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上がったり下がったり。下がったり上がったり。

調子が悪いと書いたのを読んで、ひさとしメンバーが連絡してくれた。嬉しかったのだけれども、心配かけちまってすまねぇという、少しばかりの申し訳なさも感じたのであった。

実際のところどうなのかというと、書いた通りではあるのだった。「調子の良い自己像」にこだわっていたがゆえに、なかなか調子が上がらなかった。「調子の良い自己像」への執着を手離すことを思い出してみると、不思議なほどに、調子が上向いた。今朝は、妻からも、久し振りに声に張りが戻ったねと言われたものだった。万全には遠いけど、うっすらと出口は見えた感じ。

まあでも、これを信じすぎて油断すると、あんまり良くない。

上がったり下がったり。下がったり上がったり。

そういう自分の身体と付き合うのも、慣れたといえば、まあ、慣れた。まあ、慣れて、忘れたせいで、ちょっと無茶しちゃったんだけど。でも、仕事のうえでの流れがきたら、止めるのも難しい。内なる流れと外なる流れ。このふたつの流れをうまく良い感じにすることができたら、人生の達人となれるのだろう。

外なる流れといえば、昨今の情勢においては、ネットの世界は不安MAX、流れは荒れ放題だ。しかし思うのである、あらゆる不安は執着から生じるのだ、と。仕事が、収入が、健康が、安定が、明るい未来が、失われるかもしれないという、不安。もちろん不安だ。そこには不安しかない。しかし、そこをあえて肯定してみよと、敢えて問う。不安とは、対象なき恐怖なのである。執着してばかりいたって、不安は増すしかないのだし、不安のあるところに幸福はやってこない。

ことの真相は至って単純だ。約束された未来などという概念に、実体も根拠も、どこにもないのだ。そもそも未来などというもの自体がどこにも根拠などない迷妄なのであり、人間にとってのカタストロフが起きたとしても、自然は、宇宙は、びくともしない。何事もなかったように日は昇り、また沈むだろう。いやそれ以前に、人類自体が自然にとってのウィルスみたいな存在なのかもしれないと、誰に否定できようか。

国破れて山河あり。

ただ受け容れる。全てを受け容れる。そこにしか、活路はない。受け容れられないうちはものごとは下がっていく。受け入れた途端に、なぜか上向く。なぜかはよくわからないが、そういうふうに、できている。最終的に辿り着くべき答えは、とっくの昔に誰かが辿り着いている。コロンブスが新大陸を「発見」したように、現在を生きる我々は、それを二重に勘違いするだけなのである。

とまあ、偉そうなことを語ってみたりするが、一昨日の晩は喉の痛みに加えて悪寒めいたものを覚え、さすがにちょっとやばいんじゃないかと思っていた。でも、熱を測ると平熱で、なんだかよくわからない感じだった。一人で布団に包まるのはよくない。悪い方に悪い方に向かう意識。そのなかで、たとえばこれが最悪の事態だったとして、どこまでを受け容れられるかを考えたりもした。

かなりのことは受け容れることができた。しかし、子どもたちの成長と幸福、こればかりは手離すことはいかんともしがたく、難しかった。きっと、おそらく、それすらも、勝手なエゴなのだろう。理屈ではそう考えても、なかなか、当事者の心情というやつは、簡単には割り切れない。これもまた、業というやつだ。

一方でまた、今、そういったあれこれをケロっと忘れて、素晴らしい食材だけで構成された誠に美味なカプレーゼとワインに馥郁たる幸福を覚える私もいる。人生とは実に脈絡を欠いている。それで良いのだ、と、老子は言う。本当に良いのかどうか、まだいまひとつ確信を持てない、修行中の我が身である。

しかしなんだ、体調悪いエントリとかそれ以前に、最近自分が書く文章は、我ながらものすごい豪速球だと思うのだが、こんな調子で好き勝手書き続けていて、良いのだろうか。そこには特に突っ込みも何もないことに、多少の不安を覚えなくもない。

(ようへい)


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