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幸せになる勇気〜自己啓発の源流「アドラー」の教え【要約】

本書は、2013年に刊行された『嫌われる勇気』の続編です。
「人間にとっての幸福とは何か?」
前回以上に熱を帯びた対話は、教育論、組織論、社会論、そして人生論へと及び、最終的には「愛」と「自立」という大きなテーマへと至ります。
自らの心理学についてアドラーは、「人間を理解するのは容易ではない。個人心理学は、おそらく全ての心理学の中で、学び実践することが最も困難である」と語っています。

いますぐ「幸せになる勇気」を持つ
その前に、「嫌われる勇気」を学ぶ

・アドラーを捨てるか否か

3年前、哲人との対話を終えた青年は、あの日を境にアドラーの思想に感化され、大きな一歩を踏み出しました。
青年は理想に燃え、次代をつくる子供達にアドラーの思想を届けることこそ自らの使命なのだと意気込んでいました。
しかし、アドラーの思想、特に「褒めてはいけない、叱ってもいけない」という教育方針を実践した結果、アドラーの思想は現実社会では何の役にも立たない、机上の空論でしかないのだとその思想に、そして哲人に対して失望してしまいます。

たしかにアドラーの思想は素晴らしい。価値観を揺さぶられ、曇っていた空が開け、人生が変わったような気にさせられる。非の打ち所がない、世界の真理にさえ思える。
しかし、とても実用に耐えうる議論ではなく、空虚な理想論でしかなかった……

・人々はアドラーの思想を誤解している

『アドラー心理学ほど、誤解が容易で、理解が難しい思想はない。』
『もしもアドラーの思想に触れ、即座に感激し、「生きることが楽になった」と言っている人がいれば、その人はアドラーを大きく誤解している。』
と哲人は言います。
『アドラーがわれわれに要求することの内実を理解すれば、その厳しさに身を震わせることになるはずですから』と。

アドラーの思想を理解するに至る階段は、一言で言うなら「愛」です。

幸福とは、その場に留まっていて享受できるものではありません。
踏み出した道を歩み続けなければならない。

・教育の目標は自立である

アドラー心理学には、「課題の分離」と言う考え方があります。「自分の課題」と「他者の課題」を切り分けて考える考え方です。その課題が誰の課題なのか見分ける方法は、「その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰なのか」を考えることです。

教育者達とアドラーについて語り合う時、時折出てくる質問があります。

勉強は子供の課題であり、親や教師は子供の課題に介入してはならない。
アドラーの語る「課題の分離」を一面的に捉えると、あらゆる教育は他者への介入になり、否定される行為になってしまうのではないか?

教育が目標とするところ、それは「自立」です。
アドラー心理学では、人はみな、無力な状態から脱し、より向上していきたいと言う欲求、つまり「優越性の追求」を抱えて生きる存在だと考えます。
人はみな、「自由」を求め、無力で不自由な状態からの「自立」を求めている。子供達が社会的に「自立」するには、様々なことを知る必要があります。無論、知らないことは周囲にいるそれを知るものが教えなければならない。教育とは、「介入」ではなく、自立に向けた「援助」なのです。

教育、指導、援助が「自立」と言う目標を掲げる時、その入り口はどこにあるのか。それは、「尊敬」それ以外にはあり得ません。

親を尊敬しろ、教師を尊敬しろ、上司を尊敬しろ。
そう言うことではありません。
学校の場合、まず「あなた」が子どもたちに対して尊敬の念を持つ。全てはここから始まります。
これは、親子であれ、会社組織であれ、どのような対人関係でも同じです。役割として「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。尊敬なきところに良好な人間関係は生まれず、良好な関係なくして言葉を届けることはできません。

相手の尊厳を守りつつ、関心を寄せていく。その具体的な第一歩は、「他者に関心を寄せる」ことです。

例えば子どもたちが、あなたには到底理解しかねる遊びに興じている。いかにも子ども向けの、愚昧な玩具に夢中になっている。
多くの親や教師たちは、これに眉をひそめ、もっと「役に立つもの」や「価値のあるもの」を与えようとします。しかし、それはいっさいの「尊敬」を欠いた、子どもとの距離を遠ざけるだけの行為です。
あなたの目から見て、どんなに低俗な遊びであろうと、まずはそれがどんなものなのか理解しようとする。自分もやってみて場合によっては共に遊ぶ。その時初めて、子ども達は自分が認められていること、子ども扱いされていないこと、ひとりの人間として「尊敬」されていることを実感するでしょう。

