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饗宴・クエンカの夜【スペイン】

その日、僕はずっと憧れていた街で見知らぬスペイン人たちと踊り狂っていました。
両手に持った2つのグラスには溢れんばかりに酒が注がれ、僕はそれを同時に飲み干しにかかります。
一瞬でグラスを空にした僕は、DJブースに乗り込み、意味もわからず「ママダ!」と叫びました。
気がつけば、パーティーの中心にいるのは僕でした。

ただの観光客として訪れたはずのこの街で、なぜ僕はこんなことをしているのか。

そこには、マリオという男との出会いがありました。

旅立ち

マリオに会ったのは約4年前、僕がまだ大学院生であった2016年9月のことです。
このとき、僕はスペインに来ていました。
なぜなら、大好きなアニメ「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」の舞台がスペイン・クエンカにあったからです。(タイトル追記しました)
「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」はガチで名作なのでぜひ多くの方に観ていただきたい。僕は布教のためにこれを書いたと言っても過言ではありません。

2010年に放送されていた「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」は、僕の心を6年間に渡ってガッチリと掴み続け、いつしかその舞台となった場所へ行きたいと思わせるようになっていました。
就職前にこの思いを成就させておきたかった僕は、卒業前の忙しくなる時期を迎える前にスペインへ行くことを決めました。
面倒を見てくれている教授からは「本当に卒業できるのか?」とガチめな心配をされましたが(友人たちが論文を書き進めている中で、僕はまだ1ページたりとも書いていなかったから)、僕は「まあなんとかなるやろ」とどこか他人事のように考えていました。
頭の中はもう「やっとあのアニメの舞台に行くんだ!」と、聖地巡礼のことでいっぱいでした。

スペイン到着後は、列車を乗り継いでクエンカに向かいます。
乗換駅では、違うホームに行くためにバスに乗る必要がある(しかも乗り換え時間がめちゃくちゃシビア)、という攻略本を見ないと分からないタイプの鬼畜トラップに引っかかりそうになりつつも、心優しい現地のお兄さんに助けられ、なんとか無事にクエンカに到着することが出来ました。
6年間想い続けた場所が今、目の前に…!

魔法にかけられた街 クエンカ

さて、クエンカに着いたとは言っても、ここはまだ駅のなか。
ここから更にバスに乗ってクエンカ旧市街まで移動する必要があります。
タイミングの良いことに、旧市街中心部まで直通のバスが来ていたので早速乗り込みました。
車内は座席が埋まるかどうかといった混み具合で、観光客と思わしき方もいます。これが僕と同じように聖地巡礼に訪れた人だったら嬉しかったのですが、まさかそんなことはないでしょう。普通に観光しに来ただけだと思います。
ご存じの方もいるかも知れませんが、実はクエンカはユネスコの世界遺産にも登録されている、由緒正しき観光スポットなのです。

クエンカ旧市街エリアは、切り立った断崖絶壁の上に形成されており、その歴史的な建造物群が評価され、「歴史的城塞都市クエンカ」として世界遺産リストに登録されています。まるで冒険の終盤に出てくる街みたいな大層な名がつけれらていますが、この名はダテではありません。
崖の上に建てられた街という特異な景観に加え、古くから残された建造物を中心とした落ち着いた街並み。決して大きい街ではないですが、少し歩いてみただけでもこの街の素敵をたくさん見つけることが出来るはずです。

「これからこの街で素敵なことに出会うんだ」
そんなことを考えながら車内で揺られているうちに、バスは旧市街中心部の広場に到着しました。

「すごい!アニメに出てきた光景そのまんまだ!」
バスから降りてすぐ飛び込んできた光景に、僕のテンションは否応なくブチ上がります。

ここはマヨール広場と呼ばれ、旧市街エリアはここを中心として四方に広がっています。
クエンカ観光の開始点となるこの場所は、カラフルな建物に囲まれており、奥にはクエンカ大聖堂が存在感を放ちます。憩いの場所でもあるのか、真っ昼間からワインを飲んでいる陽気なスペイン人で溢れていました。

