「今ここ」にある自分を充実させるためのレンマ的考察、あるいは現実的に健全に生きる為のマインドセットとは

今という時間を受け容れる。そんなことが、できずにいたんだなぁ。

相田みつをみたいな言葉だけど。なんだかんだ藻搔いて足掻いてきたなかで、唐突にそんな言葉に行き着いた。

同時進行で複数のプロジェクトを動かしていて、色々と忙しくしていると、つい、心が上の空になる。目の前のことをおざなりにして、いま手がつけられない別のことを考える。

ある時期は、むしろそれこそが有能の証、社会から求められていることの証明であると、思い上がっていたのかもしれない。

でもやっぱり、それは、歪みなのである。

結構その歪みは酷くて、よくよく振り返ったら、仕事のときは休みを思い、休みの時は仕事を思うというような、どうも変なバイオリズムになっていた。昼夜逆転、的な。

ここ半年ほど、仏教や禅について読むことが多いのだけれど、しばしば、かの思想においては、「今ここ」への集中が強調される。

確かに、「今ここ」のこの時間、空間を充実させることこそ、人生という時間を充実させることに直結する。そうやって書くとずいぶん当たり前なんだけど、意外とこれが、難しいものなのである。

部分が即、全体であり、全体とは部分である。

あらゆるものへの認識に実体はなく、空である。

この2つのテーゼが同一のことを語っているのだ、と、なんとなく感覚的に思えるような気がしている。そして、だからこそ、自分が円満であることが、世界の円満につながるのだ、と。円満であるためには、今ここに集中し、目の前にいる人を思うこと。

そんなことじゃ、あれもこれも時間が足りなくなるんじゃないかと思ってきたけど、きっとそれは逆なのだ。時間を節約しているつもりで、内在的な時間がどんどんと痩せ細るような過ごし方。

なんだか、エンデの「モモ」みたいな話だな。

でも確かにそうだ、仕事を終わらそうと躍起になって箒を動かしても、いつまでたっても仕事は終わらない。掃いても掃いても、埃は降り積もり続ける。そうでなくて、ひと掃きしては一呼吸、このリズムにこそ、充実した時間を過ごす本質がある。仕事とは、終わらせるものではなく、社会と自己の一致を確かめるものだから。そのために、「今ここ」に集中する。

ある本を読んで面白かったのは、人間が時間を感じるのは、ニューロンが電位の変化を伝え合う仕組みそのものによるものだ、という。色や味が、何かに還元できないクオリア的な実感、主観であるのと同じように、時間というものもまた、脳に宿る幻影のようなもの。実は客観的な、ニュートンやアインシュタインが言うような時間という概念は虚構というか、あくまで方便、仮説みたいなものであって、本当はそんなものはない。脳というデバイスがデコードして読み出しているだけなんだ、みたいな。後半は勝手読みした解釈だけど、多分、あの本はそういうことを書いていた。これは突拍子も無い空想的な話だろうか?そうとも言い切れない。むしろそう考えた方が、色々な生活的実感に説明がつく、とも言えるのではないか。

楽しい時間、愛おしい時間ほど速く過ぎ去り、待つ時間や忌むべき時間ほど長いという、誰しもが経験することだ。しかし最近、瞑想の真似事のようなことをするにつけ、ふと、ありありと大昔の感覚が蘇ることがある。あの時間はタイムカプセルのように、私の心に永久保存されていたのかもしれない。もしそうなのだとしたら、あの頃の私は、その一瞬の輝きが過ぎ去ることを、惜しむ必要はなかったのだ、ということになる。その逆の、私たちはすでに未来を生きている、という概念は少々受け入れにくいが、実は未来も過去も、可能性の束のようなものであり、現在からしたら、いまここにないという厳然たる事実からしたら、なんのことはない等価な存在なのである。

「今ここ」に集中するからこそ、過去も未来も自由になる。

もしこのテーゼが逆説的に見えたとしたら、それはロゴス的な、言語的な意識のせいで発生する錯覚なのである。と、あえて断定してみたい。

「今ここ」にある時間を、思考を、感覚を、ただひたすらに充実させる。そのことが、繋がるべき縁を繋げてくれる。

全ての過去は今という時間に凝縮されている。一切の未来もまた同じである。

不思議な話、こうやって書いてみると、死というものがまた違って見えてくる。過去現在未来の時制が虚構であるとするならば、人はすでに、死を生きている。ならば、恐れる必然性もまたないのだ。

いつもの悪い癖で、最後またちょっと、飛躍してしまった。「今ここ」に集中する。それこそが重要な問題なのである。また、この抽象的な議論が、目の前の商いや生活に、直結、接合されるべく、還ってこなければ意味がない。そのための理論であり、そのための現実である。

でもなんとなく、読み返してみると、その域にほぼほぼ肉薄している気がする。この真実にこの手で触れることができたら、きっと奇跡だって起こせるんじゃないかな、と、わりと本気で考えてみたりもしている。

(ようへい)

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