われわれに必要なのは、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」であるとアドラーは言っています。

・悪いあの人、かわいそうなわたし

いかなる人間も、順風満帆な人生を歩むわけではないでしょう。誰にだって、悲しい出来事もあれば挫折もある。それでは、どうして過去に起きた悲劇を「教訓」や「思い出」として語る人もいれば、いまだにその出来事に縛られ、不可侵のトラウマとしている人がいるのか?
これは、過去に縛られているのではなく、その不幸に彩られた過去を、自らが必要としているのです。

カウンセリングで使用する三角柱があります。この三角柱は、われわれの心を表しています。あなたの座っている位置からは、三つある側面のうち二面だけが見えます。そこには何が書かれているか?一面には「悪いあの人」、もう一面には「かわいそうなわたし」と書かれています。
カウンセリングにやってくる方々は、ほとんどがこのいずれかの話に終始します。自分に降りかかった不幸を涙ながらに訴える。あるいは、自分を責める他者、また自分を取り巻く社会への憎悪を語る。
カウンセリングだけではなく、家族や友人と語らうとき、相談事を持ちかけるとき、自分が今何を話しているのかを視覚化すると、結局この二つしか語っていないことがよくわかります。

でも、われわれが語り合うべきことは、ここにはないのです。
あなたがどんなに「悪いあの人」について同意を求め、「かわいそうなわたし」を訴えようと、そしてそれを聞いてくれる人がいようと、いっときの慰めにはなり得ても、本質の解決にはつながらない。

では、どうするのか?
三角柱の、今隠れているもう一面、ここには何と書いてあるのか?

「これからどうするか」

われわれが語り合うべきは、この一点、「これからどうするか」のみです。
「悪いあの人」も「かわいそうなわたし」も必要ない。

「悪いあの人」の話を聞き、「かわいそうなわたし」の話を聞き、「それは辛かったね」とか「あなたは何も悪くない」と同調しても、それで明日からの毎日がどう変わるのか?また傷ついたら癒しを求めたくなるのではないか?結局それは「依存」ではないのか?

だからこそ、アドラー心理学では、
「これからどうするか」を語り合うのです。

・問題行動の真の目的

子どもが何か良くないことをした。危険なこと、他者に危害を加えるようなこと、あるいは犯罪に近いようなことをしてしまった。いったいなぜ、そんなことをしたのか?このとき一つ考えられるのは、「それがよくないことだと知らなかった」という可能性です。

だとしたら、大人たちのやるべきことは一つです。知らないのであれば教える。そして教えるにあたって、叱責の言葉はいらない。その人は悪事を働いているのではなく、ただ知らなかったのですから。われわれ大人たちに必要なのは叱責ではなく、教えることです。感情的になるのではなく、大きな声を出すのでもなく、理性の言葉で。

確かに、それがよくないことだと知りながら問題行動に出る子どもは大勢いますし、問題行動の大半はそうでしょう。しかし、なぜ彼らはそれが「よくないこと」だと知っているだけでなく、それをすれば親や教師から叱られると分かった上で、問題行動に出るのか。あまりにも非合理的な話です。

問題行動の「目的」はどこにあるのか

現代アドラー心理学では、人間の問題行動について、その背後に働く心理を5つの段階に分けて考えます。「問題行動の5段階」を理解してしまえば、叱ることの是非についての答えが見えてきます。

第一段階「賞賛の欲求」

親や教師、またはその他の人々に向けて、「いい子」を演じる。
確かに、個別の行為として考えた場合、彼らは何の問題もない「いい子」や「優等生」に映ります。
しかし、ここには大きな落とし穴があります。彼らの目的はあくまでも「褒められること」であり、さらに言えば「共同体の中で特権的な地位を得ること」なのです。もしも、その取り組みについて、親や教師、上司や仕事相手がいっさい褒めなかったとしたら、どうなるでしょうか?不満を抱き、場合によっては憤慨するでしょう。
彼らは「いいこと」をしているのではありません。ただ、「褒められること」をしているだけなのです。彼らは「褒めてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」し、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」と言うライフスタイルを身につけていきます。

