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ヨコハマ哀歌

田村 明は、彼の著作「都市ヨコハマものがたり」 に、当時のヨコハマをこう綴っている。

横浜という街の印象は私にとって決してよくはなかった。終戦直後、戦時中日本に戻っていたがアメリカに帰ることになった親戚を横浜の港で送ったことがあある。街は至るところ米軍に占領されており、戦車や装甲車、トラックや、カマボコ型のプレハブ兵舎であふれている。山下公園にもフェンスが張り巡らされて、日本人は立ち入り禁止(上級将校と家族のための住宅だった:筆写注)。港もほとんどが占領され、囲われたフェンスの隙間を、やっと潜り抜けるようにして大桟橋へ出て見送ったことを思い出す。
        
         〈中略〉

昭和三〇年ごろになると、やっと都心のおもな土地は返還されていた。私はこの頃にも、大阪から社用で土地買収の交渉に来たことがある。確かに、米軍の姿も少なくなっていた。戦車も装甲車もない。ただし、そこにあるのは、米軍の撤去したあとの、茫漠とした締まりのない裸の土地だった。一部には鉄条網がひしゃげ、火事場の跡か、どこかの新開地のような光景が展開していた。まだ草も生えないむき出しの地面が現れて、向こうでは、集まって焚き火をしている人々もいる。

昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約の頃に作成された「横浜市緊急復興建設第一次計画書」に以下のような一文がある。

進駐軍が宅地、道路の区別なく掻き均して兵舎、自動車等の置き場として利用した後に於いては、宅地の境界が分明でない為、土地所有者借地権者等に於いて当然紛争が予想される。

同じく横浜市が作成した「要望書関係調書第二輯」には

ホテル・ニューグランドの如く異色ある観光ホテルを擁して外人客を吸収する一方、関内の弁天通りを中心に約百三十店に達する観光土産品店が軒を並べ、美術工芸品をはじめ多種多様の商品を扱って一か月の売上高約拾万弗と推定されていた。戦後これらの地域のほとんど全部が接収されているので、わずか二十店足らずの店舗が弁天通りの一隅に余喘を保っているほか若干が他の地域に分散し大部分が転廃業を余儀なくされている。加うるに一流ホテルの接収によりバイヤー、観光客の宿泊施設もなく、多くは購買力を捕捉しえずに取り逃がしている。

と。

港湾機能や大手企業による重工業の早期復興は、占領軍にとってもメリットがあることだったから、空襲でボウズになった「港」周辺の復旧は早かった。地先の埋め立て地に工場をつくっては、操業を再開する、それも案外早かった。工場を経営する大企業には資金力があったし、政府の支援もあった。

だけど、同じ更地でも境界が破壊された小規模な工場や商店の復旧は遅れた。まるで、現状の奥能登のように。主だった観光の名所も長く米軍に接収されたままだった。

下は、昭和33(1958)年、長嶋茂雄選手がプロ野球にデューした年。竣工間近の横浜市役所の旧庁舎を空からとらえた写真である。

(ちなみに、僕は昭和36年の生まれだ)

ご覧のように周囲は米軍施設があるだけで一面「焼け野原」といった風情である。現在の横浜公園、スタジアムのあたりには、体育館のような施設が見える。当時、この状況を揶揄して「関内牧場」と言ったようだが、状況は田村が描写したようにもっと荒んでいたようだ。

昭和33年といえば、この年の2月、日劇(東京・有楽町)でウェスタン・カーニバルが開催され、ロカビリーが大流行していた。この国も、若者文化が隆盛になるゆとりを取り戻していた。5月にはテレビの受信契約数が100万台を超える。テレビ、冷蔵庫、洗濯機を「三種の神器」とした高度成長期はとっくに始まっていた。

でもヨコハマは…

さすがに昭和36(1961)年生まれの僕の記憶に登場する「空間としてのヨコハマ都心」に戦災を感じさせるものはなかった。でも、子どもが体感する空間からは、うかがい知ることができないところで、ヨコハマの地場産業の復興は遅れていた。

消費者にしてみれば、電化製品などの生活利便品は、大手企業の供給網が充足してくれる。だから不自由はない。でも、先ほど述べたように、占領軍が土地境界すらかき消して返還した土地に、そのまま営業を続けられる商店や町工場はほとんどなく、営業を続ける体力があったとしても他の土地へ引っ越していった。

商業にせよ、貿易にせよ、工業にしても、大手企業に市場を奪われ、「系列店」として吸収されながら、ヨコハマの地域経済は、このあたりから戦後一貫して「自立性」を失っていく。つまり、ヨコハマは、大手企業のための消費力を提供し、公共事業の原資となる、それなりの金額の税収を提供する、そのための「まち」になっていく。

