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「思うことは特にない」で、どうにか出来るほど甘いものではない

 世の中にはあまたのフレームワークが存在する。何か仕事をするのに、そうした道具を使わずにいることの方が少ない。自ずと、フレームワークの良し悪しも問われることになる。

 普段「フレームワークが重要なのではない」と言う人も、整理が上手くいかない感覚が芽生えてくると宗旨替えが起こる。「こういう時こそ世の中にあるフレームを使わないのか」と考えるようになる。結局良いのだったら最初から選べるようにしておけば良いじゃない、という真面目過ぎる言及のウケはあまり良くない。

 仕事柄キャンバスやフロー、モデルなど駆使することが多い。DXや組織アジャイルといった未知が多い領域では、向き合う課題は真新しく、制約条件も変幻自在に変わる。ゆえに、一般的に存在するフレームをそのまま当てようとしても、解像度が合わないことが多く、太刀打ちいかない。
 その課題ごとに、どう構造化するか、どう解像度を上げるか、どう共通理解を醸成するのか、設計をしなければならない。フレームも、プロセスも、対象となる。「仕事自体を設計する」ということの重要性は近年顕著になってきていると感じる。

 さりとて、良きフレームが講じれたとして、結果が伴うかというと勿論それほど単純な話ではない。どれほど課題、テーマ、状況にフィットする枠組みを整理できたとしても、最も大きな変数は「人」そのものである。「人」が不確実性を生み出し、高める要因になる。

 枠組みの破壊者に回りやすいのは、①当事者たちの外にいて、なおかつ権力や権威のある人、もしくは②圧倒的なネガティブスタンス、本人にそのつもりはなくてもとかく逆張りアプローチがスタイルになっている人だ。
 どちらも手強い状況を作ってくれる。何よりもとにかく時間がかかりはじめる。理解醸成や合意形成。明らかに回り道になることが見えていても避けられない。強い「重力」のもとで一歩一歩にじり進むような具合だ。

 だが、実はそれ以上に困ることがある。困るというか、どうにもならないのは、「何もない」ことなのだ。

 例えば、プロダクトの仮説を立てるとする。仮説はどこから来るのか。対象とする顧客やユーザーとのコミュニケーションや観察から、様々な洞察を得て立てる。もちろんそれはそうなのだが、顧客やユーザーと向き合う側が「空っぽ」では何も生み出すことができない。

 相手の考えや行動、価値観に触れて、どう捉えるのか。相手の言っていることだけをそのまま何か形にすれば良い、という単純な世界ではないとしたら。向き合う側が何かしらの「ものの見方」、あるいはどうしていきたいという思いや信念がなければ、捉える事象は「知識」にはもちろん、「情報」にもならない。

 この「空洞」を一つや二つのフレームでどうにかすることはできない。まず、空洞に何かを入れて、それを咀嚼し、自分の中に考えを持たなければ始まらない。「思うことは特にない」で、どうにか出来るほど、クリエイティブな仕事は甘いものではない
 こういう観点から、昔から「旅をせよ」「良いものを見よう、味わおう」といった教えは迂遠に思えて、実は効いてくることが分かる。そうした時間を通じて、私達は内側を何かで満たしていく手がかりを得ている。

 結局は、物事を捉えるための道具がどれほど充実していようとも、それを扱う人が、その内面こそが問われるということだ。そもそも自分の中に何があるんだっけ?ってね。

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