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私たちは狂って生まれて正気になる 『ボーはおそれている』

*以下の文章は『ボーはおそれている』と関連作品についてのネタバレを盛大にしています。もしよかったら動画を再生しながらお読みください。 

Ⅰ、アリ・アスター作品の”病理”

 精神医学には病跡学という分野がある。精神疾患も芸術も標準的な人間からの逸脱という点では同様であるとみなし、芸術家の作品からその作者の作家性(作者の人格そのものではない)の病理を診断する領域である。アリ・アスターという作家はその病跡学の対象にするのに十分なほど自己開示をしてくれる、もう自分だだもれな作家である。特に最新作『ボーはおそれている』は、彼のセラピーのセッションをそのまま見せられているような一作になっている。

 彼のメジャーデビューしてからの3作、『ヘレディタリー』『ミッドサマー』(「ようこそ、ここは『メンヘラ』のいない村 https://note.com/papurika_dreams/n/n08a864b6d0fd)そしてこの『ボーはおそれている』では男性が宗教を通じて女性にひどい目に遭うというテーマが繰り返し描かれている。アリ・アスターの世界では、カルト宗教、母性原理のペイガニズム、ユダヤ教によって女性が男性をがんじがらめにし、結局は男性がその神の供物となって犠牲になる。その多くが母と息子の関係で起こるのだ。アリ・アスター自身がインタビューで自身の原家族の問題が第一作のインスピレーションとなったことをほのめかすために、彼自身が母親との関係性に同様の問題を抱えているのではと言われていたが、実際の彼は息子の映画製作に理解のあるNYのジャズミュージシャンの父と詩人の母の間に生まれた。もちろん、家庭の内実は外側からはかり知れないのだが、彼の作品におこる出来事のディテールはあくまで彼の心的世界の反映にすぎないのだろう。

モナのグループ企業MWの製品のポスター

 それもそのはずだ。しがない中年男性ボー(ホアキン・フェニックス)の母親モナ・バッサーマン(パティ・ルポーン/ゾーイ・リスター=ジョーンズ)は巨大コングロマリットを一代で築いており、彼の住んでいるプロジェクト(薬物依存症者の更生住居)も、彼の使うデンタルフロスも、食する冷凍食品も(アイルランド風ハワイ料理という妙なメニュー)、精神分析家(スティーヴン・マッキンリー=ヘンダーソン)に処方される薬までもが彼女の所有する企業の製品なのだ。この179分という長大な物語の中で彼が翻弄されつづける出来事のほとんどが母モナの策略であり、巨大な権力と巨額の資金でその従業員や使用人らを使ってボーにショックを与え、傷つけ、軟禁し、混乱やカオスに落とし込む。彼の精神分析家にまで金を払ってそのセッションの内容を漏洩させる。それだけではない、ボーがなんとか実家(これがとんでもないガラス張りの豪邸なのだ)にたどり着き、何度も見る夢の中で自分自身が閉じ込められる屋根裏に行くと(あの『ヘレディタリー』でも出てきた天上に収納される折り畳み式階段をつかってである!)、そこには何十年も幽閉されていたと思しき子ども服を着たやつれた中年男性であるもう一人の自分と、巨大な男性器の化け物がいる。そしてモナはその男性器を「あれがお前のお父さんよ!」と叫ぶのだ。ボーの母モナは万物の創生者、彼の運命はすべてモナの手に握られている。彼の人生の中に”第三者”である父親は象徴的にしか存在せず、ボーはいまだにモナの子宮の中でうごめいている胎児のようなのである。

しかしひっどい造形だ(あえてでしょうが)

Ⅱ、メラニー・クラインの対象関係論

 精神分析の分野の一つに対象関係論という学派がいる。開祖はメラニー・クラインというユダヤ系オーストリア人の女性分析家であり、彼女は乳幼児とその母親との関りややりとりを観察し、心理的問題を抱える幼児と健常に育つ幼児の違いからフロイトの死の本能という概念を踏まえ、この対象関係論という理論を提唱した。

Melanie Klein(1882-1960)