「僕は今、主人公たちが歩いた場所と同じあの場所を歩いているんだ」
まるで自分が作品の主人公になったような気持ちで、僕は街歩きを始めました。

圧倒的な存在感を放つクエンカ大聖堂。
何かを信仰しているわけではない僕でしたが、ここでなら何かが願いを聞き入れてくれるのではないか、そんな気がしました。
「どうか無事に、楽しくこの旅を過ごせますように」
実は海外に出るのが始めてだった僕が、こう願ったのも無理ないことでしょう。
この願いが届いたのか、無事かどうかは怪しいところですが、楽しい時間を過ごすことは出来ました。

大聖堂から5分ほど歩くと、おそらくクエンカで一番有名な建造物「宙吊りの家」が見えてきます。

断崖絶壁にせり出すバルコニーが特徴的なこの建物は、別名「不安定な家」とも呼ばれ、クエンカを象徴する建物のひとつです。
18世紀中頃までは市庁舎として使われていたようですが、現在では「スペイン抽象美術館」として一般に開放されています。

アニメでは、このバルコニーから主人公が落っこちそうになるシーンがあったため、僕もそのシーンを再現してみたかったのですが、当然のようにバルコニーに出ることは出来ませんでした。まあ落ちたら普通に死にますしね。
アニメを抜きにしても、クエンカが崖の上にあることを強く意識することが出来る、おすすめスポットの一つです。

次はバルコニーから見えている赤い橋へと向かいます。

クエンカを支える断崖は、2つの川の侵食によって形成されました。その川に架かるのが、このサン・パブロ橋です。
宙吊りの家を外から楽しむには、この橋の上から眺めるのが一番迫力があります。また、橋を渡りきったその先からはクエンカ旧市街を横から眺めることができ、改めてこの不思議な街並みを楽しめるようになっています。

断崖絶壁の上に形成された街並みは、遠くから見ると街全体が浮いて見えることから、「魔法にかけられた街」とも呼ばれています。
しかし、魔法にかけられるのは街だけではありません。
ここで過ごす人たちもまた、魔法にかけられたように楽しそうにしています。僕自身もこの街に来てから、気持ちが高まりっぱなしです。
そして、この後のマリオとの出会いはまさに魔法であったと言えるでしょう。

旧市街側からサン・パブロ橋を渡ると、左手に大きな建物が見えてきます。

16世紀に修道院として利用されていたパラドールです。
パラドールとは、歴史的に価値の高い建造物を改装してつくられたスペイン国営ホテルのことです。
城や宮殿、ここクエンカのように修道院などがベースになっており、中には世界遺産の敷地内に泊まれるような場所もあります。
スペイン旅行の際にはぜひ泊まってみてください。そこそこお高いですが(クエンカは一泊朝晩付きで2万円くらい)、泊まってみる価値は十分すぎるほどにあります。ご飯も当然美味しいです。

パラドール内は元修道院というだけあって大変落ち着いた雰囲気で、のんびりと過ごすには最適です。
宿泊者以外でもカフェや食堂は利用出来るようなので、雰囲気を味わいたい人はカフェで飲み物を注文し、そこらのソファで一服していくのも良いかと思います。

パラドールの中庭では、ちょっとしたパーティーを開いている集団がいました。混ざってみたいところでしたが、旅行に備えて覚えてきたスペイン語が、「¡Hola!(やあ)」「Si(はい)」「No(いいえ)」「Gracias(ありがとう)」の4つだけだったことを思い出し、泣く泣く断念しました。
しかし、この「パーティーに混ざってみたい」という思いは、このあと思わぬ形で実現することになります。

このあと作品内に登場した場所を探すために、旧市街へと戻った僕の目に一枚のポスターが映り込みました。

饗宴 サン・マテオの夜

SAN MATEO 2016 CUENCA。

どうやら今日は「サン・マテオ」というお祭りのようです。道理でどこも人で溢れていたわけだ。(実は今までの写真のほとんどは別日に撮ったもので、実際には広場に着いたときからどこもかしこも人人人だった。)

(当日のマヨール広場の様子。広場だけじゃなく広場に面した建物の窓からも人が溢れている。)

祭りで賑わう街を縫うように歩きながら撮影スポットを探していると、俺たちも一緒に写真撮ってくれよ!と言わんばかりの陽気な3人組に声をかけられました。
最初は、「これが噂に聞くスペインの強盗ってやつか!」と思ったのですが(スペインでは仲良くなったふりをして根こそぎ荷物をパクる強盗がいるらしい)、どうやら単純に祭りで浮かれているだけで、特に悪意は感じられませんでした。
この警戒心のなさは自分でもどうかと思うのですが、とりあえずカメラを向けると笑顔になってくれたので、一緒に写真を撮りました。

