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kenzeeとレジー あるいは人をスターダムにおしあげる「ネイティブ感」についての考察

先日、ひさとしメンバーと曲を作っていた時、コード進行とかメロディの話になって、aikoのコードは変態コードみたいな話題になり、それがきっかけで、昔、aikoの曲を作曲編曲の観点から、当時のリリースされていたアルバム全曲解説してたブログがあって、読んでいたことを思い出した。
なんとなく気になって、「aiko 全曲 ブログ」みたいなキーワードで検索したら、なつかしきそのブログを発見したのだった。これこれ、と思いながら、ひさとしメンバーにURLを共有しつつ、自分も自分で、なんとはなしに読み進めたのだった。

日付をみたら、2013年1月の記事である。懐かしいわけだ。たった7年といえば7年なんだけど、もっと古く感じて、ひと昔、それこそ12年ぐらい経っててもおかしくない感覚だった。そう感じたのは、cocolog-nifty.comのフォーマットのせいなのかもしれない。
加えて、そこで扱われている話題のせいもあるのかもしれない。ゼロ年代論客、常見さんとか宇野さん、郊外とか言ってたなあ、とか。そういえば風営法の話で、当時みんないろいろ騒いでた。最近聞かないけど、いまどうなってんだろう?

2013年の1月って、なにやってたんだろう。
うっすらと記憶をたどると、震災の年に長女が生まれたのだから、すでに自分は父になっていたはずだ。しかし、この文章を読んでた記憶と、うまくそのあたりの日常の記憶と結びつかない。神谷町でまだ働いていたんだっけ?

カンニングして、「フルーツバスケット」のHPを見に行った。2013.11月頃 いちご楽団結成!とある。そうか、ということは、kenzeeのブログを読んでいたのは、バンド結成前夜の頃だったのか。だったら転職してないぐらいの頃。その頃読んでた文章をいまこうして思い出すことに、不思議な感覚がある。

読み進めてみて、大きく自分が変わったなとも思った。明らかに、読解力が増していた。以前は印象だけで読んでたというか、こういう難解な文章を読んでる自分カッコいいと思って読んでたというか、正直なところ、後半はお腹いっぱいであんまり消化できていなかった。いま読むと、わりとすんなりと読めるし、普通に理解もできた。この人のバックグラウンドや書きたいこと、気分みたいなものも、諒解できるような気がした。
そうそう、レジーっていう人がいて、kenzeeさん、レジーさんのことを気にしてたなとか、読み進めるにつれて、周辺的なことも思い出す。当時はネット論壇の主戦場といえば、ブログとtwitterで。PCとケータイで。スマホはまだまだこれからで。みんな、どこかうっすらとアルファブロガーを気にしてたり目指してたりしていた。

aikoの連載を読み終えて、ふとブログのトップページを訪れたら、最後の投稿が2017年12月で止まっていた。今何してるんだろう、ちゃんと仕事しているのだろうかと、心配になる。心配になって検索したら、noteをやっていた。
じゃあレジーさんはどうなのかと検索してみると、この人もnoteやってた。笑

kenzeeさんがレジーさんのことを気にしていたその感じは、個人的には、すごいわかる気がする。
作家的というか、自分の興味の赴くところにしかいけないし、書けない人なのである。時にしみじみと、時にネチネチと書き連ねる。情念というか。売れたいとかモテたいとか、そういう気持ちはきっとかなり強くて、自意識をこじらせていて、空回りする。結果、書く文章は、売れそうだとかモテそうな方向とは真逆にひた走ってしまう感じ。
もうかたやのレジーさんは、編集者の資質。しかも今どき風の颯爽とした編集者で、大企業のエリートサラリーマンとしてマーケッターやりながらブログ書いたりなんかして、書いたら書いたで人気が出る、本を出したり大手出版社のウェブサイトで連載したり。如才ない感じ。たぶん、ご本人としては、kenzeeさん的な作家系の方々の感じの人が書く文章は、好きなのだろう。実際に、自分が書くにあたってもそのエッセンスをうまく取り入れている。でも、書く文章は、情念の方にはいかない、というか、いきすぎない。ファッションとのバランスも考える。だから、広く浅く、好かれるものが書ける。

こういうことを考えるといつも考えるのは、「長澤知之と秦基博」「高橋源一郎と村上春樹」「押井守と宮崎駿」「冨樫義博と尾田栄一郎」の対置のことだったりする。通に好かれ、尊敬されるクリエイターと、ミリオン・セラーのクリエイター。この方々のところまでいくと異次元過ぎてちょっとまた話が違ってくるところもあるのだけれど。まあでも、テーマとしてどこか通底しているし、連想する。

