思索的対話を阻む、ターミネートワード("終わらせる言葉")
会話の上で、ターミネートな言葉というのがある。終わらせる言葉、終端の言葉。意図せずとも、終わりを迎えさせてしまう言葉のことだ。
例えば、「〜なのですよ。」「〜だから。」は、ターミネートになりやすい。一つの情報 (事実) あるいは意見として、提供される分にはもちろん歓迎だが、その後にどういう言葉続くかが大事になる。そのまま終わりに向かわせる、つまり、相手を説得、納得させる、場を結論付けようとするために用いられているとしたら、先の話のとおり、思索的対話(スペキュラティブ・ダイアログ)にあたっては極めて相性が悪い。
合意、結論を置く意図が無かったとしても、その手の発言は結果的にその方向に誘ってしまう力が強くなってしまう。事実や意見、そしてさらに広げる次の問い。この組の意識を持てると、思索的対話が続く。
例えば「アジャイルは手段であって、目的ではないから。」という発言があったとする。この発言自体は文意から、「手段である」という説得、結論を促しているように思えるが、思索的対話を続けるつもりならば、この言葉の後のほうが大事だ。この手のテーマをよく考えている人にはお馴染みだろうけども、アジャイルは一面としては手段であり、それでいて目的に等しい一面がある。手段論をただなぞったところで、新たな学びはない。その一面を踏まえて、何が言えるのか? ここにこそわざわざ対話に時間を投じる意義が出てくるのだ。と、考えると、話すテーマについての知見も一定ないと、よくあるターミネートを迎えてやすくなってしまう。そりゃそうだ。
だが、何かしらの専門性を対話の場に持って来よ、というのが言いたいわけではない。その道の専門性は、その道の専門家が持ち寄れば良い。思索的対話の可能性を高めるのは、多様な解釈、見立て、例え、疑問にある。どのような問いをぶつけても良いという安全性を確保しつつ、むしろ専門家ではもはや辿りようがない局地からの投げかけを期待したいのだ。
とすると、限りなく最初のほうで布石を置くのが良かろう。「アジャイルとは手段という一定の見方がありますが、その一方で、マインドセットや価値観まで考えると、ほぼ目的になるのではないかという考えも出てきます。このような多面性を持つ考えについて、みんなはどう思いますか」
その上で、それでも手段だ、という意見が寄せられたら、それはそれで、面白くなる可能性もある。
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