このあと起こることを思えば、この3人組くらいは肖像権とかガン無視でそのまま載せても良い気がしましたが、まあ良い訳がないのでおとなしくモザイクでもかけておきます。僕はシャイボーイなので自分に一番強いモザイクをかけておきました。

写真撮影も済み、その場を離れようとすると、この3人組は「ヘイ!俺たちについて来いよ!楽しませてやるぜ!」と、まあそんな感じの身振り手振りで語りかけてきます。
本来は警戒すべきなのでしょうが、生来の「まあ、なんとかなるやろ」精神が働き、僕はそのまま彼らの中に飛び込んでいきました。アニメでも主人公が街のお祭りに飛び込んでいくシーンがあったので、同じ体験がしたかったというのもあったのでしょう。

彼らは自己紹介をしてくれるのですが、当然何を言っているか分かりません。かろうじて名前くらいは聞き取れましたが、それも一人分だけでした。それが真ん中に写っていた男、マリオです。国民的ゲームの主人公と同じ名前である彼との出会いこそが、僕の記憶から決して消えることのないハプニングの数々のはじまりでした。

マリオ含む3人は終始陽気な様子で話しかけてくれますが、相変わらず僕は何も分かりません。そこでようやくgoogle翻訳という文明の利器に頼り、なんとかコミュニケーションを取ることに成功しました。
そうやってなんとか話しているうちに、マリオがどこからかワインとビールを持ってきてくれました。どうやら祭りということでそこら中においてあるようです。皆グラスを片手に祭りを楽しんでいるようでした。
このとき飲んでいたのは、スペインの「mahou」というビールでした。「魔法にかけられた街」で「mahou」のビールを飲むなんて、なんだか素敵です。

酒を飲み始めると陽気は加速し、そのうち翻訳を挟みながらの会話がなんだか可笑しくなってきて、とうとう笑いだしてしまいました。僕と彼らの間で言葉は通じていませんでしたが、楽しいという気持ちは同じでした。
そのうち、マリオが「いい場所に連れて行ってやる」とどこかに向かって歩き出しました。なぜかやけに酒を渡してくるマリオのせいで、右手にワイン、左手にビールという鉄壁の布陣で僕もついていきます。(グラスが空になると新たな酒がどこからか注がれる難攻不落のアル中製造システム、逃れる術はない。)

連れてこられた場所は、街の端にある小さな広場でした。
既に多くの人が集まっており、これから何か始まる気配がプンプンしています。
どうやら僕に話しかけてくれた3人組は顔が広いらしく、広場に集まっていた人たちに僕のことをガンガン紹介していってくれます。
僕はそのたびに「¡Hola!(やあ)」と挨拶していたのですが、横からマリオが「「¡Hola!(オラ!)」はイケてない、「¡Mamada!(ママダ!)」がイケてるぜ!」と親切にも教えてくれたので、途中からは「ママダ!」と挨拶していました。これで僕もイケてるスペイン人の仲間入りです。
しかしどうにも相手の様子がおかしい。というのも、僕が挨拶すると男連中は大喜びし、女の子たちは皆顔をしかめてどこかへ行ってしまうのです。
何かがおかしいはずでしたが、酔い始めた頭ではまともな判断は出来ませんでした。その後も僕はマリオの言うとおりに「ママダ!」と言い続け、グラスが空になるたび補給される酒を飲み続けたのでした。

しばらくすると音楽がかかりだし、広場に集まっていた人たちが一斉に踊りだしました。
酔いも手伝ってフラフラになりながらも、皆が教えてくれるダンスを僕も踊ります。隣では、陽気が最高潮に達したマリオが僕に向かってワインをかけ始めていました。
「え?なんで?」
そんな当然すぎる疑問をよそに、マリオは嬉しそうにワインをかけてきます。何が面白いのか今となっては全く意味がわからないのですが、踊っている僕の足に向かってじゃぶじゃぶとかけてくるのです。それも足元に撒いているわけではなく、靴に注ぎ込むように直接。
白かったはずの僕の靴は一瞬で汚い紫色に染め上げられました。マリオは嬉しそうに笑っています。
「これがスペインのお祭りか…」
ですが、周りを見渡してみても他にそんなことをしている人はいませんでした。