1.”おっぱい”という部分対象と万能感

 彼女の理論はこうだ。ひとは出生してから恒常的に飢えや不快など苦痛の中にあるが、時おり差し出されるおっぱいによって彼らの苦痛は取り除かれる。しかし乳児は外界の事物を断片的にしか認識できない。突然差し出される視界いっぱいに広がる巨大なおっぱいは彼を愛する母親の身体の一部ではなく、彼らはそれを”自分を快適にしてくれるもの”としかとらえられない。さらに、自分がそう願っただけで目の前におっぱいが差し出されるその現象から赤ん坊たちはまるで自分が魔法を使えるような錯覚を持つ。それが万能感に満ちた乳児の心的世界であるとクラインは唱えた。

 まさにこの作品は胎児ボーがこの世に誕生した瞬間から始まる。それまでいたぬくぬくと自分を包み込む小さな場所から無理やり押し出されたのは、女の苦痛に満ちた声が響く恐ろしい空間で、誕生を祝福されるどころか彼が声をあげないことから不穏な空気と緊張感が立ちこめている。そして次の瞬間、ボーはいきなり逆さにされバチンバチンと体をはたかれる。脚のあいだから見えるボーの精巣はすでにまん丸と膨れ上がり、彼の肥大な万能感を象徴するかのようだ。我々はこの世に誕生した瞬間から不条理さや不快さに取り囲まれているのだ。

 実際の赤ん坊は愛くるしいというよりも猛々しい。彼らはむさぼるように乳を吸う。それは他者からとりこめる最初の”よいもの”だ。しかしおっぱいを断片的にしかとらえられず、まるでこの世の王のような感覚をもつ赤ん坊の欲望はどんどん誇大化していく。自分がそう望んだときに常に目の前にあらわれるわけではない”おっぱい”に対して、まだまだありあまるほどそんなよいものを持っているのになぜ自分にもっとくれないんだ、とそのおっぱいに歯を立てむさぼりつくそうとする。赤ん坊は、いやひとは生まれついたときから攻撃性のかたまりであるとクラインは指摘する。乳房に歯を立てられた母親はもちろん肉体的にもそして心理的にも傷つくので赤ん坊は自分のしてしまったことに狼狽する。自分の世界の不快を減少してくれるよいものである”おっぱい”を自分は滅ぼしてしまったのだ。

2.赤ん坊の持つ罪悪感と葛藤

 この罪悪感、自責感の大きさは強い不安や葛藤を赤ん坊に生じさせる。ここでその葛藤を抱えるこころの強さを持つ赤ん坊は母親に贖罪の気持ちを持ち、自らの攻撃性を受け止めながらも自分を慈しみ育ててくれる母親に感謝をしながらおっぱいを飲む。そしてこの”おっぱい”とは母親という人間についている身体の一部で、母親は自律的に生きている他者であり、それでも自分を愛してくれる存在であることを知る。そのとき自分の願ったことがすべて叶えられるという万能感が赤ん坊から消え、他人の持っている”よいもの”を奪い取りむさぼるのではなく、受け取り取り込むことができる。
 対してこころが弱くその葛藤を抱えきれない赤ん坊は未熟な防衛を用いる。「こんなにいい気分だったのにそれを台無しにするとはお前はやっぱりいいものなんかではなかった、いや初めからお前は悪いものだったんだ」と決めつける。そうすれば葛藤が生じる余地はない。そして自分の持っていた攻撃性を他人に投影して、「いや、初めに攻撃してきたのはあっちだ。他人はわたしをむさぼりつくそうとする」と世界を知覚して自分の弱いこころを守る。もちろんこれはかなり現実が歪曲された知覚なのだが、彼らには周囲の世界がそう映るのである。実はここに狂気の源がある。

 ひとは正気に生まれ、運の悪い人が気を狂わせるのではない。狂気をもってひとは生まれ、正常な発達をとげるうち正気に戻るのだとクラインは主張した。

わかりにくいが左端の女性はわたしは自分の手を切り落とすと書かれたボードを持っている

Ⅲ、ボーをとりまくボーダーライン的世界観

1.投影性同一視による迫害的世界

 ボーの暮らすリハビリ住居のある街を思い出してほしい。路上のバザーではマシンガンが売られ、道には死体が何時間も転がり、TVで指名手配されている全裸の連続殺人鬼がナイフを振りまわしていても警察官は何もせず、ボーが帰宅するたびに全身タトゥーだらけの男が鉄パイプを振りかざして彼に突進してくる異様な世界だ。つまりあれは現実ではない。ボーが感じている外界なのである。あそこに暮らす、彼に危害をくわえようとする他者たちは、彼を取り囲む世界は、私たちが平穏に暮らす世界と本当は同一のはずだ。確かにスラムに住んでいる彼らの多くは強面で突飛な風体をしているだろう。しかしもしかしたら孤独に暮らすボーに対して声かけし、なにかしら関わろうとする良き隣人であるのかもしれない。しかし、迫害的不安を持っているボーにはそう映らない。つまりクラインの説に従えば、何もしていないボーを怒鳴りつけ追いかけナイフを突き立てる、彼を迫害するひとたちと同じだけの攻撃性をボーは善良な他者に対して持っている。その事実に耐えられないほど葛藤が抱えきれないのでボーはああやって世界を知覚するのである。

