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どう咲きゃいいのさ この私

いまや、宇多田ヒカルさんのお母さんとしての方が知名度があるかもしれない藤圭子さん歌唱による楽曲「圭子の夢は夜ひらく」。1970年の大ヒット曲だ。

赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく

十五 十六 十七と
私の人生 暗かった
過去はどんなに 暗くとも
夢は夜ひらく

藤圭子さんは1951年生まれの方だから、当時は、アイドルな年齢。それで、この楽曲を唱っているわけです。しかも、わざわざ題名に「圭子の」と銘打たれてるくらいですから、自伝的な歌であるかのようなイメージづけもなされている。

上記したのは、1番と2番の歌詞(作詞は「石川まさを」さんです)。三番以降は

昨日マー坊 今日トミー/明日はジョージか ケン坊か/恋ははかなく 過ぎて行き/夢は夜ひらく/前を見るよな 柄じゃない/うしろ向くよな 柄じゃない/よそ見してたら 泣きを見た/夢は夜ひらく/一から十まで 馬鹿でした/馬鹿にゃ未練は ないけれど/忘れられない 奴ばかり/夢は夜ひらく/夢は夜ひらく 

と続く。

1970年5月からオリコン・チャート10週連続1位。藤圭子さんは、この楽曲で紅白初出場。第1回日本歌謡大賞を受賞されている。ファーストアルバムは20週連続1位。セカンドも17週連続1位。お嬢さんの宇多田さんに負けず劣らずで、当時、彼女に対する注目度は、ある種の社会現象に近い状況だったといわれている。

(当時、僕は9歳。微妙に憶えているような憶えていないような…)

特に歌謡曲(いまどきはJ-POP)は、そのときの時代の気分っていうんだろうか、市井の人々の感情にマッチしなければヒットしないと思うし、だからこそ、よくいわれるように「時代を映す鏡」なんだと思う。この楽曲がヒットした1970年は、ご承知のように大阪で日本万国博覧会が開催された年。ある意味、日本中がハイになっていた時期。確かに学生運動は、夢破れて山河ありな感じだったとは思うけれど、その一方で「an・an」が創刊されている。「よど号ハイジャック事件」もあったし、三島由紀夫氏は割腹自殺を遂げるが、「ディスカバー・ジャパン」で、若者には旅行ブーム。「すかいらーく」「ロイヤルホスト」も相次いで1号店を出展し、「ダンキンドーナツ」「ミスタードーナツ」「ケンタッキーフライドチキン」もそれぞれに開業している(マックの開業は、この翌年になる)。

そして、大阪万博には6422万人が入場した(当時の人口は1億と466万人)。

たぶん、この先の日本を悲観していた人は少数で、多くの人々は、80年代末のバブルに向けての階段を順調に登っていたんだと思う。きょうよりあした、あしたより明後日って、きっと信じていれたんだろうと。

故に、その状況と「圭子の夢は夜ひらく」に描かれている状況(イメージとしての状況)、そのギャップについて…

妙に引っかかってしまう。

この時代の人は、何を考えていたのか。どういう気分で「圭子の夢は夜ひらく」を聴いて、この楽曲を愛でたのか。

19か20歳の女の子が、こういう歌を唱う姿を、どう受け止めたのかな。

僕はとにかく子ども過ぎて、当時の大人の状況がわからない。
楽曲発売前年の1969年にはアポロが月に行き、「巨人の星」で「タイガーマスク」で、「サンダーバード」で…とにかくそんな感じだったから、「圭子の夢は夜ひらく」を愛でた当時の大人たちの気分がわからない。

もしかしたら、うかれながらも、本心では「どう咲きゃいいのよ この私」と、とまどっていたのかもしれないけれど。