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アメリカという大自然

アメリカの自然はデカい。スケールが違う。
ジョン・フォード監督の映画に出てくるような砂漠であったり、ヨセミテ国立公園のような渓谷であったり、つまり人間の命など豆粒ほどの大自然だ。だから、21世紀になっても、子どもをさらう巨大鳥サンダーバードが、どこかにいると信じる人も少なくない。

(「ツチノコ」のスケールとは大違いだ)

作家ヘンリー・ソローの著作「ウォールデン 森の生活」。この作品は彼が友人の所有する「森」に小屋を建て、ひとり暮らした、その生活を描写し、彼による生活実験やスピリチアルを語ったものだ。彼は、当時のアメリカでさえ「過度な文明化」と考えていた。第一次世界大戦後の「欲望と消費」な「ジャズ・エイジ」の考え方とは、真逆のベクトルを描こうとした。19世紀の作品だけれど、今も多くのファンを獲得している。

当たり前だけど、文明を拒絶し、状況が「孤独」なんだから、「ウォールデン 森の生活」には、人との交流の場面は無いに等しい。植物や池の魚たちとの交流が主な物語だけれど、彼は、こういう生活を「アメリカ型の家政学」といい、過飾な贅沢をすべて取りのぞき、極端に縮小された状況で平凡でミニマルな生活を送ることが崩壊へと向かいつつ「アメリカン・ライフ」への処方箋だと考えていたらしい。

「アメリカン・ルネサンス文学の象徴」として、やはり19世紀の作品にナサニエル・ホーソーンの「緋文字」がある。何が「ルネサンス」かというと、ヨーロッパからの移民の文学が、この時期、親離れして、アメリカの文学として自立することができたから、と。

「緋文字」は、17世紀初頭、ピューリタンたちがアメリカにやってきて間もないボストンが舞台に、教会を中心にした街と、街を取り囲む「森」との「二つの世界」が描かれる。
ある牧師が、人妻との恋に落ち、ふたりの間に娘を授かるが、立場上、人妻を追放する儀式を主宰する牧師という立場になる。人妻は沈黙をまもる。人妻は、胸に姦通を意味する「A」という緋色の文字を胸に刻まれ、娘と二人、町外れに暮らす。牧師との関係は断ち切れず、ふたりは「森」での密会を繰り返す。「森」はキリスト教が及ばない場所として描かれる。

たぶん、すでに欧州には「飼い慣らされた自然」しかなかったのだろう。畏れを抱くほどの自然がなかった。でも新大陸アメリカにはボストンの周囲にさえ、人によっては制御不能の大自然があった。

だから大自然を描くことがヨーロッパからの自立を促したのではないか。
僕はそんなふうに思っている。
もちろん、これだけが理由ではないだろう。でも、まだヨーロッパとアメリカに距離があり、アメリカ国内の移動でさえ限定的だった時代に、アメリカの大自然と人間を描くことだけでも、アメリカ文学の独自性の確立、つまり「親離れ」が可能になったのではないか。

ずっと時代は下って1957年に出版された
ジャック・ケルアックの小説「オン・ザ・ロード」。
この作品は、広大な、そして荒涼としたアメリカ大陸を東から西へと、けれど、あてがあるわけではない旅する、語り手であるサル・パラダイスと、彼の友人であるディーン・モリアーティの物語。映画でいえば「ロード・ムービー」だ。ビート・ゼネレーション、ヒッピー・ムーブメントを象徴し、牽引した作品だとも。

僕は、この作品も、アメリカに「広大で、荒涼とした自然」がなければ成り立たなかったと思っている。「ロード・ムービー」なんだから、人との出会いはあるが、主人公は、どこかでソローが目指した「過飾な贅沢をすべて取りのぞき、極端に縮小された状況で平凡でミニマルな生活」を探しているようでもある。少なくとも「消費と欲望」な都市生活と距離をおこうとしている。

アメリカという荒野
アメリカという都市
このツートーンな状況に右往左往するアメリカの人々

西ドイツ(当時)の映画「バグダッド・カフェ」(1987年)。

この作品は、アメリカの砂漠地帯にあるダイナー&モーテル兼ガソリンスタンドである「バグダッド・カフェ」に集う人々と、そこに現れた旅行者=ドイツ人女性の交流を描いたもの。
ファンタジックに描かれているが、この作品も、背景が「アメリカの砂漠地帯」でなければ成り立たないだろう。ドイツにも「シュヴァルツヴァルト」はあるが「荒野」はない。「黒い(暗い)森」=「シュヴァルツヴァルト」はあっても、共生可能な森だ。

旅 旅人

旅といっても、アメリカ大陸を旅するのは、現在の日本人がイメージする旅とは異質なものなのだろう。日本人の旅は土産を買って元いた場所に帰ってくる旅だが、アメリカの場合、別れを惜しむ際には、実際に今生の別離になる可能性も高い。

そんな感じの旅。

移動距離も端的にいってメジャー・リーグと日本のプロ野球ほどの違いがある。タフさが違う。

こういう感じも、アメリカの広さと、荒野、大自然があったればこそだ。

あんなに消費文化で金融工学な都市と、まだまだ人を拒み続ける大自然と。

中国も似たような状況はあるのかもしれないけれど、中国には、まだ「バグダッド・カフェ」も、ヘンリー・ソローの「小屋」もなさそうだ。ゴビ砂漠でロード・ムービーが組めるかなとも思う。クルマで行っても命懸けになりそうだし。

それとも、やっぱり「体制」の違いかな。

中国だとどこまで行っても監視されてそうだしね。

物語を生むような大自然と人との関係はアメリカにしかないのかな。
荒野と都市とルート66のロードサイドみたいな空間と。

いずれにしても、どこかに「バグダッド・カフェ」がありそうなのはアメリカだけな気がする。