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『ミッドサマー』/ようこそ、ここは「メンヘラ」のいない村

 ※以下の文章はネタバレに全く配慮しておりません。どうぞ映画本編をご覧になってからお読みください。

「ねえ、わたしまた彼に電話しちゃった、彼に嫌われたと思う?またお姉ちゃんのことで不安になっちゃって。重い女だと思われちゃったよね、嫌われちゃったよね。」
 『ミッドサマー』の主人公ダニが女友達と電話で話している会話だ。ダニはどうやら精神的に不安定で希死念慮の強い姉を持ち、彼女のことが心配なあまり姉が不穏な状態になると共振するように自らも不安定になるようなのだ。それに対し腐れ縁の恋人クリスチャンは表面上彼女の話を聞いてやる。しかし彼の友人たちは彼女を厄介な困りものとして扱い、クリスチャンもそれを否定しない。個として独立できず、人にもたれかかる面倒な女、姉もどうせ自殺なんてする気もなくてただ人の関心を買いたいだけだ。日本の差別的ジャーゴンでいうところの「メンヘラ」だ。

 この「メンヘラ」という言葉は現代社会の個人間の“適切な”距離を超えてくる人間を戯画化して称する際に広く用いられる。日常の些細なできごとから生じた動揺を自分の心の中だけで処理できず、他人の支えを必要とする人、一人で自分の問題に向き合えない人、他者から見捨てられることを極端におそれ、関心を得るためにはいかなる犠牲も厭わない人。それが高じて現代では精神的に動揺しやすい自身のことを自虐的に「メンヘラ」と自称する傾向まで散見する。そうした自分の状態を客観視できることを肯定的にとらえる向きもあるが私は否定的である。なぜならばその名の通り、「メンヘラ」とはメンタルヘルスから生じた略語であり、精神医療に関する言葉の乱用は精神疾患の誤った理解や偏見につながる。それだけでなく、そもそも心が弱ったときに他者の救いの手を求める行為を揶揄するような表現をして良いのか、たとえそれが自嘲であっても、その自嘲が別の誰かの救いを求める声を封じてはいないだろうかと思うからだ。

 ダニの恋人、クリスチャンの反応はそれをよく示している。ダニの姉は両親をも巻き込んだ無理心中の形で世を去り、ダニは天涯孤独の身になるという最悪の悲劇が起こってしまったのだった。泣き崩れるダニに縋りつかれたクリスチャンの表情は象徴的だ。彼の顔はダニの方を向いていない。スクリーンの向こうの私たちに向けて途方に暮れているような、しまった、これで俺はこの女から永遠に逃げられないとでもいうような表情をしていた。彼の腕の中にいるダニは家族を一気に失った悲しみに身が引き裂かれるような気持ちになっているにもかかわらず。

 アリ・アスターの『ミッドサマー』は前作の『へレディタリー』の強烈な印象の影響から、公開前から人の嫌悪感や不安感を煽る描写に大きな関心が寄せられていた。確かにこの『ミッドサマー』も同じ系譜上にあるかに見える。異教的生活習慣、原始共産制にも似た集団生活、カルト集団のように時代がかった衣装を着て微笑みを絶やさぬコミューンの人々。プロテスタント的価値観に基づいた現代米国社会からやってきたダニたち大学院生たちが見てしまうことになるある儀式は思わず目を背けたくなるような恐ろしいものだ。しかしむしろもっとグロテスクなものをアリ・アスターは私たちに見せている。それは映画の冒頭に紹介される、他者の領域に入り込むことを億劫がり、個人のことは個人で解決をつけることを規範とし、情緒的な動揺をおさえられる人間だけを是とする私たちの生きる現代社会だ。

 クリスチャンの友人たちにとってダニはとにかく面倒な存在なのだ。それは彼女が、困った人を見捨ててはいけないという規範と必要以上に他人にもたれかかってはいけないという規範、現代社会の相互に矛盾するこの規範をゆすぶりにかけてくるからだ。クリスチャンはスウェーデン旅行に同行する友人たちに「これからダニが来る。その前に。ダニはスウェーデン旅行には行くけど本当には行かないんだ、いいか?ダニはスウェーデンには行くけど行かない」とダブルバインドな発言をする。彼らは旅行メンバーとして当然ダニを想定していたというふりをしなければならない、しかしクリスチャンも含め本心では「メンヘラ」の彼女を面倒がっている。そしてダニも彼らの本心におびえるように「私も一緒に行きたいとは言ってない、でもなんで旅行のことを私に話してくれなかったの」とこれまたややこしいことを言い出す。双方がおっかなびっくり互いの心の中に何が入っているか探っているかのようだ。
 