第二段階「注目喚起」

せっかく「いいこと」をしたのに、褒められない。特権的な地位を築くまでに至らない。あるいはそもそも、「褒められること」をやり遂げるだけの勇気や根気が足りない。そう言うとき、人は「褒められなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考えます。
その目的は、特権的な地位を得たい。自らが属する共同体の中に、確固たる「居場所」が欲しい、ということです。存在を無視されるぐらいなら、叱られた方がいい。たとえ叱られるという形であったとしても、存在を認め、特別な地位においてほしい。それが彼らの願いです。

第2段階までの子どもたちは、シンプルな原則に従って生きているし、対処もそれほど困難ではありません。「尊敬」によって、特別である必要はない、そのままで十分価値があるのだと伝えていけばいいだけだからです。

第三段階「権力争い」

誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む。その戦いに勝利することによって、自らの「力」を誇示しようとする。特権的な地位を得ようとする。かなり手強い段階です。
戦いを挑む、とは一言で言うなら「反抗」です。
親や教師を、口汚い言葉で罵ったり、平然とルールを破ったりします。

多くの親や教師たちは、この段階で怒りのラケットを手に取り、叱責というボールを打ち返します。しかしそれは、挑発に乗り「相手と同じコートに立つこと」でしかありません。彼らは嬉々として反抗のボールを打ち返してくるでしょう。

ではどうするのか、すぐさま彼らのコートから退場する。まずやるべきなのはそれだけです。

第四段階「復讐

意を決して権力争いを挑んだのに、歯が立たない。勝利を収めることができず、特権的な地位を得ることもできない。相手にされず、敗北に喫してしまう。そうして戦いに敗れた人は、一旦引き下がった後に「復讐」を画策します。

賞賛の欲求、注目喚起、そして権力争い。これらは全て「もっとわたしを尊重してほしい」という愛を乞う気持ちの表れです。ですが、そうした愛の欲求がかなわないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになるのです。
愛してくれないことは、もう分かった。だったらいっそ憎んでくれ。憎悪という感情の中で、わたしに注目してくれ。そう考えるようになります。

この「復讐」の段階に入ってしまうと、利害関係のない、全くの第三者に助けを求めるしかありません。

第五段階「無能の証明」

わたしに期待しないでくれ、なぜならわたしは「無能」なのだから。
人生に絶望し、自分のことを心底嫌いになり、自分には何も解決できないと信じ込むようになる。「できるかもしれない」と課題に取り組んで失敗するくらいなら、最初から「できるはずがない」と諦めた方が楽なのです。

無能の証明を始めてしまった子どもたちを援助していくことは専門家にとってもかなり困難な道です。

これらの問題行動に対して、もしも「叱る」ということが教育上有効であるのなら、どうして「いつも」叱らないといけないのか。それは、「叱る」という手段が教育上何ら有効ではないことの動かぬ証です。彼らの問題行動は、「叱られること」も含んだ上での問題行動なのです。

私たちは、子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助する。そしていつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で見守るのです。そうすることによって「自分の人生は自分で選ぶことができる」という事実を子どもたちは学んでくれるでしょう。

・「褒めて伸ばす」を否定する

「褒めることは”能力のある人が能力のない人に下す評価”であり、その目的は”操作”である。故に褒めてはならない。

なぜ教育現場で「褒めてはいけない」という原則を貫くのか。褒めたら喜び、伸びる子どもたちがいるのに、どうして褒めてはいけないのか。褒めることによって、どんな危険を冒しているのか。

ルールを破れば厳しく罰せられ、ルールに従えば褒められる。人々はただ、「褒められること」や「叱られないこと」を目的としてルールに従っています。「褒められること」を目的として人々が集まると、その共同体には「競争」が生まれ、共同体は褒賞を目指した競争原理に支配されていきます。

強さや順位を競い合う競争原理は、自ずと「縦の関係」に行き着きます。一方、アドラー心理学の提唱する「横の関係」を貫くのは、協力原理です。全ての人は対等であり、他者と協力することにこそ共同体を作る意味がある。