 ここに狂気がある。しかしこの狂気とは統合失調症や双極性障害などの病気とはまた別のものだ。これらの器質性精神障害(脳の神経や機能に起こった病気)自体にはこのような症状はないからである。そしてたとえば手を何度も洗ってしまう強迫性障害や閉じられた空間にいると不安が起きるパニック障害など、現実に起きている事象をそのまま知覚してそこに不安や葛藤を持つ(つまり持てる)神経症者とも異なる。クラインが看破した狂気とは人格障害、つまりボーダーラインと言われる、器質性精神疾患と神経症のあいだにある狂気だ。そしておそらくボーはこのボーダーライン、境界性水準にあるひとなのだ(ちなみにボーダーラインの定義についてはDSMのおかげで精神科医でもかなり誤解してる人が多いのだがこれを説明しているととんでもない文字数になるので割愛します・・・のでこの部分の議論をしようとするのはやめてね)。

2.スプリットによる理想化と価値下げ

 このボーダーラインの特徴のひとつにスプリットというものがある。彼らは他者をある面では自分を幻滅させるが同時にある面では自分を幸せにしてくれる存在なのだという当たり前の多面的な見方ができない。つまり彼らは理想と幻滅のあいだをどちらつかずでたゆたい続けるという強さを、とくに対人関係においてもっていないのだ。自分にとってかけがえのない存在が自分の欲求を常に満たしてくれないとすぐさま相手の価値下げが起こり、他者はオールグッドかオールバッドのどちらかに二分されてしまう。そのためこれは認知行動療法の治療対象である、視野狭窄から生じた白黒思考とも性質が異なる(これは精神科医でも誤解の生じやすい部分である)。

 この作品にはこのスプリットが何度も出てくる。前述の、ボーが何度も見る夢に出てくる、父の死の理由を母に聞いたため数十年も天井裏に閉じ込められる「僕よりももっと勇敢な僕」、母モナも、40代のゾーイ・リスター=ジョーンズと70代のパティ・ルポーンに分けて演じられるだけでなく(時間経過の表現としてだけでなく、子どもの頃のボーを叱り飛ばすモナがパティ・ルポーンによって演じられる場面もある)、バスタブに入っている夢の中でボーの初恋の人エレイン(ジュリア・アントネッリ)がモナのドレスの色と同じグリーンの水着を着て(エレインの実際の水着の色はピンク)母モナとして登場することもある。勇敢な自分を見ている弱気な自分に優しくお湯をかけてくれる母はグリーンの水着を着たエレインで、勇敢な自分を屋根裏に無慈悲に追い立てる母はグリーンのドレスを着たモナなのだ。また電話で全くの赤毛であるモナの特徴を言えと言われたボーは「赤味のブラウンヘア」と答える(それはむしろ大人となったエレインを演じるパーカー・ポージーの髪色だ)。ここに、ひとは理想的な部分もあれば幻滅させられる部分もあるという人間像を持てないボーの世界観が繰り返し示されている。

 つまり、あの支配的で暴力的な母モナは本当の彼女の姿なのかわからないのだ。ボーの精神分析家はセッションで「母の死を願ったことはないか」と訊ね、抵抗するボーに「ふつうは言えないことをここで皆吐き出すんだよ」と言ってノートに「Guilty(罪悪感)」と書く。攻撃性は認めなければ罪悪感を持つことはできない。攻撃しているのは自分ではなく他者、つまり母なのだと罪悪感を持たないように防衛しているからボーはあの悪夢のような世界に閉じ込められてしまっているのだ。

