見出し画像

最後のフロンティア

前の二つのポストでも触れていますが、何を見ても、何に触れても感じる「だいたい一緒感」。

同じような感覚を抱く人はいませんか?

目先鼻先は違えど、すでにどこかで見たような感じ。

結局同じ感覚がするわけです。

味は違えど「ごはん」という意味では全部一緒、みたいな。

いろんな味があって楽しいけど、そもそも「食べる」という意味では全部一緒、みたいな。


そもそもこれは、食べることに飽きたのか?

あるいは過度に刺激を受けすぎて不感症になるみたいな?

なにしろ今の世の中情報量が多い。

あらゆる情報に瞬時にアクセスできる。

見たいものを見たい時に見たいだけ見れるし、見るつもりがなかったものまで割り込んでくる。

なにしろ情報過多。

これだけ浴びていると、飽きるというか感じなくなるというか、そういうことが起こっても不思議ではない。


みなさんはどうでしょう。

いろんな情報を毎日浴びていて、辟易じゃないけど、飽和感みたいなものはありませんか?

いくら面白くても、いくら楽しくても、毎日やってるとさすがに「もういいや」と思っちゃうみたいな。

とりあえずこの感覚を「飽きた」と命名することにしましょう。


で、飽きたら次にやることは何でしょうか。

まずやめますね、それを。

見たり聞いたり何かするのをやめます。

やめるとどうなるでしょう。

ヒマですね。

ヒマだと言っても、何かをするのは面白くない。

なのでとりあえずヒマをやります。

「ヒマ」そのものをやります。

なにしろこれしかやることがないので。(笑)

ヒマをやるってどういうことでしょうか。

つまり何もしないということですね。

ヒマの感覚を味わってみる、とでも言いましょうか。


で、それが面白いわけです、何気に。(笑)


「何か」にはもう飽きました、いい加減。

「何か」の感覚は、もうだいたいわかりました。

「何か」が何であろうと、それはつまり「何か」です。

全てに「何か」という共通項があります。

つまり、最終的な部分では全部一緒なわけです。

感動であったり、おもしろ話であったり、なるほどとうなずくことであったり、そうきたかと意表をつくことであったり、いろんな衣をまといますが、それらに共通する「何か感」は全部一緒です。

「何か」なわけです、それらは結局。全部。

「めちゃくちゃ大雑把なくくりやんけ」と思うかもしれませんが、事実それはそうです。

大雑把ではあっても、共通項は共通項です。


いや、面白いですよ、実際。

面白いものは面白いし、すごいものはすごいし、楽しいものは楽しいです。それは間違いありません。

それらは素直に素敵な出来事ですし、これからも享受するでしょうし、いや毎日やってますよ、実際。

しかし、それと「一緒感」は、また別の話です。

それらが面白いものであることは間違いありませんが、同時に既視感があることも否めません。

そこに通底する「一緒感」は、どうにも払拭できないのです。


じゃあ「何か」じゃないものは何なのかと言ったら、それは「何でもない」です。

つまり、何もしない、ということです。

「無の境地」とかいいますが、それに近いかもしれません。

むしろ意図的に、何もしません。

何もないって、意外と面白いです。

最後のフロンティアかもしれません。(笑)

あれも飽きた、これも飽きた、それも飽きた。じゃあ何をやる?

最後に残された秘境は、「何もない」です。


それは「何か」とはまるっきり別次元です。

なにしろ何もないので。(笑)

何もないって空しいって思うかもしれませんが、その「空しいって思うこと」がすでに何かです。

何もなければ、空しいとすら思うことはありません。

なにしろ何もないので。(笑)

逆にどうですか?興味出てきませんか?「何もない」ということに。

今までの発想の裏をかく、180°逆のフロンティア。

これは非常に興味深いものがあります。

ぜひとも探査の必要があります。(笑)



今回の記事は、まるっきり面白くもないし、意味も分かんないし、なんなら若干不愉快という意見もあるかもしれません。

その気持ちわかります。(笑)

でも、書きたかったから書きました。

前回自分で書いた記事を実地でいく感じです。(笑)


ちゃんと「書きたかった感」が出ていれば幸いです。

それがこの文章の最大のエッセンスなので、内容は忘れてもらって構わないです。(笑)


書きたいことを書く、思ったことを言う、撮りたいものを撮る。

ヘタでも何でもいいから、本当のことを言う。

いいねのためでなく、お金のためでもない。

自分が自分であるために表現するんだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?