(小説)夏の思い出(第二話)
第二話
壁のなか
みしみしと足音がする。暗い教室の中、ワックスの塗られた古い濃い茶色の
床がきしむ。私大に入りたい赤い縁の眼鏡の少女が問題を解く間、美恵子は
黒板と席の間を行ったり来たりして古典の現代語訳を解き終わるのを待って
いた。教室の横に教材と掃除道具の置かれた小さな部屋がある。その埃臭い
部屋を出ると、外階段につながる廊下があり、美容室の練習用のマ
ネキンが置かれていてぎょっとしたことをふと思い出し、新しい教材を
そそくさと取って、チョークの粉のついたスカートの裾を手で払うと、
元の教室に戻った。現代語訳の答え合わせと解説を終え、
練習問題を解かせると、1時間弱で授業が終了し、学生が帰った。
夜のとばりが下りてくると、蛍光灯の白色の明かりが明るくなってきた。
物音ひとつ無い中で、ひとり美恵子は壁の方をじっとみた。白い壁には鉛筆
で落書きが書かれている。今日は講師をする最後の日でもあった。
その年季の入った白い壁を見つめていると、多くの生徒の面影、卒業し
ていった一人ひとりの声、数年間の思い出がなんとなく記憶のな
かで浮かんでは消える。それと同時に別の考えが浮かんだ。この壁を塗った
人はどんな人なんだろうか。一塗目、二塗目、その前に板を貼った職人もい
たはず。。
職人たちの声が聞こえたような気がした。
自分の世界とまた別の時がそこに確かにあったこと、歴史を同じ空間の
中に共有していた自分も、もうすぐ別の場所に移るのだった。
もう一度、まだうっすらとチョークのあとが残った黒板を眺めて、日
報を書き、美恵子は帰りのバスの停留所へ向かった。
(第三話に続く)
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