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組織の「左手」は、自分たちの「右手」のことを知らない

 組織のサイズの話。人間が適切な判断と行動を取れる、限界とはどのあたりなのだろうか。

 「適切かどうか」どころか、自分たちが思うように振る舞える境界とはどこまでか。当然ながら、組織が大きくなるほどに怪しくなる。それは数千〜万人くらいだろうか。意外と50人超えるあたりで、複雑さについていけなくなるのではなかろうか。
 一つの事業、事業部くらいの大きさがぎりぎりといったところか。そんなことを日々の組織支援の中で、ぼんやりと思った。そもそも人が組織(の大きさ)についていけていない

 どこかの時点から振り切られている。よく大きな組織を揶揄するために「取り巻く環境の変化に対応できない問題("ゆでガエル")」が言及される。だが、もっというと外部環境どころか、自分たち自身の状態を把握できていない、という現状があると思う。自分がどのくらいメタボリックな状態になっていて、もはや自分の体の先々で何が起きているかわからない。言ってみれば、組織の左手は、自分たちの右手のことを知らない

 こうしたもどかしさに、人類の叡智とはどこにあるのかと歴史を紐解きたくなった。数千、数万人が同時に動き、何かの事を成そうとする活動。最初に思いついたのは「戦争」だった。
 通信機器が存在しない、極めて昔の時代において、数千、数万人が動く行為がたしかに存在した。想像してみてほしい。1万人の集団が、やはり1万人くらいを相手にして、数km平方の面の上で、ろくな伝達手段がない中で、一糸乱れぬ集団運動を行いたいわけだ。
 A地点からB地点にただ移動する、なんて話ではない。命をかけた押し合いを相手と行うのだ。生命的な危機感の下、緊張感を最大限高めながら臨むことになる。
 「右翼は右のほうで、適当にうまいことやっといて〜」というわけにはいかないだろう。いやでも当時はそうだったのかもしれない。「俺たち、どうすんの(大丈夫なん)」と思うのは無理もない。

 例えの領域は全く異なるが、大きな組織が日々陥っているのは「どこで何が起きているかよく分からない(うちそんなことしてたんだ)」ではないか。
 過去に決めたことを忠実に繰り返しているうちは、"組織の右手" を気にする必要もない。むしろ、気にしている暇もない。
 だが、この先に向けて、これまで取り組んだこともないことに踏み出し、新たな価値を生み出そうとするならば、組織の構造を越えていかなければならない。たちまち、右手や足、自分自身への意識を持つことになる。

 「分からない」という状況は、不安を招き寄せ、上手くいかなさ加減もあいまって、疑心暗鬼を生み出しやすい。「右なにやってんの、左うごいてんの、やってんの俺たちだけじゃん、なんで邪魔するかな」

 しばしの不協和を経て、いくさは終わりを迎える。そのとき胸に去来するのは、やはり「俺たち、どうすんの(大丈夫なん)」なのだろう。

((レッドジャーニーアドベント10日目))


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