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金の卵

中学校、あるいは高校までを故郷で過ごして、でも、それで大都市に出てきてしまえば、彼が生まれた家や地域に直積されてきたキャリアからは切り離されてしまう。つまり、都会でのキャリアを一から積んでいくしかなくなりる。もちろん都会暮らしには初心者だ。しかも、戦後の都市においてはコミュニティの存在も希薄。新参者を迎え入れてくれる度量にも乏しいものがあった。

彼らはいまや家郷から、そして都市から、二重にしめ出された人間として、境界人(マージナル・マン)というよりはむしろ、二つの社会の裂け目に生きることを強いられる。彼らの準拠集団の移行には一つの空白がある。したがってまた、彼らの社会的存在性は、根底からある不たしかさによってつきまとわれている。

見田宗介 著 「まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学」(河出書房新社)

彼らは故郷での経験しか持たず、都会に出てきてからも、実質的に「会社の中の人間関係」にしか経験を持たない。様々な人々が様々な慣習と常識を持って狭いところぶつかり合う大都市なのに…

これが、あの頃「金の卵」と呼ばれた人々の肖像なんだと思う。
見田さんの著作も、1968年から69年にかけて、当時19歳だった少年によって引き起こされた連続射殺事件の社会学的な論考だ。

そして、あの頃の金の卵は、これから「都市の老後」に放り出される。

同じ境遇の者がより添えればラッキー。多くの場合は一人きり。今さら故郷へ帰れといわれても、居場所はない。それに労働力としての期待もいつまであるか。今はAIがある。

彼らを故郷から切り離して都市へと誘導したのは国策であり、工業生産時代に莫大な利益を生み出した「企業」だ。彼らの存在感は戦場に駆り出された兵士のそれとよく似ている。

この点について「公」はどう責任を取っていくのか。

でも現政権などは、あんな感じ。財政難でもあり、財務省は国民をありだと思っている。

たぶん、ここでもセルフ・サービスなんだろう。待っていても黄門様は来ない。なんの文句を言う前に準備だ。世の中は荒れるんだから。