ここで思いもよらない方向から声が掛かりました。
一人で祭りに来た挙げ句、スペイン語も話せないくせに周りとワイワイしながら踊り狂ってる日本人が珍しかったのでしょうか、音楽を流していたDJブースの方からお声が掛かりました。
気がつくと広場の中心で踊っていたために、よほど目立っていたのでしょう。導かれるままに、トラックに乗り込むことになりました。

DJブースに入った僕を迎えてくれたのは、熱烈な歓迎でした。先程まで一緒にいた3人組とその仲間たちが僕に呼びかけてくれます。全然知らない人だって口笛を吹いて盛り上げてくれます。
僕は生まれてはじめて、自分が主人公になったのだと確信しました。人は誰もが人生のどこかで輝ける瞬間があると言います。きっと僕にとってはそれが今日なのでしょう。
今日だけは僕も、アニメの主人公みたいになれるんだ!聖地巡礼に訪れた先で主人公のような経験が出来るなんて、どれほど素敵なことなんだろう!

と感動したのはいいものの、せっかくDJが話しかけてくれているのに相変わらず何を言っているのかさっぱり分かりません。せっかくステージに上ってきたにも関わらず、僕は地蔵のように立ちすくむことしか出来ませんでした。
ここで思い出したのはマリオが教えてくれた素敵な挨拶。未だに意味は分かりませんが、ここで使うのも問題ないでしょう。むしろこういう場のほうがふさわしいのかもしれない。そう考えた僕はDJからマイクを奪って一言、

「ママダ!」

と叫びました。
これがよっぽど良かったらしく、前の方にいた男連中を中心ににめちゃくちゃウケてました。あとさっきまで毛虫を見るような反応をしていた女の子たちにもちょっとウケてた。
ありがとう、マリオ。お前の教えてくれた挨拶、役に立ったよ。

その後は何故かビンゴのガラガラを回す係に就任したのですが、「数字を読み上げることが出来ない」という致命的すぎる欠点が判明し、即座に解任させられました。
彼らは一体何を思って僕にガラガラを回させていたのでしょう。
何聞かれても無言で、かと思えばいきなり「ママダ!」って叫びだすやつが数字の読み上げとか出来るわけ無いだろ。こっちは4つしかスペイン語を知らないんだぞ。
ころっと「15」とか出てきたときの絶望感を教えてあげたい。

広場に戻った僕を待っていたのは、知らない人たちとの写真撮影ラッシュでした。面白いくらいに皆が一緒に写真を撮ろうと言ってくれます。ここでも「ママダ!」は大活躍でした。やっぱり今日は僕が主人公の日なんだ。
Tシャツが赤紫色に染まっていますが、元からこんな色だったわけではありません。もうおわかりかと思いますが、これもマリオの仕業です。あいつ、靴だけじゃ飽き足らず、シャツにまで酒をかけてきやがった。
マリオは普段、マトモに生活を送れているのでしょうか。彼の日常が少し心配になりました。

暗くなっても写真撮影は続きます。会う人会う人みんなが酒をくれるので、僕はもうベロベロです。
ここから何故か僕のTシャツが変わっています。ワインで汚れているのは相変わらずですが、柄がさっきまでのものと明らかに異なっています。

この理由は単純明快で、どこからともなく現れたプロレスラーみたいな体格をした男が僕の着ていたTシャツをビリビリに破いていったからです。
嘘だろ!?と思われるかもしれませんが、一番、嘘だろ!?と思ったのは破られたときの僕でした。迷惑なハルク・ホーガンかよ。
Tシャツを破いた彼は、破ききったことに満足したのか、他には何もせず僕のもとを去っていきました。
あとに残されたのは間抜け面で佇む上半身裸の僕。知らない人にいきなりTシャツ破かれたときはどう反応するのが正解なんでしょうか。

それを不憫に思ったのか、どこからかTシャツを持ってきてくれた人がいたました。
「この街ってヤバイやつしかいないのかと思ってたけど、ちゃんと優しい人もいるんだな」
ですがよく見ると「お前それどっかで拾ってきたやつだろ」というレベルでぐしゃぐしゃになっていた挙げ句、既にワインでビシャビシャになっていたので唖然とすることしか出来ませんでした。
まあ着ましたけど。

どこの国でもそうなのか、調子に乗ったアホというのは、写真撮影のときに大きく口を開けて舌を出すようですね。4つのアホ面が並ぶこの写真を、当時の僕は何を思って撮ったのか。