 しかしスウェーデンのコミューンからやってきた“ハメルーンの笛吹き男”ペルはダニに率直に家族を失った痛みへの共感を示した。結果、ダニはクリストファー以外の人に初めて崩壊するように感情を湧きあがらせた。それまで彼女はその感情を見せないようにつとめていたのだ。この社会は肉親を亡くした悲しみを表現することすら「感情的」と批判されてしまうから。だが学生たちが訪れたペルの故郷は異なった。彼らは現代社会が隠ぺいし軽視してきたものを重視していた。おまじない、辺境人による神託、住居や直立した石碑に書き込まれたルーン文字、惨たらしい死を寿ぐ儀式。

 すでによく指摘されているがこの作品は70年代のカルト映画『ウィッカーマン』に酷似している。このイギリス映画では厳格なピューリタンの刑事が事件捜査のために訪れたスコットランドの離島でケルト土着の地母神信仰に巻き込まれていく。新約聖書ではアダムとイヴを堕落させた蛇は、豊穣を象徴する地母神信仰において大地を肥沃にさせる精霊と考えられている。親と子の血縁を証明し得ない父を頂点とする故に、禁欲的かつ原罪思想をもつ家父長制的価値観からは、どんなに放埒に振る舞っても親子関係への疑いなど存在しない、母を頂点とした母権制社会は肉欲的で、何よりも生命を生み出す力を持つ女性崇拝的であることが脅威と映る。この女神崇拝は異教として家父長制的価値観を背景に持つキリスト教から迫害され駆逐されていったのだ。『ウィッカーマン』は70年代に起きたネオ・ペイガニズムと呼ばれるこの古代信仰の復古運動と、当時ますますその勢いを増していったフェミニズム運動により男性原理が脅かされる様をテーマとして描いている。そして『ミッドサマー』というタイトルの意味する夏至祭も、ロシアから北欧、はては南欧に至るまで、広く分布し行われている前キリスト教信仰を基にした儀式なのだ。

 ダニは夏至祭の行事である村のダンスバトルに巻き込まれていく。強い酒に足がふらつきながらもダニがぐるぐると踊り続けている頃、クリスチャンは子種を欲するコミューンの若い女と性交していた。ここで私たち観客は彼ら若者たちがこの村に連れてこられた意味を知る。その光景を目撃してしまったダニは、唯一残された味方である恋人に裏切られた衝撃で村の女たちが見守るなか大きな声をあげて泣く。今までダニはこんな風に自分の悲しみや痛みをみんなに表現できただろうか。今まではクリスチャンひとりにしがみつくだけだった、相手が困惑しダニの気持ちを受け止めきれないのをうっすらと感じながら。しかしこの村の女たちは子どものようにうおーんうおーんと声をあげて泣くダニを囲み、異物をみるような目で見ることもなく、なんと同調するように同じ声をあげ、同じく体を震わせるのだ。まるで彼女の悲しみに共鳴するかのように、女たちは悲痛な表情でむせび泣くのである。この場面から私はこのコミューンがただ禍々しいものであるようには思えなくなってきた。

 感情は経験することによってその人のものになる。カウンセリングの始祖と言われるアメリカの心理学者カール・ロジャーズは、成功した症例に共通して「治療者が患者の感情過程を経験的に共感できた」要素があることに気づいた。そこから人が心理的な問題を抱えるのは、その人が本来感じている感情を否認した結果、実際の経験と自己認識のあいだに不一致が起きていることにあると論じ、カウンセリングに不可欠な要素として、聞き手が話し手の感情をあたかも自分のもののように感じる感覚である共感の重要性を提唱したのだ。厳格なプロテスタント家庭に育ったロジャーズは牧師を目指していたが、抑圧的で自己受容を許さないキリスト教から決別し心理学者となった人だ。

