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俳句三昧のグルーヴ

明け方、なんとはなしに目が覚めて、夢見心地の悪さと微妙な頭痛がまだとれない気怠さに自分の心が包まれていることを知り、俳句でも作ろうかと思った。

兼題、「山笑ふ」。

「雪女」のときは、わりと記号操作的に、言語ゲーム的なアプローチでやってみたのだが、なんか違うと思った。いや、なんか違うかどうかはわからないんだけど。できたものは、それなりに自分らしく面白かった気もするんだけど、脳みその中がぎこちなかったなと思った。

じゃあどうするかと言ってもあてもなく。そういえば以前、「蚯蚓鳴く」でやってたなとか、長嶋さんは動詞を含む季語が好きなのかなとか、つらつらそんな思いが去来しながら、歳時記インデックスに掲載されている俳句を眺めていたら、ふと降りてきた。

何が降りたかっていうと、自分なりの「山笑ふ」のイメージ、ビジョンである。初めてバンドメンバー家族合同で軽井沢に遊びに行って、お決まりのBBQやってほろ酔い加減で山小屋演奏会、その後のお父さんだけのぐだぐだ飲みを経て、5時半ぐらいに目が覚めて。二日酔いに霞む頭でせっかくだから散歩に出た、その早朝の空気が澄み切ってみずみずしく、これはこの世の楽園なんじゃないかと息を呑んだ瞬間。

冒頭の写真はいまだに脳裏に焼き付いている。短歌は動画、俳句は写真、という。すでに表現したい写真はあった。

なんだ、あれを表現すればいいんじゃん!

というわけで、準備運動的に出てきた言葉がこちら。

昨夜のBBQ 二日酔い片付けもまた楽しい
残ったカレーを温める 満腹感にさらに足す
初キャンプ 夜が明けて空気の透明感
草、木、水 全てが輝く
子どものはしゃぐ声すらも心地よい

このあたりの言葉を手掛かりに作った句がこちら。

山笑ふ パステルカラーのキャンプ場
早朝の視界もクリア山笑ふ
山笑ふパステルカラーの景色かな
雨上がりクリアな視界山笑ふ
ソロキャンプ 夜明けの空気 山笑ふ
初キャンプ澄み切った空山笑ふ
山笑ふ 薪ストーブのあたたかさ
ストーブに薪を一本山笑ふ
薪焚べて山も笑ふかソロキャンプ

やってみてすぐ気づいたのが、たった17文字で写真そのものを言語化することの困難であった。散文ならまだしも、さすがに情報量が足りなすぎるんでないの、と。

表現したいのはこの写真だが、だったら、写真を見せた方が早い。俳句という形式で表現する意味とは、フォーカスすることだ。切り捨てることではない。切り取り、部分を際立たせることで、逆に全体を表現する。パースペクティブを設定することで、奥行きを与える。そしてこれらをあくまで言葉だけで実現する。言語的に、本質に迫る。季語を含む十七文字という制約により、これらを実現する。ミニマムなものが全体をあらわす、ハイパーホロニックな、融通無礙の世界。

それを受け取った人は、その人なりに鑑賞する。それは、多様な鑑賞であっていいし、あるべきだ。季語という意味データベースを媒介して、作者と鑑賞者が語り合う、という。

そういうふうに考えたら、あの写真や散文は、あくまで「きっかけ」あるいは策源地と言ってもよく、つまりゴールではなくて、獲得目標ではない。そう、むしろやるべきは、情景の描写でなく、情感の再現なのではないか。

寝起きでぼんやりした頭で、少しずつイマジネーションをずらしていく。モチーフが生まれては繋がり、連なっていく。それを言葉に写し取るだけ。なんか、その時間は意識が混沌と揺蕩いつつ、結んではほどけていく感情、寄せては返す感じが気持ちよかった。

投稿したのはこれとは別に、三句。もちろん選ばれたいが、選ばれようが選ばれまいが、ある種のこの三昧的境地に触れることができたこと、それ自体が俳句という行為における最も大切な達成なのかなとも思った。よくよく思い出したら、山ってすごいいま自分の中ではテーマだし、もっともっとイマジネーションの源泉を掘ってみたい気がする。そして、このやり方でいけば、掘って行けそうな気がする。

まあ、そんなんする暇あるんだったら、新曲のラップの案出しをやったらどうなのかと、思わないこともない。

(ようへい)

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