酔いが最高潮に達していたときの一枚でしょうか。僕だけ動きすぎてブレブレになってしまっています。子供ならお母さんに怒られるやつです。
ですがここはクエンカ。怒るお母さんはここにはいません。僕と、肩を組んでいる彼が楽しければそれで良いのです。

こんな調子で知らない誰かと映っている写真が40枚くらいありましたが、恐ろしいことに撮った記憶がある写真は3枚だけでした。酒にやられすぎた僕の脳みそは早々に使い物にならなくなっていたようです。
ここで一つ疑問が出てきます。
この写真を撮っていたのは誰なんでしょう。ほとんどの写真で僕は全身込みで写っています。僕専属のカメラマンでもいたのでしょうか。
今となってはもう確かなことは何もありませんが、この夜、僕は誰かと仲良くなれていたんだと思います。

この夜のことはもうかなり曖昧です。
果たして僕は誰と一緒にいたのか。何を食べ、何を飲んだのか、あるいは飲まされたのか。なぜマリオは僕の靴にワインを注ぐのか。なぜTシャツは破かれたのか。写真を撮っていたのは誰だったのか。
でも写真から分かることはあります。
言葉が通じない外国人である僕に皆が良くしてくれたこと。それが本当に嬉しく、そして楽しかったこと。
それだけ分かっていれば十分なのです。

そうして、饗宴の夜は更けていきました。

祭りのあと

翌朝、目が覚めると病院のベッドの上でした。
「知らない天井だ」
寝ぼけている脳みそを叩き起こし、あたりを見まわすと、そこはどうみても病院でした。
ふと違和感を感じ左腕を見てみると、思いっきり注射針が刺さっていました。まさか変な薬を注入されているということはないと思いますが、得体の知れない液体が知らぬ間に自分の体内に流れ込んでいたことを思うと少し泣きそうになりました。

しばらくすると看護婦さんらしき人が僕の目覚めに気づき、何事かを話しかけながら針を抜いてくれました。
次に先生らしき人が現れ、何かを話しかけてくれます。おそらく僕のことについて話してくれているのでしょうが、自分のことのはずなのに全く意味がわかりません。
この時ほど言葉が通じない恐ろしさを感じたことはありません。昨夜の自分に何が起きたのかわからないまま会話が進んでいくのです。
わけもわからずに頷いていると、一枚の紙切れを渡されました。
そこには僕の名前と小難しいスペイン語がつらつらと書かれています。どうやら診断書のようです。帰ってからこれを翻訳すれば自分の身に何が起きていたのか、分かるかもしれない。

それを受け取るとすぐに病院を出るようにと促されました。正直、二日酔いでマトモに動ける状態では無かったのですが、出て行けと言われたら仕方ありません。
幸いなことに、スペインでは旅行者が救急で運ばれた場合の医療費が無料だそうで、僕は一切の支払いや手続きをすることなく病院を後にすることが出来ました。

地図を確認すると、どうやらホテルは歩いて帰ることが出来る距離にあったため、歩いて帰ることにしました。
道中は何度も吐き気に襲われ、実際何度か吐いてしまっていたのですが、そんなことを繰り返しているうちに、せっかくもらった診断書に吐瀉物が掛かってしまうというハプニングが。
こうなってはもうどうしようもないので、泣く泣く診断書は廃棄。僕の身に何が起きたのか知る術は永遠に失われてしまいました。
酒まみれの日本人がフラフラになりながら早朝の街を練り歩く様は相当異様だったのか、すれ違う住人全員が避けるように端に寄っていくのが印象的でした。

それでもなんとかホテルにたどり着き、自分の姿を確認します。

そりゃこんな格好した外国人がフラフラしながらこっちに向かってきたら全力で避けるわな。

せっかく手に入れた新たなTシャツではありましたが、酒にまみれ過ぎて悪臭を放っていたため、即座にゴミ箱行きに。パンツまでワインで湿っていたので風呂に入って着替えます。
ですが、ここでもやはりマリオが存在感を放ちます。
服は着替えれば済みましたが靴はそうもいきません。いまだに湿り気を帯びた靴は、一晩経ったことによりとんでもないレベルの異臭を放つようになっていました。履いているだけで病気になりそうです。
結局、靴を履かないという選択肢はないので、もっていたティッシュで出来る限り水分を吸収する、という涙ぐましすぎる対策(ほとんど効果はなかった)をとって、またこの靴を履くことにしました。
もちろんこの間も二日酔いは続いており、靴の匂いも手伝って、僕は何度も吐きそうになりながら出発の準備をすすめたのでした。

