隠れた精鋭たちの最後
ずいぶん長い間閉じ込められていた何も見えない真っ暗な空間に、一筋の光が差し込まれてきた。
ようやく解放されるのかという安堵の気持ちが浮かんだのもつかのま、今度は一面真っ白な空間に放り出され、強い力で上下左右からもまれはじめた。
時間にすると10分程度だっただろうか。あまりの圧迫感にしばし気を失っていたようだ。気がついた時にはのったりとした白い物体の中に混ぜ込まれていた。
これは小麦粉だ。どうやら私の出番が来たようだな。
わが名はサッカロマイセス・セレビシエ。パンを作るために選りすぐられた戦士だ。一般的には「イースト」と呼ばれている。
小麦粉の糖分を取り込み、炭酸ガスとアルコールを排出することで、独特の風味とやわらかなふくらみをパンに与えるのが私の使命。
最近この家の人間は自家製酵母に浮気をしているようだ。なかでも米と米麹を使った酒種にご執心のようで、三度目の挑戦でかなり力の強い酵母ができ、味見をしては「アルコール臭がする!どぶろくどぶろく!」などと浮かれている。
自家製酵母など、私に言わせればしょせん野良。目に見えない、どこの馬の骨ともわからない連中の集まりだ。パンを発酵させるのに半日もかかるやつらに、パン酵母を名乗る資格はない。
顆粒の薬にも似た私たちの見慣れた風体は、人間たちに安心感を与えるだろう。また、パンの発酵のために生まれた精鋭だからこそ、発酵時間は1時間もあれば十分だ。
それなのに、近頃はちまたのパン屋でも「天然酵母のパン」がもてはやされているらしいじゃないか。なんとも嘆かわしい。
そもそも私たちイーストだって自然界に存在する生物なのだから、ある意味「天然酵母」なのだ。それを、さも私たちは工業的に作り出された人工物で健康にいいとはいえないものであるかのような誤解を与えかねない風潮に、私は以前から不満を抱いているのだ。
さて、どうやら2回目の発酵も終了したようだ。今日のパンは牛乳もバターもたっぷりでかなり骨の折れる作業だったな。
この後は焼成。最後の焼き上げの工程だ。ついにパンが完成する。
生物である私たちは、200℃近い高温に耐えることはできない。パンの完成を見ずに、一人残らず死に絶えるのだ。
おいしいパンを作るという目的のために選りすぐられた精鋭たちが、完成したパンの姿を、そしてそれを食べて喜んでいる人間たちの笑顔を見れないまま死んでいくというのはなんとも皮肉なものだ。
でも、それが私たちの使命なのだから、泣き言を言っても仕方がない。
天板に乗せられたパン生地とともに、役目を終えた私たちはオーブンの中に入れられていく。
あとはまかせたぞ、オーブン。
温度を間違えて焦げたり生焼けになったりしないよう、しっかり頼むぞ。
おいしいパンになるかどうかは、お前にかかっているんだからな。
すでに予熱されていたオーブンの中はすさまじい熱さだ。
熱風も吹き出し始めた。スイッチを入れたんだな。
灼熱の空間の中で、意識が少しずつ遠のいていく。
自家製酵母たちのように、ふわふわと気ままに生きていく一生もよかったのかもな。最後の瞬間に、そんな精鋭にあるまじき思いを抱、く、、なんて、、、な、、、、
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