作家論はまぁ、それはそれで考えてみたいことも山ほどあるんだけど、一旦脇に置いておくとして。
それよりも、昨今のnoteの存在感はすごい。猫も杓子もみんなnoteを書いている。今回、kenzeeさんのブログをきっかけにして、はからずも、その理由に気づいたわけだが、それはきっと、スマホというUIにネイティブだったという、それが非常に大きかったのではないか。

つまり、空気感である。

ブログというフォーマットの、古さ。空気感。「今」がそこには、もはやない。ユーザーインターフェイスによって、実際の年月の倍近い時間が演出されている。他のブログサービスも、スマホ対応はしたんだろうけど、「対応」と「ネイティブ」は根本的に違う。
これぞまさに、イノベーターのジレンマ。あらゆるプロダクトは時代とシンクロする部分が必要で、ある環境に適応し、成功した者は、それが変化したら、不要なモノを考え、見極め、勇気を持って捨てなければならない。これから立ち上がるものは、試行錯誤しているうちに、当たるものに反応していく。運動神経の種類が違うのである。

ブレイクするためには、時代を読んで波に乗る、編集者的資質だけでは不十分で、超然とした普遍的な部分、そもそもの価値、作家的資質がなければ始まらない。前者が「空気感」だとすると、後者は「ガソリン」みたいなものだ。その人やプロダクトのもつ作家性、あるいは普遍性が十分に濃縮され煮詰まった瞬間、時代の最先端の空気とふわっと混合される。そこに火花が散ることで、爆発的燃焼が発生する。それを運動エネルギーに変換していく。
エンジンの燃焼システムみたいな喩えだが、そんな瞬間こそが、文字通りのブレイクの秘密、人や製品、企業がスターダムに登る瞬間に起きていることの本質なのかもしれない。

考えみたら、当の「kenzeeのaiko論」自体が、CDから配信へ、あるいは8ビートから16ビートへ、みたいな時代環境の移行をテーマにしていたりしていて、まさにaikoのブレイク作である「花火」の話は、実に象徴的なのだ。不本意なデビュー曲。愛するUKロック。「花火」はおそらく当時、かなり意識的に拒絶していた16ビートを、おそらくプロデューサーの意見によって取り入れた。まさに、ガソリンと空気感の絶妙なる混合。結果としてのミリオン・セラー。

なんかこの文章自体が不思議な力で、「ヒットの仕組みの考察」みたいな文章になってしまった。引き合いに出した喩えがエンジンの燃焼サイクルだったわけだが、そこでケースとして例示したaikoという音楽作家をブレイクさせた曲のタイトルが「花火」であったという、これはしかし、我ながら、結果的に、うまいこと言うにもほどがあるなと思ったりもしている。

まぁそんな蛇足は置いといて、最後に、kenzeeさんに言いたいのは、もしかしたら、あなた戦う場所を少し変えたら、ブレイクするんじゃないですかということだ。アイドルとか、ラブソングとか、社会学系の文章を書いている場合じゃない。深い深い造詣と知識に基づく楽曲の分析力をどうして活かさないのか。

我々みたいなアマチュアバンドを批評したら良いと思うのだが、どうだろう。

誰でも作れる時代、誰でも発信できる時代。そこで人が求めるのは、批評家の批評を読む娯楽でなく、批評家に批評される快楽だ。そこには広大なるマーケットがある。どうやったらそれが最終的にお金になるか、そこは後から考えればよい。なぜならそこには、kenzeeさんが「ネイティブ」になれる状況が成立しているような気がする。

スマホが盛り上がったそのとき、ブログサービスをnoteと名付けてネイティブ感を演出した、意図したかせざるかはさて置き、それは構造として参考にし尽くすに足る事例である気がする。そのnoteがこれだけ普及期に入ったいま、何を考えるべきなのか。そこが肝心だ。

そんなことを考えていたら、こんな記事があった。

震災前後の空気感の変化。それは、クラウド以前と以後だったと。なるほどである。そして今般の件が、テレワーク以前と以後をわかつだろう、とのこと。新しい環境が生まれる。それは、次の「ネイティブ」が生じる機会である。

「今の空気感」と、「着火に足るエネルギー」の混合。チャネル、コンテンツ、フォーマット、スタイル、インターフェイス。プロダクトの持つあらゆる審級を考慮しディレクションするという発想、それがプロデュースするという行為の本質なのではないか。

(ようへい)

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