 人は社会の要請する感情の鋳型に知らず知らずのうちに自分をはめこみ、そこからはみ出た部分をなかったことにする。愛する家族に対して無力な自分への絶望を感じていても、友人たちに「正直、重いよね」とその気持ちを受け止められず切り捨てられてしまったら、収まりどころのない経験できなかった感情を抱えて右往左往するだけなのだ。他者の感情の揺れを受け止めない社会によって「メンヘラ」はつくられる。自分とは違う人生の経緯をたどってきた他者が自分の抱えきれない気持ちに共振し共有してくれる。それだけで人が救われる気持ちになり、それだけでなく自己治癒する力が得られるのは他者という共同体に包摂されながらその人々の共振を通じ、自らの感情を経験できる故である。ダニはそれをこのコミューンで初めて経験できたのだ。むしろ大学院での専攻が心理学であるダニは、これまでずっと姉の感情に向かい合おうとしていたのに周囲の無理解からその感情に共振する勇気が持てなかったのかもしれない。そうだとするとやはり「メンヘラ」というレッテル貼りは精神が不調に陥った人の救済を阻むものなのである。

 人間は受け入れられ理解されると本来の自己と現実を見つめられるようになる。衝撃からコミューンの女たちの"共感"に包まれ、悲しみという感情に向き合う経験をへてダニはやっとクリスチャンという男がどういう人間か見えるようになった。それは他の女と性交したという裏切りだけを意味していない。彼には主体となる自分がない。恋人であるダニを男の友人たちが侮辱しても、そのホモソーシャルからはじき出されるのが怖くて反論もせず平坦な表情でそれを聞いている。何にもやる気を示していなかったのに受けがよさそうだと思えば、友人が昔から温めていた研究テーマをかすめとっても平気な顔だ。自分という主体などない分、彼は効率性だけで物事を判断しており、それはこの社会で生存するための最適解なのである。ダニはなんの苦労もなくその価値観に染まっているこの中身のない男に、この社会に適応するためずっとしがみついていたのだ。しかしダニは五月の女王となることでコミューンに受け入れられた。

 社会人類学者ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』によると、ヨーロッパ各地で行われる夏至祭では何らかの競技を勝ち抜いた五月の女王が男性の中から自分のパートナーとなる五月の王を選び、番いとなる。これは農作物の繁茂や収穫を意味する。しかしダニは自らの意志で、番う相手としてクリスチャンを選ばず、自分やこのコミューンには不要な存在だと断ずる。そして花や動物の生皮の装飾を施され、あたかも偶像化されたクリスチャンや他の若者たちは藁小屋で火をつけられる。夏至祭には藁で作った人形などに火をつける儀式があり、既述の『ウィッカーマン』でも神に捧げる供物として竹細工の巨大な人形の中に動物や人間を閉じ込めて火をつける古代ケルトの儀式が主題となっている。

 キリスト教者という意味の名前をもつクリスチャンをダニが供物として異教の神に捧げるこのエンディングは家父長的、そして男性的価値観からの決別を意味している。クリスチャンたちが焼き尽くされている様を初めは動揺しながら見ていたダニだが、最後には満足げな力強い微笑みを表情に浮かべる。父権社会の価値観の申し子であるクリスチャンは女性原理社会であるこのコミューンの次代の子どもたちにその命を譲ったのだ。近年、世界的規模でフェミニズム運動が新たな広がりを見せており、男女の二元論を超えた多様なジェンダーの人権回復運動が社会のあちこちで起こっている。世界が新たな価値観を求めていることは明白だ。このエンディングはそれを象徴的に描いているようにも見える。
 
 しかし、心にひっかかることはいくつもある。ペルが家族を一気に失ったという「火事」とは本当に「火事」なのか、歴代の五月の女王が写真だけで本人が現れないのはなぜなのか、そしてダニの、これもまるで何かへの捧げ物のように装飾されている衣装の意味…。ダニがクリスチャンのようにこのコミューンの価値観の申し子となった先に何があるのか。少なくとも現代社会の価値観からしたらそこにあるものはやはり恐怖でしかないのかもしれない。しかしその恐怖もまた父権制社会により植えつけられたに過ぎないとも言えるのだ。

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