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私の「生きづらさ」の原点は…?

幼稚園時代にはガリガリ体型だったのに、腎盂腎炎で入院し、退院した後ぐらいから、気がついたら、肥満体となっていた。

身内の話によると、話出したのが遅くて、それが解消した途端、打って変わって超おしゃべり。知らない人の後をよくついて行ってしまうような子供だっだとか。

我が家は父親が長男で、父方の祖父母とも同居した三世代6人の大家族でした。姉は父に似て、引っ込み思案で大人しい性格で、次女として生まれてきた私は人懐っこく、何故か誰かが遠出する際には、もれなくお供になっていたし、両親共に共働きだったので、必然的に祖父母っ子だった。

で、おやつの時間帯には祖母の茶飲み友達が、我が家で会話している側で一緒に食べ飲みし、遊び、大正生まれの祖父母の言うことに影響されて、かなりな堅苦しいくらいの性格が形成されていった。よく母には「私の言うことは聞かない!」って言われてたっけ?
当時の好きな番組は、時代劇・相撲・プロレスなどあまり子供らしくない番組が好きで、カラオケの十八番は杉良太郎サマの「すきま風」で、町内会や商店街のカラオケ大会に参加して、ビールケースを逆さに置いたステージで、よく歌っていた。また、完全女系家族でもあり、父にねだってカラオケスナックに連れて行ってもらい、その場のお客さんに披露しては、お小遣い稼ぎさえしていた、とんでもない行動力溢れる子供でした。

でも小学校に入り、年中くらいになると、何故か突然私はクラス中から「いじめられっ子」になっていた。「近寄ると、私のバイ菌が付く!」とか、言われたこともあった。でも、寂しがり屋の私は、それでも心はズタボロになりながらも、ニコニコ笑って、親にもそのことを一切言わず、何とか日々を過ごしていた。それは学年が上になればなるほど、皆の態度はエスカレートしていき、さすがに物質的や体への攻撃はないものの、空気のような存在で、机を並べなければならないのに離されていたり、男女混合のグループ分けで、メンバーになった子達は、露骨に嫌な態度で仕方なくといった感じで受け入れるという状態が常で、「クラスメイト」なる存在はゼロだった。先生が察して何度か、これらの「いじめ」を取り上げてくれて、その日は和解するけれど、翌日からは元通り。皆澄ました顔して、知らんぷり。私に近寄る子は誰もいなかった。だからクラスに溶け込むということは一度もなかった。小学・中学校は地元の公立学校だったが、せめて高校は私のことを誰も知らない都内の私立高校に、父親に土下座までして、行かせて貰った。
ちなみに今のライフワークの「卓球」は、この中学生の時に目覚め、指導者も顧問もおらず、先輩の指導と自己流で偶然出来た、カットマンもどきの変化球を磨いて、中3で花開き、その学年だけ異様に女子部員がそこそこ上手で、団体戦が殆どだったけれど、丁度5人ということで、シングルス3人、ダブルス2人と完全に役割分担が出来、当時のルールでは1・2番目はシングルスで3番目はダブルス・最後の4番目は柔道や剣道のように、「大将戦」扱いの試合担当で、何故だか私はその4番目のシングルス担当だった。先に3勝すれば、消化試合みたいなもので済むのだけど、同率の場合、例えば地区大会の優勝が私の試合結果によって決まるような重責な試合に駆り出され、かなり大変なポジションでした。今は11点マッチの3セットが主流ですが、当時は21点マッチの5セットというとんでもない消耗試合でした。

当時はまだ日本式のペンホルダーの子が殆どなのに、どうしても馴染まず、今は当たり前のシェークハンドと、粒々のラバーと普通のラバーを貼り、ひたすら叫びまくってました。かなり異様だったかも。

そして、地区大会でこれで勝てば市の大会に出られるという団体戦の大勝負のバトンが託されてしまい、歯を食いしばり自分を鼓舞し、相手の隙をひたすら狙って勝負に挑みました。試合はフルセットに雪崩込み、体力・気力の勝負にもなりました。相手は強豪校の選手。何故か得意だった変化球のキレも良く、なんとか勝って終わった後、周りを見渡してみれば、他のプレイヤーが皆台の周りにぐるりと回って、体育すわりして観戦されていたのにはビックリ。その大会のトリだったようです。
そして失敗すると、ラケットで太ももを叩き続けていたせいで、その部分は青黒く腫れ上がり、恥ずかしい状態に…。

