ママさんとパパ、家族のWell-beingに関する対話

 パパレヤマのザクです。
 パパレヤマのオンラインアゴラでは、地域活動に関わるのはなぜなのか?という問いに対して、父たちで様々意見を交わしたのですが、今日は、その経験から、もう一度、パパレヤマがどうありたいかを、Well-beingというキーワードとともに振り返っておりましたので、そのメモを残しておきたいかと思います。

★前回のオンラインアゴラ★
https://note.com/papareyama/n/n4e1b29da9b37

この振り返りの過程で、パパの1on1をてがけられているサナフミさんと、ザクが子育てなるものにどのように向き合っているか、どのような考え方をもっているか、そもそもザクとはどういう思考の原理原則を持っているか、対話を通して分析した、非常に貴重な体験もありました。サナフミさんとの対話の時間は、一瞬でしたが、とても楽しかった。この体験を通して感じたことはまた別途書きます。

★なぜパパの1on1インタビューを行っているのか★
https://note.com/sanafumi/n/nbbcd2c9bfbdf

1.パパレヤマ、家族なる存在

 そもそも、「母になるなら流山、にいて、何でお父さんが繋がろうとしているのですか」ということですが、これに対しては、以前に、「父も家族と楽しく過ごすため」、という答えを出し、家族を楽しむなら流山というメッセージを添えてきました。
 したがって、パパレヤマがどうありたいか、という問いに対しては、家族とどのように楽しみたいか(=在りたいか)、という問いにほぼ近いと思っております。このように問いを言い換えたとき、「あれ?昨今、ザクは、家族と・を楽しんでいるのか?(かなり多忙な日々になってきているゆえ(汗))」ということに気づき、そして、「そういうザクは、パパレヤマに家族を楽しむを齎すことができているのか?」というところに至りました。

ここで断っておくと、さきほどから楽しむ(=在る)と書いていますが、ザクのなかで『楽しんでいる』は、高揚感の類とは違います。
三木清の『人生論ノート』であります、存在は幸福であると明確に書いていただいた部分は、私の拠り所でして、楽しむは在ると同義というのを貫いてきておりました。
ゆえに、家族と・を楽しんでいるのか=家族なる存在にあるのかという風に思っております。

 私は家族なる存在をパパレヤマに齎しているのか、パパレヤマは地域に家族なる存在を齎しているのかという問いに至りしまして、結局家族の幸福論について考えたいという思いを持ちました。
 前置きがだいぶ長くなりましたが、ウェルビーイングエバンジェリストである勝間葉子さん(実は毎週毎週、様々な目標を共有させていただいているのです)に、貴重なお時間をいただいて、恥ずかしながらこのモヤモヤとした思いをもって、『家族のWell-beingのため、パパレヤマは存在できているのか』であったり、『父の不思議さ』など、いろいろ対話をしましたのでその時の記録の断片を残しておきます。
 勝間さん、本当にありがとうございます!

★子育て中のライフマネジメント:ウェルビーイングを軸に生きよう!★
https://coachingships.com/mission/

一緒にお話をしてくださった勝間葉子さんのミッションの言葉を引用させていただきます。拝読していて、これだ!っていう共感をしております。

子育て中は「ウェルビーイングいいね!そうしよう!」と簡単に一筋縄ではいかないという気持ちもよくわかります。

一方で、子育て中のパパやママが何かを犠牲にして成り立っている社会は持続可能なはずはないので、断ち切る必要を感じています。

子育て中のパパやママがからだ・こころ・社会的・家庭において、十分にウェルビーイングの状態でいる・いられるという社会を実現する事は、
子供にとっても大事だし、その子たちが大きくなって社会の一員になったときに幸せに生きていくためにも大事だし、子育て中以外の人たちにとっても、イキイキと働き・生きる社会に通じていくと確信しています☆

だからこそ、私は、ウェルビーイングに生きる子育て中の人たちをどんどん増やしていきたいのです。


2.パパの行動の不思議

 勝間さんとの対話では、その前置きはだいぶ短くて、「パパのウェルビーイング、家族のウェルビーイングって何だろう」って考えてまして・・というザクの雑なフリだけでしたが、「そういうことを考えているパパがいて、そういうパパがコミュニティを作っている」のが嬉しいというか有難い!というそれこそ有難い言葉から始まりました。

