アジャイルは手段ではないよ。
今日も今日とて、様々なところで相談を受けている。日本中、そこかしこで課題がある。そんな中で寄せられる一つに「アジャイルができない」という話がある。
話を聞いていくと、アジャイルをやりたいのだけど上手くいかない、という。よくある話だけども、そもそも「なぜアジャイルをやりたいのか」を問うと、ごにょごにょし始めてしまう。
なぜアジャイルなのか? になると言葉に詰まる、あるいは通り一遍のフレーズ「変化に対応できるために」しか出てこない。どんな変化のことなのか、対応とはどういうことか?
このあたりが言語化できないと、アジャイルを利用しようとしていて、その実、アジャイルという言葉に使われているだけかもしれない。これもよくある話。いわゆるアジャイルをやることが目的になっている。
そんなんじゃダメだから。すぐにアジャイルなるものの意義を確認しよう。
「だから、アジャイルは手段なんだ。あくまで手段なんだ。アジャイルをやりたいわけではないのだ!」
という論が今度は大勢を占め始める。そうだね。アジャイルとは、何が正解かって誰にも分からない状況で、検証や試行を繰り返す中で進むべき方向性を見出していく、そういう「動き方」を指すのだよね。
いわゆる仮説検証や実験を繰り返す「探索」と、その過程と結果から学びを得てその次の意思決定や行動をより適切にする「適応」。この探索と適応をチームで取り組むためのすべがアジャイルなんだよね。動き方というからには方法であり、手段だろうね。
でもね。
肝心の目的そのものが、明確になっていなかったり、安定していないなんてことざらだよね。取り組むべき課題だと思っていたことがそうでもなかった、ある機能を作れば良いと思っていたけどそれが大事なのではなかった、などなど。
目的自体が探索を進めていく中で変わっていくことがある。この方向ではなかったなと変えることがざらにある。むしろ、そうやって方向を変える仕組みを手に入れることが大事なのだよね。
往々にしてこれまであった進め方というのは「最初に立てたプランなのだから」「最初にみんなで合意した方向性なのだから」変えない、変えられないだった。ダメと薄々分かっていてもそこに突っ込んでいかなければならない。そんな無意味な行進が何も価値をもたらさないから、アジャイルな「動き方」を私達は躍起になって身につけようとしているのだよね。
と、考えると、ちょっと分からなくなってくるよね。何に焦点をあてるのだろうと。
チームや組織で動いていくためには目的が欠かせない。だから、一旦でも、仮でも、目的を決める。決めたからにはその目的に活動の焦点をあてる。だが、その一方でその目的自体が変わる可能性がある。目的は金科玉条 の拠り所にはならない。では私達が拠り所にするものとは?
目的そのものより、むしろ、目的を変えられる「動き方」を取れていることだ。一旦、仮に、置いた目的なのだから。進めてみて、それが効果的ではない、本質的にならないと分かったのなら、理解に基づき、変えていく必要がある。
だから、適切に目的を変えていく動きが出来ているかを見る必要がある。このとき焦点は明らかに「方法」のほうにある。おや?
アジャイルは本当に単なる手段なのか。むしろ、一つ俯瞰したところから考えるとアジャイルな動きを取れている状態を作ることが「目的」となるのではないか。
アジャイルが手段なのか目的なのかは、地と図の関係にあると言える。地と図が視点によって入れ替わるということだ。手段か、目的か、という以上に、自分の視点を思うように動かせることのほうが本質にきっと思えてくるだろう。
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