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理性と感性の間を振り子のように行き来する。

 何かしら議論をして物事を決めていく流れの中で、よく拠り所となるのは「合理的な判断が出来ているか」どうかだろう。一つ一つ論点を捉え、十分に吟味し、合理的な判断を下せているか。もし疑義がある場合は、もちろんそのまま進めることはない。こうして一歩一歩、踏み固めながら我々は判断を重ねていく。

 こうした展開で活躍するのが「理性」だ。いっときの感情に走ることをせず、道理に基づいて考え、判断する。合理的かどうか、経済性があるかどうか、倫理的かどうか、様々な観点でもって筋道の確からしさを作り上げていく

 理性によって、私達が直面している状況や物事は言語化されていく。言語化できるということは言葉で表現できる、説明できるということだ。それは、Aという事象とBという事象の違いを解説できるということであり、それぞれを分けて語れるということに他ならない。

 こうした言語化が進むにつれて、論ずべきテーマは詳細になっていく。「詳細になる」というのは、「よく分からない」部分が減っていくということだ。我々の議論は、くまなく分類、細分化され、不明な部分が消えてなくなるまで突き詰められていく。

 そこまで行けば、検討は終わる。我々は十分に議論をし、可能性について論じてきた。合理的判断への忠誠を果たしたのだから、その後の結果についても責任を全員で背負うことに、何ら厭わなくなる。
 かくして、理性は合理的な議論における最大の味方にして、唯一の手段となる。

理性によって議論を展開する

 一方で、我々は有限の時間の中で、議論と検討を行うものだから、すべての論点を拾い集めて、しらみ潰しにしているわけではない。理性でもって進めていると言っても、その議論展開は意外と声の大きさだったり、何となくの可能性を感じる方の選択だったり、たまたまだったりすることもある。

 もう一つ私達にはもう一つ有為な力が備わっている。それが「感性」だ。

 感性によって、議論は感覚によって再度着目するべき地点へと立ち戻ることができる。このときの殺し文句は「なんか違和感がある」

「この結論はもちろん納得しているのだけど、さっき言っていたあれって、なんかまだ気になるんですよね」

 状況はあっという間に、ある地点にまで還元される。立ち戻りにそれほどロジカルな理由があるわけではない。「ただ気になった」から。こうした感覚でイイ塩梅まで戻って、果たして再度建設的な議論が出来るかどうか。このあたりは場作りやチーム力が問われる。
 「せっかく結論が出たのだから、変に蒸し返すなよ」で、立ち戻りを許さないか、「まあまだ時間もあるし、少し立ち返って考えてみましょうか」で、他の可能性を探索できるか。「いつでも、どこにでも立ち戻ることを良しとせよ」とは言わないが、後者ができる「あそび」のあるチームや場でありたいとは思う。

 さて、感性によって立ち戻った私達はある時点からまた新たな言語化を始めることになる。一定、状況への感じ方を合わせた後、また理性による詳細化に取り掛かる。
 そこに別の可能性があるか、単なる時間のムダになるかは分からない。分からないからこそ、一定の時間の中で探索をしてみることになる。

 理性と感性による、合理的な整理と可能性の探索。感覚的にはテーマや事象について、理性と感性の間で「ボール回し」をするようなイメージだ。あるいは、理性と感性の間での「振り子」を描くイメージとも言える。

 このイメージはオルタナティブの探索という用途以外でも、ある。議論が煮詰まり、上手く合理的判断が続けられなくなってきたら、あえて感性に振った対話に切り替える。殺し文句は、「今、この感じってどう?(大丈夫かな?)」

 良いファシリテーターほど、絶妙のタイミングで殺し文句となる投げかけを織り交ぜる。無造作にただ問いかけるというよりは、「このチームや場はまだ今以上の可能性を掘り当てられるかもしれない」というファシリテーターなりの推論に基づき、動く。ただ単に「違和感がある」「どうなの?」だけ繰り出して、何とかなるほど我々は分かりやすい議論も仕事もしていない。

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