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面白く。もっと面白く。

幼い子どもが、いないいないばあを覚える瞬間は、けっこう感動的だ。

出産直後の無反応、というか、ランダム反応というか、意思疎通が全くできない存在から、曲がりなりにも共通のプロトコルが成立する。

いないいないばあとは、なかなか複雑な計算過程である。

そこにあった存在が見えなくなる。再び現れる。その変化が非連続な事象として発生する、つまり、急に消えたり、現れたりする。驚き、緊張する。精神に平衡をもたらすために、笑う。

これが成立するためには、いくつかの条件が必要だ。

まず、観察する世界、つまり、取り巻く環境と自分自身の区別がついていること。そのうえで、両者の間に写像ができていること。つまり、脳内世界が生まれている、ということ。そのうえで、普通、存在するものは、急に現れたり、消えたりしない、というルールを知っていること。自分の知っているルールを逸脱する現象が発生したら、注意を向けなければならないと知っていること。そのうえで意識的に目の前で起きたことを把握して、危険が去ったと分かったら、それを緩和させるために笑いという反応が有効であること。

初めてのいないいないばあ体験を終えると、その緊張と緩和のプロセス自体が快感をもたらしたことをメタ的に理解し、記憶する。それを再現してほしくて、いないいないばあをして、と、せがむようになる。

そのうちに、慣れが始まり、快感が減衰し、飽きる。

ちなみに我が次女は、いま「自分からいないいないばあを親に仕掛けて遊ぶ」の段階に到達していて、これもまた感動的なジャンプだ。いないいないばあという遊びに飽きるのだが、主客を入れ替えたら、そこには新鮮味があり、楽しい。相当高度な思考の原型が完成している。

この、「既知のルールがあり、逸脱や例外を検知し、働きかけては平衡をとりもどす」というループは大人になってもえんえんと続けている。つきつめたら、人生、この同じ行動の繰り返しなのである。ただ、その中身がどんどん高度化していくのだけれど。一度得た快感は、既知に回収されるとすぐにつまらなくなる。だから、もっと、もっと、と、続けていく。

まぁ、このパパバンド活動なんかはまさにそんな感じだ。面白く。もっと面白く。セカンドアルバムという、「次のいないいないばあ」は、どんな風に育っていけるだろう。

(ようへい)

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