3.二者関係の破綻

 モナはこう言う。「赤ん坊のころからあなたは私を拒み、おっぱいを飲もうとしなかった、聞き分けのいい赤ん坊に恵まれたバカ女どもはおっぱいを飲み干されることを見せつけて来たのに!」しかしこのモナの攻撃性はボーの持つ無意識的な貪欲さの反映かもしれないのだ。「聞き分けのいい赤ん坊」は自責感を経て感謝をしながら母親の”よいもの”を取り入れられるのだが、不安や葛藤に弱いボーは授乳というひとが初めて経験する親密な二者関係を、相手から拒まれたという経験としてしかとらえられず、そして相手を拒むということでしか反応できない。そして母モナの息子から拒まれた絶望感が自分をひたすらに責める悪罵としてのみ彼には響くのだ。

 ここまで読んで、ボーはなんてかわいそうな人なんだろうとあなたは思うだろうか。そうなのだ、境界性水準にいる人たちは基本的にとても気の毒な人たちなのである。彼らはそんな迫害的な世界に住んでいるので他者と安定した関係を持てない。少しでも他者に幻滅すると、勝手に傷ついてその関係を絶ってしまう。時には”迫害”から身を守るために周囲の人を巻き込んで彼らをも傷つける。だから前述したように精神科医の多くが、そして世俗的にも、ボーダーとはころころと交際相手を変え、見捨てられ不安で大騒ぎするいわゆる「メンヘラ」と呼ばれるひとたちと表層的に捉えるのだが、ボーのようにひきこもってしまう境界水準のひともいる。ボーがあの年まで、どうやらたいした仕事もせず恋愛もせず他者とかかわらず生きてきたのは、この他者をスプリットしてとらえてしまう世界観のせいである。そう、つねに『ボーは(世界を)おそれている』のだ。

 そしてモナ自身もおそらくそうである。モナは幼いボーに「あなたの父親は受精した瞬間に死んだ」と言う。これをボーは男性だけに生じる遺伝の問題だと教えられるが、ボーとセックスをし絶頂に達したエレインもまたボーの上で死んでしまう。つまりこれは理想的な二者関係の極致に達した途端、幻滅を感じさせた他者がその境界水準のひとのなかで象徴的に死んでしまう現象をあらわしている。少しでも幻滅を感じさせた他者はその人の中で存在しないも同然なのである。それほどに彼らは他者の曖昧さ、複雑さ(それはとても人間らしいということである)に耐えられない。モナもボーの父親の多面的な要素に耐えられず、受精の役割をするだけの人とみなすようになり、母子の人生からはじき出してしまった。モナはそれでいい。息子が自分にとってオールグッドでいてくれなければ愛さないという「条件付きの愛」でがんじがらめにすればいいのだから。しかし、人とまともな関係を築けないボーは永遠にひとりっきりだ。

なんとマライアはプレミアにも登場し、途中までではあったが本作も鑑賞したのだそうである!!

Ⅳ、良い対象との融合

1, Always be My Baby

 しかしエレインとの初体験の場面で流れる曲のあまりの通俗ぶりにアメリカ人観客は苦笑しただろう。しょぼくれた50男の初体験の場面に流れる音楽としてマライア・キャリーの『Always be My Baby』はあまりにちぐはぐすぎる。この作品の制作費の多くがこの曲の使用権とボーの”父親”のアニマトロニクスに割かれたそうだが、それでもアリ・アスターは「ずっとわたしのベイビーでいて」と歌うこの曲の使用にこだわったという。ここでは相手は自分の一部であり二人が一つに融合している一体感が永遠に続くという、まさに乳児が母親に求めている万能感的世界が臆面もなく歌われている。アリ・アスターが『Fast Car』でもなく『Billy Jean』でもなく(この2曲は使用料が手ごろだった代替案だそうだ)この曲を選んだのは、本来こうであってほしかったオールグッドな母であるエレインとするセックスの倒錯を表現してくれるからなのだろう。能動的で勇敢な要素を自分から切り離して屋根裏部屋に何十年も閉じ込めていたボーにとって万能で優しい母の”よい部分”は自己愛を維持するためにそれと一体となりたい対象なのである。しかしそれにも彼は失敗してしまった。