現在、横浜を指して「国内植民地」ということもある。その所以である。

文化的にも自律性を失っていく。

観光名所であり、映画やドラマの背景となる戦後のヨコハマも、実は、そのほとんどが「東京製」だ。建物のデザインも映画やドラマもヨコハマという地域力では創ることができない。いわば他人の褌で相撲をとる状況が続く。
「占領」が、この「まち」「まちの人々」の質的な成熟を阻み、その間に東京は「ヨコハマ・イメージ」を捏造しては、道具として使い捨てた。

(情報弱者だった「現地人」もヨコハマ・イメージを真に受けてきた。自分で創った記憶もないのに)

1970年代末、「ハマトラ」の略称で全国的なブームになった「横浜トラディショナル」というファッション・スタイル。発信源はヨコハマの元町といわれるが、実際は「雑誌 JJ (ジェイジェイ)」が企画し仕掛けたものだった。確かに「フクゾー」「ミハマ」「キタムラ」は元町のブランドだが、これらのブランドをものがたりにまとめ、コーディネートし「フェリス女学院大学の学生のコーディネートを参考にした」というプレミアをつけたのも、彼らだった。

そうやって、石原裕次郎の頃の日活映画以前から、小説・映画の中にいくつものヨコハマ・イメージが描かれ、人々の心の中に増殖していく。やがて、中華街に寿司屋があってはおかしいというように、「フィクションとしてのヨコハマ」が、現実を追い越してヨコハマのリアルにとって代わる。

そうした流れを冷静に利用できれば良かったのかもしれないが、他人の褌で相撲をとっていることに無自覚であったから、自らの情報戦略の未熟さについても無自覚だった。

(ヨコハマにも広告代理店はある。でも、広告代理店とはいえ、ヨコハマ地域のそれには「クリエイティブ」に当たるセクションが未発達だ。営業部隊しかいない。だから、できることは、先行事例をパクって組み合わせて、新企画として、役所や地域企業に持ち込むだけ。だから、電通や博報堂製の情報に慣れている一般的な消費者を振り向かせることができない)

今となってはつくづく情けないが、ずいぶん長く、僕はこういう構造に気づくことができなかった。ヨコハマにはクリエイティブな仕事がなく、クライアントや代理店の担当者の指示に沿ってチラシを創るための版下作成要員の仕事しかない。ヨコハマには中嶋らもさんに「啓蒙かまぼこ新聞」をつくらせてくれるような、広告代理店もクライアントも不在だった。

僕自身、東京が描いたヨコハマ・イメージに呑まれてしまっていた。人口ばかりが同じ規模になっても、ヨコハマには大阪のような自律力がなかったのだ。

(電通や博報堂による事業も、ヨコハマで実施されるものは「昔の名前で出ています」的なものがほとんど。芸人さんの活動になぞらえれば、いわゆる「営業」のような位置付けによるものだったからなんだろう)

国内植民地

「多数派によって支配されている先住民や少数民族の住む地域を植民地に例えたもの」を「国内植民地」というのだそうだ。明治時代以降のアイヌのみなさんや、戊辰戦争に勝利した薩摩・長州が「東北の山は一山百文の値打ちしかない」という意味で「白河以北一山百問」と揶揄した東北地方についてを「国内植民地」ということもある。

あれと同じだ。そう思う。

通常、横浜市にそうした見方があてはめられることはないが、横浜市長が公選制になってからも、横浜市内で生まれ、思春期までを市内で過ごした経験を持つ市長は飛鳥田一雄と中田宏しかおらず、中田の直前の市長も、政府の事務次官(当時)経験者を二代続けて市長に迎えていた。

東京から横浜市長という「総督」を迎え、それぞれに利権を抑える植民地の地元利権王たち、すなわち世襲の地域企業のオーナーたち、彼らの企業と、横浜市役所の幹部職員、横浜市議などがクローズドの「横浜村」という利益集団をつくって植民地行政を行う。それが、表層はエキゾチックで風通しが良さそうなヨコハマの実像だ。

都心には近代建築が豊富に残るといわれているが、それも為政者たちの痕跡だ。庶民文化が反映されたものではなく、つまり日本のコロニアル様式といえるもの。僕らがこういうもので横浜の歴史を語ったら、お人よしにも程があるというところだ。

そもそも「開港」だって、このまちの意思ではない。江戸幕府と御用商人の思惑に拠るものだ。その上で、明治に入れば、この国の貿易額の90%を占めたこともあるという「金のなる木=横浜港」は、その金で、各地から大量の労働者と、一旗あげてやろうとする投機的な起業家を集めた。

誰もが故郷としての愛着を持たない「まち」なのかもしれない。
ヨコハマはあくまでもビジネスの舞台か、食っていくための労働を提供してくれる「まち」に過ぎない。

「欲」が力点で「伝統」がない「まち」は、権力欲のある実力者に狙われやすい。そういう意味でも、ヨコハマは植民地的だ。

その体質に大きな変化がないから、ヨコハマは菅元首相の帝国、市長は彼の木偶だ。

今も横浜市政は自律性を欠き、「国内植民地」の状態にあると思っている。横浜市民は市民という名の「領民」なんだと。

「返還された」とされる「沖縄」と似ている。