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「ユーザーにやらせている」つもりが、「自分たちがやらされている」ようになる

 プロダクトとして追うべきKGI-KPIを定めてトレースする。KPIは勿論プロダクトの状況によって異なるが、例えばActivationだったり、オンボード後の定着を示すRetentionについての指標だったりする。KPI到達に向けて、マーケティング上の施策や機能開発へと落とし込み、その具現化に日々注力する。…という日々になっているだけだとしたら、危ういかもしれない

 この状況のどこに問題があるのだろうか。至って普通のことではないか。むしろKPIをろくに定義することもなく漫然とプロダクトマネジメントを行う現場やチームだって少なくないだろうに。
 こうした状況を見るにつれ、私の中の「プロダクトオーナー」という言葉は2つの意味で定義できるようになった。運用型PO探索型PO、とでも言っておこう。運用型POは、冒頭で述べたようなKPI最適化への偏重に陥っている可能性がある

 そもそもプロダクトの価値には2つの側面、見方がある。ユーザーにとっての価値と、ビジネス上の価値の2つだ。もちろん、両者は完全に独立したものではなく、関連性や因果関係がある。しかし、両者を結論のほうから各々違うものとして扱うことも出来てしまう。
 これが進んでいくと、ビジネスモデルにとっては見るべき対象だがユーザーにとっては必ずしもその価値を強く表すものではないものをKPIに置き始めることになる。ビジネスとユーザーの間の距離が遠くなるほどに、そうしたKPIは「ユーザーにやらせること」に寄っていくようになる。

 ビジネス価値にのみ重きを置いたKPI(要は儲かるかどうか)に偏重し始めると、POの仕事はある意味運用的になる。いかにユーザーに期待する行為をやらせられるか。そのための施策をどれだけ打てるかに焦点があたっていく。型を作り、自分たちの行動をその型にはめることができるようになる。

 そのスタンスはいかがなものか、本当にユーザーに立脚したプロダクト作りが出来ているのか、というエモいことだけを言いたいわけではない。危ういのは、自分たちの行動を型にはめすぎてしまうということだ。

 最適化とは標的に向けてムダなことを徹底して省き、期待する成果一点に集中していくことだ。プロダクトマネジメントにおいても必要な観点ではある。ただし、集中とは選択をトレードオフしているということであり、それだけ可能性をみすみす手放しているという見方が成り立つ。
 ポジに言うと、型にはまり過ぎている分、実現できる提供価値やビジネスの拡張を見逃している可能性があるということ。

 自ら意志を込めて、状況を選択しているならば勿論好きにすればの世界だが、もしそうではないとしたら。無意識の最適化はやがて自分たちを追い込んでいくことがある。
 仕事はやらされになり、どこに意志があるのか分からなくなる。「ユーザーにやらせている」つもりが、自分たちがやらされているようになる。因果応報。気が付かないうちに出口のない消耗戦へと至ってしまう。POは自分の役割を局所化する方向へと向かい、戻れなくなってしまうかもしれない。

 自分たちの活動をヘルシーに保つためにも、意志なき偏重を安易に許すのは避けた方が良い。2つの価値、ユーザー価値とビジネス価値の両者を見るようにする。0→1を乗り越えて、1→10、10→100の世界へと入り、勝ち筋を見出してしまうと偏重の力学が強まりやすい。そのことを「知っている」だけでも防ぎようはある。

 では、具体的にどうするのかと?

 「ユーザー」の前に立つのだ。ユーザーと思っている人たちの前に立つ、ユーザーなのかどうか分からなくなっている人たちの前にも立つ。探索をもう一度を始めよう。
 私達がユーザーと言っている人たちが、どんな状況にあって、何を期待し、私達のプロダクトに向き合い、何を感じているのかを知る。それを又聞きではなく、自分の体験として獲得しよう。山ほどの可能性がそこには広がっている。

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