 考えてみれば、パパって面白いんです、ってザクが切り出して、ザクが昔住んでいた地域の保育園の運動会での出来事をお話しました。その運動会でのデカパン競争での光景です。
 デカパンを親子で履いてバトンを渡していくゲームで、お母さんは必ず次のターンの親子がデカパンを履く手伝いをするのに、お父さんは自分が終わったらデカパンを置いて行ってしまうという現象を目にしたのです。ザクが行動観察をしていたところ、綺麗にママとパパで行動が分かれてしまうという不思議さがそこにありました。「あ~お父さんって前後の文脈が見えてなくて瞬間集中しちゃうよな」と同情する気持ちもありました。

 この偏り自体を悪いというわけではなく、意図せずして発生している偏りに苦しんだり、意図せず発生している偏りを無意識に当然としているから苦しんでしまうことを避けたい、家族で納得して合意している状態がいいね、と思いますが、パパレヤマは、この意図せず苦しませる偏りを齎したくないという考え方でありたいんですよね、というお話をしました。

3.意図せずの偏り:職場でのママ、保育園でのパパ

 勝間さんがこのお話をきいて、あるある~とおっしゃったあと、意図せずの苦しみってパパにとっての保育園、ママにとっての職場ですよね~というお話に移りました。

 すなわち、ザク自身が昔経験してきたことでもあるのですが、私に分からないことがあると必ず、保育園では「奥さんは、なんておっしゃっていますか?」、小児科では「お母さんに聞けばわかりますかね?」という地獄のような問い。この問いに対して、「私も普通にわかりますよ」とわざわざ言わなければいけない高いコミュニケーションコストがそこにはあります。同じく、勝間さん曰く、ママにとっては、上司や同僚に「私は普通に働きますよ」と、なんでこんなこと普通なのに言わなければいけないの?という思いを抱きながら話すシーンと似てますよねという。

 ママといえばこう、パパといえばこうという潜在的なモデルによって、苦しむ状況。意図せずの偏りといいますか、このようなことから解脱していくことは、パパレヤマの在り方の一つだと気づきました。

4.地域イベントでのパパ・ママの行動

 そういえば、よく地域のイベントで、昔は、講師の話を聞くパパ、子どもをおっかけるママは典型的な光景でした。あれはパパが集中する環境を提供したいママなのか、子どもをおっかけるのはママの仕事だと意図して決めたのか、自分だって話を聞きたいのにとママは思っているのか、どう思っているのかが不思議でした。

 それぞれの家族の事情はあるとはいえ、勝間さんが教えてくれたのは、とあるパパ教室のイベントで、「子どもを連れてくるのに自分で準備できた方は?」と手を挙げさせたら誰も手を挙げない(=ママが準備してきた)というのが多いらしく、パパ教室としては「ママの準備の手伝い禁止、ママは休んでいてください!」とまで敢えてしているのがあるそうな。

 そこまで敢えて踏み込んでいるのって面白いなあと思ったのですが、逆に言えば、お父さんがお母さんを家において子どもたちとだけで外にいって遊びまわっている状況はそれはそれでよいなあと気づいたのです。無理にミックスしなくてもいいわけですよね。

5.意図せずの偏りを乗り越えて家族で楽しむ

 パパレヤマとして家族の楽しみ、在ることを地域にもたらすことができているかという問いに対して、意図せずの偏りを設計しないということが1つのヒントだと気づいてきました。それって、夫婦のパートナーシップにも深いかかわりがあります。

 実は、この対話はもっともっと広がったし、私が咀嚼し振り返ると書き連ねることも多いのですが、一旦ここで筆を休めます。Well-beingとは何かという核心をまだ書いていないですものね。勝間さんとの対話で、勝間さんには申し上げなかったのですが、Well-beingは微分だと気づきました。次回、Well-beingは”そのものの値”ではなく”微分”だというお話をさせていただきます!

 それではまた!


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