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「普通」への憧れ


わたしはいくつかのわたしでできている。

家族と一緒にいるわたし、友達と一緒にいるわたし、初対面の人と一緒にいるわたし、職場でのわたし、一人で居るときのわたし。そのどれもがわたしであって、どのわたしも嘘ではない。相手との関係性によっても、わたしは変わる。「関係性自己」という言葉を教えてもらった。人は相手がいてはじめて自己を認識することができる。

先日ほぼ初対面の方と会ったとき、わたしはいつもよりポジティブさを強めに出していた。数日前にとあることが引き金となり、自分で腕を傷付けた。袖をめくればそこには傷がある。そのギャップが、自分でも理解できなかった。それでも会っているときはよかった。お別れした後、見ないふりをしていたネガティブなわたしが後から猛スピードでやってきた。一日中見ないふりをされたからか、ネガティブなわたしが感情を爆発させた。
夜中、涙が溢れて止まらない。ポジティブなわたしが昼間話した内容が、ネガティブなわたしの重荷となって、のしかかってくる。重くて耐えきれなくなり、情緒不安定な夜を過ごした。ただただ虚しくて、不安定なわたしを落ち着かせたかった。


翌日も不安定なままだから、不安定な今だから、もう一度「普通」について考えた。わたしにとっての「普通」とはなにかを。

わたしはいつも「普通」の日常が欲しかった。平穏な日常。母親が病気じゃない笑顔の多い家庭で、病気の犯人捜しなんかしない。家族が抱えているものを家族で考えて、これからのその人の生き方を一緒に見つけて尊重する。
普通に仕事に行って、普通に一日そこで過ごせて、大人数の中でも落ち着いて居られる。社会に出て人と関わる中で、苦しかったり傷付くことがあっても、何とか乗り越えてまた次の日から職場へ向かう。
気分の落ち込みも、消えたい気持ちも、自傷行為も摂食障害も、要らなかった。欲しくなかった。そんなことを繰り返しながら仕事に行くのはしんどい。精神科の入院歴なんて要らない。つらいことがあっても、生きていることを楽しいと思える日々がいい。自分も自分の周りの人も好きでいたい。憎みたくなかった。

わたしは「普通」の苦労をして、「普通」のつらさと楽しさを感じる生活が欲しかった。これからでも間に合うものはあるけれど、自分ではどうにもならないものもある。それを自分で受け止めて生きていかなければならなきことが、苦しい。
自分が「普通」じゃない中で生きてきたことを、何も知らない人の前で胸を張って語れない。「普通」とはかけ離れた中で生活してきたから知った痛みや苦しみはある。それを無駄だとは思わないし、知れてよかった。
でももし、人生をやり直せるとしても同じ道は選ばない。死を考えながら暗い部屋で一人過ごすなんてつらいだけだし、食べたものを戻すことが自分の日常になってもそれは幸せには繫がらない。


世の中には人の努力でどうにかなることと、ならないことがある。苦しみを乗り越えるというよりも、その苦しみと一緒に生きていくしかないことがある。それは時々自虐的に語られることもあるけれど、そうでもしないと生きていけないからそうするのであって、その人が苦しみから解放された訳ではない。映画やドラマでは美談で終わっても、現実はその先も続いていく。


「普通」に生きられないから、「普通」じゃないなりの生き方を探し続ける。前向きに生きているようで、苦しみと隣り合わせで生きている人には胸が締めつけられる思いがする。

わたしにとって「普通」は憧れだった。普通じゃないことが苦しかった。つらい思いはしたくないけれど、同じ苦労をするのなら、しなくていい苦労ではなくて当たり前の苦労をしたい。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。