でも、この試合終わった途端、なんだか燃え尽きた気持ちになりました。

それからの私といえば、燃え尽き症候群だったのか、「勝負!」という個人競技にすっかりそっぽを向き、文化系の部活を掛け持つ高校時代を、顔見知りばかりで窮屈だった地元から、隣の都市の私立に親に土下座して、行かせてもらった。

そう、ずっと小学2、3年生頃から、私はいわゆる「いじめられっ子」だったのだ。

太っていたからなのか、それとも友達付き合いが上手く出来ない子だったのか、今となっては何が元凶でそうなったのかわからないが、最初は「バイ菌」扱いで、私が触れるところは「あっ、〇〇菌がついた」(本名の姓を取って)と囃し立てられ、いつしか男女問わずまた、クラスも問わず学年中から孤立していた。総じて学年が上がっていくと、囃し立てられることは少なくなってきたが、空気よりいない存在とされ、たまたまグループ活動で同じグループ分けされた子達からは、あからさまに嫌がられ、無視は当然、ちょっと近寄るだけでも嫌がられ、気がつくと他の「嫌われっ子」の子とまとまって行動していた。でも、家では「良い子」でいたかったのか、親には一切言えず、自己肯定感はかなり低い子供となり、そのまま成長していった。

中学では、別の小学校と一緒になるのだけど、それでも持ち上がりのように、男女から避けられた。唯一その気持ちを忘れられる時間が、部活の卓球の時間と、走る事は苦手でも生来の体の柔らかさや意外とスポーツを器用にこなせていたので、「体育」の時間つまり身体を動かしている時間だけは、忘れられていたので、太った身体では合ったものの、体育の実技など成績は良かった。

そんな窮屈な環境が嫌で、地元の公立高へ行っても、きっとそのままだ!と思い、土下座してまで行った先の、誰も知り合いがいない筈の女子高でも、私はしくじり、またクラス中からの「悪意の標的」に晒されることになった。張り切って立候補したクラス委員では、逆にその立場で嫌なことは全て押し付けられた。

クラスのボス的女子が先導に立ってやるから、皆逆らえないここでも、子供同士の学校での「ヒラルキー」の制度と力加減だ。

尚更、女子しかいない為、際立って陰湿ないじめられっ子となった。またもや、私は「いない存在」で、でも少しの良心があったのか、辛うじてお昼の食事を摂る時には、会話こそないが、お弁当タイムのグループの片隅にそっと潜り込ませて貰える温情は受けた。

得意教科は、際立って成績が良かったので、テスト前になると、テスト用にまとめたその教科のアンチョコは、取り上げられて、ボス的女子に進呈されていた。文系まっしぐらでたまたま書かされたレポートの内容が良すぎて、教師の目に留まり、一人だけ朗読させられるということもあり、教科全体で成績を取るというより、抜きん出た得意教科の成績で何とか、進級出来ていたようです。

理数系の壊滅的成績が足を引っ張って、毎年学年末の進級会議にかけられていましたが、例え数学や英語がオール1でも、現代国語や古文、当時あった文系の教科(名前忘れましたが、世の中の倫理観・常識などを勉強する科目だった気がします)では、いわゆる大学進学の特進科の子達と匹敵するほどの偏った成績の良さが評価されて、「今年のところは…」で目こぼしされて、何とか卒業まで漕ぎ着けましたけど。

降って沸いた進路で突然「公務員になる!」と高2の夏前から、これまた親に土下座して公務員専門の専門学校に夏季・冬季・春季と短期間のゼミに通わせて貰い、今までになく自分でも勉強した結果、大学入試レベルの就職試験に合格して、何とか希望とは少し妥協したとある公務員の専門職に滑り込むことが出来ました。

