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社会的動物であることは幸せなのか

いつもならエンジンがなかなかかからない週初めの月曜日。
今日は珍しく朝から息つく暇もなく、テンション高く仕事に勤しんだ一日だった。

同時並行して進めていた比較的重要なタスクたちを、今日の午前中に完了に持ち込まないといけなかったことや、毎週火曜日に行われる会議のための資料作りなど、今日仕上げてしまわないといけない業務が立て込んでいたのだ。

とはいえ、やはりブルーマンデーはブルーマンデー。
そのしわよせは帰宅後にやってきた。

ソファに座り込んだ途端に襲ってくる眠気と、偏頭痛の成れの果てのような頭の違和感。

またこういう日に限って、夕飯を済ませたら明日出す可燃ごみの収集、さらに二日に一度の浴室の水洗いと、たまたまサイクルが重なった仕事が次から次へと押し寄せてくる。

なんとかすべてこなして、一息ついて。

精神的、肉体的に調子がイマイチの時でも、それを押して、つまり自分の意思を殺して生きていくことが本当に必要なんだろうか。

その時のこころ、その時のからだの声を聞いて心地いい方向で生きていく、それではダメなんだろうか。

「社会的動物」として生きていくには、そんな甘いこと言ってちゃダメに決まってる、そう言われてしまうかもしれない。

でも、「社会的」である前に、私たちは「動物」なのだ。

こころの赴くまま、からだの赴くまま、をないがしろにしていいわけはないはずだ。

せめてそういう気持ちは忘れないようにして、日々社会的な行動をするのが、人としてのあるべき姿なのかもしれない。

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