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価値観とイネーブラを分ける

 優秀なのだけど、いわゆるセルフマネジメントが効いてなくて、場当たり的。よく言えばベストエフォートスタンスで物事にあたる。長い目でみると、あまり結果が現れないというかモノになるまで時間がかかる。ということに、仕事柄出会うことがある。

 最初はもったいないなーと思っていたが、今ではちょっと恐ろしい気分だ。なぜ、マネジメントがここまで駆逐されることになったのか、と。

 反動だと思っている。1980年代以降の日本の組織を支えてきた「深化」の能力。ときの流れとともに、PDCA、改善、深堀といったこれまで武器としてきたことだけでは適応できない事態が増えてきたこと。それにも関わらず、一旦構築された組織のケイパビリティや最適化というのは、容易には変えることができない。

 だからこそアンチテーゼで振り切って、新たなケイパビリティ(アジャイル)の獲得を組織に認めさせたいという運動に力が込められてきたわけだ。その反面には、ともすれば深化の否定が伴ってしまう。マネジメントやプランニングといった概念は、古くて「役たたずで、捨てるべきもの」という烙印が押されていく。

 このことを考えて思うのは、価値観とイネーブラを分けたほうが良いということ。「これからの組織に求められるのは盲信的な深化のあり方だけではなく、あいまいな状況に耐性を持ちながら探索的に物事を進めていく適応のあり方なんだ」というのは価値観に近い。価値観に近いし、特に否定するところもない。

 一方、深化にせよ探索にせよ、その遂行にあたっては、マネジメントもプランニングも手段として必要だということ。プランニングとは、自分たちの意思を表出し、確かめ、決定するためのすべにほかならない。マネジメントはその意思が具現化するよう効かせるための機能ということになる。こちらはイネーブラの観点。

 ある価値観と強烈に結びついていたイネーブラは、もはや価値観と一体と見なされ、誤謬が生じる。逆に言えば、深化であってもより効率的な方法を生み出すための実験や仮説検証といった行為は必要であるし、探索にも意思のプランニングとマネジメントが必要となる。この手の最初の最初の最初にあるイネーブラ選択で間違えていることが少なくない。

 つまり、価値観とイネーブラは違うものだし、ここが混在すると妙な信仰が生まれてしまうということだ。「深化ではなく、探索。だから、PDCAではなくOODAだ」といった短絡的な回路が生まれてしまう。こうした二項対立の罠にはまっておくと、物事を深く考える必要がないし、判断も早くなる。それは、放棄に近い。

 何かに自分の価値観を置くのは良いが、だからこそその実現のための手段は選んでいる場合ではない。

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