この日の移動先は、「もし1日しかスペインにいられないのなら迷わずトレドへ行け」と言われているくらい美しいトレドでしたが、僕が満足に観光できなかったのは言うまでもありません。

すばらしきこのクエンカ

クエンカには素敵な景色が溢れていました。
断崖絶壁の上にそびえ立つ歴史的建造物群は、自然との見事な調和を見せてくれ、異国ならではの穏やかな時間を提供してくれます。
大自然と人工物が高いレベルで混ざり合ったこの独特な景観は、「魔法にかけられた街」の名にふさわしく、日常から非日常へと僕たちを誘ってくれることでしょう。
印象的な建物や華やかなスポットこそ少ないものの、街全体を包み込む落ち着いた時間、空気は非常に心地よく、確かな癒やしを与えてくれるものでした。
元々は聖地巡礼のために訪れた場所ではありましたが、気がつけばそんなことは関係なく、僕はこの落ち着いた街が大好きになっていました。

そして、そんなクエンカには景色以上に素晴らしい人々が住んでいました。
言葉もまともに話せない外国人である僕を祭りに誘ってくれ、酔いつぶれるほどに楽しませてくれ、倒れたあとのケアまでしてくれる。
もちろん、自分が幸運なだけだったという自覚はあります。
見知らぬ土地で飲みすぎて倒れた僕は、そのまま放置されあっけなく死んでしまう、なんて結末も十分にありえたことでしょう。死ぬまではいかなくても、身ぐるみ剥がされて無一文になっている、なんてのはありそうな話です。
ですが実際には、病院にまで運んでもらえ、荷物はすべてリュックの中に残ったまま、倒れるほど飲んだのに財布の中身は全く減ってない。残された写真に映るのは笑顔の皆。
あの夜、僕と関わってくれたすべての人にはただただ感謝するばかりです。

残念なことに、あれだけ色々な人と祭りを楽しんだにもかかわらず、誰の連絡先も残っていませんでした。こうなったら、いずれまたクエンカへと行き、直接彼らを探すしかありません。
しかし、社会情勢を考えるとどうやらそれは少し先の話になりそうです。

今、世界中が新型コロナウイルスによる被害を受けています。
それは個人のレベルでも、会いたい人に会えなかったり、行きたい場所にいけなくなったり、あるいは経済的な問題を引き起こしたり、と様々な形で表れています。
本来であれば、僕もこの2020年にクエンカを再訪する計画を立てていたのですが、一連の騒動により白紙に戻さざるを得ませんでした。

旅は新しい人との出会いでもあります。旅先で出会う人というのは、その旅を良いものにも悪いものにもする重要な要素です。その点について言えば、僕がクエンカで出会った人たちは間違いなく最高だったと断言できます。
この騒動が収束した際には、また旅に出て素敵な出会いを探していきたいと思います。
もちろん、クエンカで無事にこの騒動を乗り切ったマリオたちと再会できれば、それが一番嬉しいのですが。

最後に。
日本に帰ってきてから、「ママダ!」の意味が気になって調べてみました。

「フェラチオ」でした。
何度調べ直しても「フェラチオ」でした。

楽しい思い出のきっかけを作ってくれたのはマリオたちです。そこは勿論感謝していますし、出来ることならもう一度直接会ってお礼が言いたいくらいです。
ですがこれはあまりにも。人を挨拶代わりに「フェラチオ!」と叫ぶモンスターに育て上げるなんて、どんな鬼畜の所業ですか。DJからマイク奪って「フェラチオ!」って、前世で何をしたらこんな業を背負わなきゃいけないんですか。

知らぬ間に遠い異国の地でド変態になっていたことには驚きを隠せませんが、それ以上に、そんなド変態に対しても優しく接してくれたクエンカの人たちには改めて感謝するばかりです。
でもやっぱりマリオには文句を言ってやりたい。
「フェラチオじゃねえか」って当然すぎる文句を言ってやりたい。
それから笑って、日本の挨拶は「クンニちは」って言うんだぜって教えてやろうと思います。

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