でも、母も当時は「郵便局員」がまだ公務員の時代で働いていたのにも関わらず、試験の朝に私の気持ちを逆撫でするかのように、
「どうせ受けても、受からないよ」と、毒親の言葉を吐かれ、いざ合格すると、途端に態度を180度ころりと変えるとんでもない母で、大喜びで親しい人や親戚(まあ、入職にあたり身辺調査でご迷惑をおかけするような職種を選んだせいで、知られてはいたけど)に吹聴しまくる母には、すっかり幻滅した。遅い反抗期に突入したようなものだけど…。

職業選択は、半分今まで私をいじめていた子達への「当てつけ」の結果でもあった。当時はバブルが弾ける直前では合ったものの、その後風の便りにいじめっ子達の末路を聞いたが、職を転々と変えざるを得ない状況と、世の中の経済のガタ落ちで、やはり安定職業といわれるだけのことはあった。

当時は、高卒で就職は全く珍しくなく、高校自体が元々商業科ベースのどちらかというと「就職中心」ペースの高校だったので、そこで進学する子達は勉強内容が全く違う普通科でも、「特進科」にいないと、大学進学が難しいくらいの差があり、よくぞ普通科で特進科並みの難しい試験に受かったと、先生達は万年進級ボーダーラインギリギリの私が突破したことには驚きを隠しきれていなかった。

それが何とか出来たと当時は思っていたのですが、そこに私の性質の特殊なところがあったと、思いも知りませんでした。

就職して、いわゆる「ご栄転コース」の本部勤務で、また18歳の新人ということと、私の性質の特殊なところで、やたらと年上や年配の方に可愛がられるという、かなりお目溢しや私が一緒懸命食らいついていたという姿勢も見ていて下さった温かい諸先輩方のご指導等の賜物もあり、他の課の同性や上司であっても、悪い思いは全くしない(でも、社会人的洗礼はしっかりと受け、トラウマをいくつかこさえてしまいましたが)、それでも自分の勤続年数の半分以上を本部勤務で過ごすことが出来たのは、本当にこのおかげだと後にも先にも思っております。

私の第一印象でよく挙げられるのは、とても気さくで人懐っこいらしいのです。で、何事も真剣に取り組み、何か言われるとまずは「はい!」と元気に返事を返すなどなど、相手に好印象を与えるらしいのですが、当時の私としては、いきなり大人の人達、特に男性が殆どの職場にポーンと放り込まれて、右も左も分からないけど、とにかく言われたこと、それ以外でも気をつけて、精一杯でやるだけだったのですが、子供の頃から大人(特に年配)の中で育ったので、父母の歳と変わらない人達の中で仕事をするのが、とても楽しかったのが幸いしていました。初配属された部署は、他の部署からも「特殊な部署」と位置づけされていたせいで、その環境の感覚を拭えず、また多種多様な部署がありすぎるという点においては、とても困った「基礎を作ってしまった」のですが、未だその当時の同じ課の方々とは、年賀状のやり取りが続いてしまっているという、これも仕方ないことではありますが、忘れていても届くので、皆さんお優しい方々ばかりでした。

色々あり、結局つまづく結果となったのは、とある「支店」に異動した時、子供が産まれて当たり前のように「育児休業」を取り、子供の保育園のお迎えだけ、どうしても定時で帰らないと延長保育お願いしていても、間に合わないからと周りに根回ししてはいたものの、良く仕事の小さな失敗をしてしまう、臨機応変に上手く対応出来にくい、などなど同性の同僚の先輩2人には面白くなかったんでしょうね、パワ・ハラにあいまして、先輩の内お一人はもう少し大きなお子さんが保育園にやはり通われていたものの、あまりの仕事の出来ない私に、性格もキツい先輩は面白くなかったのでしょう、仕事以外の会話なし、もう一人の先輩とのみおしゃべり、そして上司や他の男性の同僚は「異性だから」と「見て見ぬふりのことなかれ主義」の方ばかりで、当時やっと認識され出したものの、浸透してはいなかった「職場のメンタルヘルス」が確立していなかった為、十分頑張っているのに、更に頑張ってしまい、とうとうある日ポッキリと心が折れてしまいました。