2,絶対的に理想的な他者である神

 父親不在の母子関係というとキリストとマリアという強固なプロトタイプを我々はもっている。つまり『ミッドサマー』でペイガニズムと対極的に男性原理の象徴として描かれるキリスト教も逆説的に女性原理を内包しているのだ。また『ヘレディタリー』において母方の祖母が教祖であるカルト宗教の供物とさせられる息子ピーターは、架刑に処させられるキリストをまさに彷彿とさせる。考えて見ると、現世で信仰や功徳を積んでいれば終末の日に天国に登れたり、最後の審判を経て復活を果たすという宗教の一発逆転的な世界観は、どこか乳児が魔法を使えると錯覚する万能感的性質を帯びていると言える。神という絶対的に理想的な他者との究極の二者関係。この宗教というテーマを繰り返し用いるアリ・アスターの作品世界はクラインが提唱する、乳児の原始的万能感に満ちている。ボーがどこか旧約聖書のヨブ記を思わせる演劇に思わず没入しそこに救いを求めてしまったのも納得がいく。神の加護を受けながら試練を与えられるととたんにその愛を疑うヨブはまるで母のおっぱいをむさぼりつくそうとする乳児のようだ。しかしボーは探し求めていた息子たちに再会し自分の人生を語るうちこれは偽りの自己だと気づく。神だって自己愛の強い母のように人間に美徳という条件付きの愛を強いている。アリ・アスターは理想的な二者関係を求めそれにすがる境界性的世界観を「宗教」を通じ表現しようとするが、自分の家族を持つことができなかったほど他者に恐れを抱いているボーのような男の居場所はそこにもなく、ボーの中身は空虚なままだ。思い出してほしいのだが、この作品の中でボーは周囲の出来事に徹底的に振り回されるだけで、彼の人となりが読み取れる能動性がほとんど描かれない。彼の持っている能動性は他の登場人物たちに投影されて描かれている。

思えば映画監督の自己開示もこのように世界中の人間に目撃されているのである

Ⅴ、直面化そして病理構造体の破壊

1,アリ・アスターの創造的防衛

 カフカの『審判』を思わせる最後の場面。ボーの生の本能が投影されたオールグッドな母である愛しいエレインは死に、死の本能が投影されたオールバッドな母モナが迫害的にボーを追い詰め、罪悪感に直面化させ続ける。それはボーがずっと回避し続けてきたおのれの羨望に満ちた攻撃性である。境界性水準にあるひとたちはおかした罪を否認するために、ときに躁的防衛を用いる。自分が手に入れたい対象と生産的に融合するのではなく、相手を破壊しむさぼりつくした罪を矮小化するために、ダメージは深刻なものではなくジョークが行き過ぎてしまっただけ、とエネルギッシュに駆けずり回る。思えばこの『ボーはおそれている』は主人公におきた悲劇をスラップスティックにコメディとして描き続けている。ひとが陥る他者関係における病理を宗教というモチーフを通じて描くのも、コメディとして狂騒的に描くのも、そのまま自己の病理に直面できない作家の防衛の一つなのだろう。もちろんこれは創造行為という、病理の生産的な昇華であって批判や治療の対象となるものではない。

2,旅のすえ持ち帰るもの

 最終的にボーのボートは爆発し彼自身も姿を消す。監督が「ユダヤ系のロード・オブ・ザ・リング」と称するこの旅の過程で、ボーは自分の欲望を様々な人物に投影し、ワークスルーを繰り返した。無音を「うるさい」と抗議する現実を歪んで知覚している隣人、世界を憎み破壊の限りを尽くすジャンキーたち、母の葬儀に現れないことを責めるエリート弁護士、親の愛に飢え、その不足に自傷行為で抗議する十代の少女、神の条件付きの愛に無心に包まれるヨブ。自分の羨望を意識的に体験して万能的ナルシシズムを奪われ、やっとボーはこの悪夢のような世界から抜け出ることができたのだ。精神分析における死とは象徴で、そこに起きているのは変容である。自分の病理を意識化するこの勇敢な旅を終え、あらたな創造的昇華を遂げたアリ・アスターがプレミアに母親を誇らしげに招待したというのも当然だろう。

 そしてわれわれもアリ・アスターの作品を通じて自分の病理を体験するのである。彼が意識的なのに対して私たちは無意識的にだ。それは治療的性質を帯びているとも言える(治療的とまで言ったら誇大表現ですね)。だから彼の作品は思わず目を背けるような表現に満ち、必ずしもそのストーリーの意図が明白でないにもかかわらず根強い人気があるのだろう。興行的には大失敗と言われているこの作品だが、長い時を経てもひとに愛され続ける要素は大きい。それは孤独で不安にさいなまれ続けるボーの切実さがけっして他人事ではないからだ。

  

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