまえばおしまいだ。なんだってそうだ。ある事柄を意識すること、しないことは紙一重だ。

滞留する歴史。顔も知らぬ誰かの歴史。
思想とは木の葉みたいなもので、堆積し、踏みしだかれ、砕けながら散逸する。風化の過程をたどるちっぽけな生命の軌跡。それを無視できるほど、私達はまだ成熟していない。遠くから誰かの足音を聞く。そのたびに、また砂を噛む。

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