自分で通えそうな精神科を探し出し、何とか仕事と両立させようとしていましたが、それはさらに悪い方にしか転ばず、ひとまず断り続けていた「休職」を受け入れて、一人一人同じ課の上司や同僚の方に「休みます」と頭を下げて回りましたが、やはり「休業」というのは受け入れられ難く、
「退職してゆっくりと病気を治した方が…」と言われることが多かったです。出産休暇を取る前やはり、頑張りすぎて切迫早産となり、何もまだ準備や整理がついていない時にいきなり1ヶ月以上前倒しで休暇に入らざるを得なくなったのも、先輩達にはマイナスになってしまっていたようです。でも、定時で上がる代わりに、朝は早く出勤して、古い体質の職場ですから、朝の清掃やお茶汲みは当番制ながら私が進んでやり、何とかお許しもらう気でいたのも災いしたようでした。

一番最後にお詫びに行った、キツい性格の先輩には、罵倒されまくりました。
「これじゃ、私達が原因で休業されるように、周りからは取られるじゃない!」
「いっそ、仕事辞めてよ。ちゃんとした仕事も出来ないんじゃ、意味ないよね」
…ショックと、当時の病状であまり覚えていないのですが、かなりなこと言われました。休業も3ヶ月の予定が6ヶ月まで伸び、復職しても今度は一般の方との接触ばかりの「窓口業務」の部署に、配置換えされ、そこでもことなかれ主義の上司達や、全く仕事をわかっていなかった前任者の引き継ぎで、繁忙期は残業で連日最終電車に間に合わず、夫に夜中1時過ぎまで職場に迎えに来てもらったり、最終電車で帰宅したりしましたが、課長からして何も業務改善してくれませんでした。
最後の方は、私もまたうつを再発し、休みがちになり、大変忙しい職場に迷惑をかけてしまいましたが、それでも再発まで2年はしっかり頑張りました。

その後、また異動先で病状悪化で休・復職を繰り返し、ギリギリまで頑張りましたが、最後は私を理解し、立てて下さったとても良い上司に促され、退職しました。と、同時に離婚もして、実家に戻りましたが、ここでも色々ありました。

近年、ひょんなことから主治医を変わった際に、新しい主治医の提案で受けた「知能検査」で、私の「知的障害」が判明し、やっと自分の「取扱説明書」をもらって、いかに自分が今までつまづいたところが、私の「知的障害」から来るところの性格の性質からというのがわかり、実は精神病を患ってからのことではなく、「生まれ持った発達障害」が、自分の生きづらさを産んでいたことがわかりました。それにより、注意点を見てみれば、思い当たる節が色々…どうしようもない人間だから、ということでなかったとわかったのです。

まだ未成年である、実の子供にも私自身の自己肯定感の低さを指摘されるほど、私は苦しんできました。

多分最近、皇室の方で「複雑性PTSD」と診断されたお方がいらっしゃいますが、その病気の内容を拝見して、私も当てはまる節があるので、自分で勝手に病名をつけてはいけないと思うのですが、正に当てはまり過ぎるので、それも含めての精神病なのだと思います。

今でこそ、子供の頃から注意して見て貰えるようにはなりましたが、私の子供時代には残念ながら、追いついていなかった分野でした。

そのため、結婚後かなりの波瀾万丈な人生となり、幼き日より感じていた私の「生きづらさ」は、何十年か経ってから、判明したわけですが、今更やり直したりは出来ないので、折角頂いた「自分の取扱説明書」や近年のそういった情報をもとに、今の環境で「新しく生きていく」しか、ないのです。幸いにも、手を差し出してくれる方々をたくさん作ることが出来、多分私は幸せな方だと思います。

長々と書き連ねてしまいましたが、しかしながら情報に左右されるだけでなく、しっかりと自分なりに周りに確認しながら、選び取ってこれからの人生を何とか生きていくしか、今はありません。

支援者や、理解しようとしてくれる方々の手助けを受けながら、生きづらさを感じつつも、今世を生きるしか、私には道がありません。

何かしらお読み頂き、共感していただけるところが有れば、幸いです。こんな私でも、少しでもお役に立てれば本当に、生きてきた甲斐があります。

ありがとうございました。

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