人間は、その弱さゆえに共同体を作り、協力関係の中に生きています。協力したかったのではありません。単独では生きていけないほど、弱かったのです。人間の抱える根源的な欲求は、「所属感」だとアドラー心理学では考えられています。どうすれば「所属感」を得られるのか、それは共同体の中で、特別な地位を得ることです。かけがえのない「このわたし」が、「その他大勢」であってはならない。「ここにいてもいいんだ」という所属感に揺らぎがあってはならないのです。

しかし、その承認欲求を満たすことでは本当の「価値」を実感できません。
承認には終わりがないのです。褒められることでしか幸せを実感できない人は、「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることの無い生を送ることになるのです。

「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。幸福な生がどちらの先にあるか、答えは明らかでしょう。

・全ての喜びもまた、対人関係の喜びである

アドラーの語る「全ての悩みは、対人関係の悩みである」という言葉の背後には、「全ての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されています。

「信用」とは相手のことを条件付きで信じること。それに対して「信頼」とは、他者を信じるにあたって、いっさいの条件を付けないこと。さらには、「その人を信じる自分」を信じるということである。自己信頼あっての他者信頼なのです。

「仕事」と「交友」はの違いは「信用なのか、信頼なのか」の違いである。
「仕事」とは「信用」の関係であり、「交友」とは「信頼」の関係なのです。自然界における人間は、鋭い牙も、大空を飛ぶ翼も、頑丈な甲羅も持たない、いわば身体的劣等生を抱えた存在です。だからこそ我々は、集団生活を選び、外敵から身を守ってきました。我々人間は、集団生活によって「分業」という画期的な働き方を手に入れました。

要するに、人間はひとりでは生きていけないのです。他者と「分業」するためには、その人のことを信じなければならない。信用しない、という選択肢はあり得ないのです。

分業社会において、「利己」を極めると、結果として「利他」に繋がっていく。利己心を追求した先に、「他者貢献」があるのです。
分業という観点に立って考えるなら、職業に貴賎はない。全ての仕事は「共同体の誰かがやらねばならないこと」であり、我々はそれを分担しているだけである。人間の価値は、「どんな仕事に従事するか」によって決まるのではなく、その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まるのです。

「ありのままのその人を尊重する」という尊敬の定義の根底に流れるのは「信用」か「信頼」か。自らの価値観を押し付けることなく、その人が「その人」であることを尊重することができるのは、その人のことを無条件で受け入れ、信じているからです。すなわち、信頼しているからなのです。

聖書に出てくる「汝の隣人を愛せよ」という言葉は、新約聖書の「ルカによる福音書」の中では、「汝の隣人を、汝自らの如くに愛せよ」と語られています。自分を愛することができなければ、他者を愛することもできないし、自分を信じることができなければ、他者を信じることもできないのです。

仕事を通じて所属感を得ようとするとき、仕事で成果を出すことによって、自らの価値を実証しようとします。しかし、仕事によって認められるのはあなたの「機能」であって「あなた」ではない。本当の所属感を得るためには、他者に「信頼」を寄せて、交友の関係に踏み出すしかありません。
我々は、仕事に身を捧げるだけでは幸福を得られないのです。

・自立とは「わたし」からの脱却である。

自立とは、「自己中心性からの脱却」です。
自己中心性から脱却できたとき、ようやく我々は自立を果たし、「愛」は「わたし」だった人生の主語を「わたしたち」に変えます。たった二人から始まった「わたしたち」はやがて共同体全体にその範囲を広げていく。それが「共同体感覚」です。

自立とは、経済上の問題でも、就労場の問題でもありません。人生への態度、ライフスタイルの問題です。

愛の関係に待ち受けるのは、楽しいことばかりではありません。引き受けなければならない責任は大きく、辛いこと、予期し得ぬ苦難もあるでしょう。それでもなお、愛することができるか。
愛とは信念の行為であり、僅かな信念しか持っていない人は、僅かにしか愛することができない。

「楽をしたい」「楽になりたい」で生きている人は、束の間の快楽を得ることはあっても、本当の幸せを掴むことはできません。我々は他者を愛することによってのみ、自己中心性から開放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成し得ます。そして他者を愛することによってのみ共同体感覚にたどり着くのです。

ある人から「人間が変わるのにタイムリミットはあるか?」と聞かれたアドラーは、「確かにタイムリミットはある」と答えました。
そしてこう付け加えます。「寿命を迎える、その前日までだ。」と。

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