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ニューヨークの屋台村

シャロン・ズーキンさんは彼女の著作「都市はなぜ魂を失ったか ジェイコブズ後のニューヨーク論」の中でニューヨーク・ブルックリンのレッドフック地区について、1章を設けて詳細に描写している。

 1970年代に最初の食べもの屋台がやってきたとき、この地域は10年前の港の閉鎖からまだ立ち直っていませんでした。いくつかの金属スクラップの取扱業者、食品の供給業者、がらくた置き場はまだありましたが、倉庫やドックは半分空っぽか、放置されていました。〈中略〉市役所は、レッドフックの無職の住宅所有者や公営住宅入居者のための雇用を生みだすコンテナ港の建設を検討していましたが、こういった計画は1975年の財政危機のときに、立ち消えになっていました。
 
レッドフックには市が所有する巨大な公園用地があったが、維持管理ができず半ば放置されていた。そこにメキシコ人やエルサルバドル人などラテン系の人々の食べ物屋台が出るようになる。それが前掲文にある〝1970年代に最初の食べもの屋台がやってきたとき〟である。そして、ズーキンさんは〝移民の存在によって、徐々に公園は改善されていきました。〟と続ける。

この屋台が、はじめはその屋台主の友だちを中心にしながら人を集めはじめ、税収や財政状況が改善すれば、ニューヨーク市も、彼らが集まる公園の周辺にあったプールや野球場などの遊休施設をリニューアルし、その施設が集客した来街者が、移民たちの屋台を繁盛させた。
 
1994年には「ニューヨーク・タイムズ」紙が、荒廃するブルックリン・ウォーターフロントの光明として、移民たちの屋台を取り上げる。

野球場の周りでは、テーブルとグリルを構えただけの家族が売っている、ニューヨークで最もおいしくて、新鮮なストリート・フードを食べられる。

ニューヨーク・タイムズ
エリック・アシモフ
レストラン批評のコラム「25ドルか、それ以下」より

今、レッドフックにはIKEAのブルックリン店もある。だが、不動産開発、物販チェーンの拡大、コミュニティの抵抗というIKEAのブルックリン進出物語とは異なって、屋台は、個人の記憶や家族の歴史に包まれ、現代移民の、より長い物語に織り込まれた奥深さがあるとして評価されている。
 
多くの一世の屋台店主は英語をうまく話せませんが、彼らの成長した子どもたち、すなわち幼い頃にアメリカに来た一・五世とここで生まれた二世は英語が話せます。彼らは少なくとも高校は出ているか、何人かは大学を出ているか、大学生だったりして、また、修士課程で学ぶ銀行員、看護師、ソーシャルワーカーもいます。〈中略〉韓国人やロシア人移民の子どもたちほどは高い学歴を持っていないながらも、自らのキャリアを追求しつつ、パートタイムで家族経営のビジネスに携わり続ける傾向にあります。〈中略〉そして最も重要なのは、親世代とニューヨークの路上屋台をコントロールする政府機関(ニューヨーク市公園局と保健局)とのつなぎ役として機能しているからです)〟

シャロン・ズーキン
「都市はなぜ魂を失ったか ジェイコブズ後のニューヨーク論」より

そして、2000年代の前半には、インターネットがレッドフックの屋台村に、さらに追い風を吹かせ、白人社会にもその存在が知れ渡るようになる。すでにレッドフックには90年代からアーテシストなどの新規住民を増え始めており、ニューヨーク市民に行ってみたい「面白い街」として認知されるようになる。

でもね。2007年を前後して、ニューヨーク市公園局は公園の使用権で、保健局は衛生基準において、突然彼らに規制を課すようになる。よくある話しだ。

今も、市の対応の変化には今も諸説がある。彼らの稼ぎに市の財政局に目をつけたからだともIKEA出店に絡んだジェントリフィケーションの一環だったにではないかという見方もある。その一方で、ニューヨーク市では許可なく公共の場での飲酒は禁じられているが、彼らが出店する公園では飲酒が常態化し、いつもゴミが山積みになっているという理にかなった問題もあった。

そうした状況の中、屋台主の息子の一人であり、当時、社会学を学ぶ大学生だったシーザーが自主運営の小さな組合を起こし、マスコミや影響力のある元政治家、一般のブロガーなどに情報を発信するとともに、ロビースト的な活動を展開した。ゴミの問題などにも積極的な対応をし、屋台村全体を総括するNPO団体を立ち上げ、市との交渉窓口を一本化した。
 
つまり、レッドフックの屋台村を巡る喧騒を解決にしていったのは、シーザーという大学生である。確かに彼の活動を助ける仲間たちはいたが、ハイラインのジョシュア・ディヴィッドとロバート・ハモンドのように、中心人物であり続けたのはシーザーである。
彼は、ときには屋台村の構成員たちとも対立しながら、あるときは第三者的に屋台村と行政との間に入り、常に現場にいて現実的な解決策を模索した。保健局のいう衛生基準を満たすトラックやカートを見つけ、それを安価で屋台村の構成員に紹介するために寄付を募る。だが、利があると思えば、保健局の言い分に従った。
 
シーザーがいて、彼に等身大に仲間たちが集まって、公共事業としての屋台村ができあがっていく。仲間たちはいるが厳格なコミュニティが壁となって他者の参入を阻んでいるわけではない。

たぶん、こういう感じが、公共政策のベストだな。
 
レッドフックの半ば放置された公園に最初に出店した屋台は一台だった。この一台が「始まり」をつくっていく。記録には残っていないが、この公園に隣接プールが再開されるとき、公式な手続きを済ませていない屋台を撤去しなかった現場の公園職員がいたはずだ(ニューヨーク市が組織として公式に彼らの営業を認めることはできなかったはずだ)。少数であり、現場にいた彼らも状況をつくっていく。情感たっぷりに多くの支持者を集めたコラムもエリック・アシモフも、自分で屋台村の雰囲気を味わいながら、彼のコラムを執筆した。そして、NPOを創始したシーザーは屋台の息子。NPOの申請書類づくりを手伝った人々も、もとはといえば、この屋台村の客だった。

組織やコミュニティなどを通さず、あくまでも個人として直接現場に関わりながら協働する。

入会や入社、入庁といった境界があって一員となりそれから仕事を始めるのではなく、仕事を協働する中で仲間になっていく。

境界はない。一員であるかないかの境界も曖昧なら、仕事と遊びの境界も曖昧である。ただ、同じ場所(居場所といってもいい)で過ごす時間を共有する仲間ではある。町内会や自治会の活動がどんなに活発でも、ジェイコブズが「歩道のバレエ」と讃えた状況を大都市につくりだすのは難しい。制度でも、行政(自治体)という機関(組織)でもコミュニティでもない。結局は個々人のurbanが洗練されていくかどうかだ。

創造都市が創造すること、あるいはクリエイティブ・シティがクリエイトするもの、それは、多様性に富んだ人々の居心地を確保することである。それは孤立的なコミュニティという壁に護られた居心地ではない。「よそ者」ばかりの都市ならではインプロビゼーションが起こるような、異質な出会い、その楽しさに彩られたものでなければならない。アーティストやデザイナー、クラフトワーカーのための発表の場、創作の場をつくり、彼らのための生活利便を整え、彼らを囲い込むことではない。
 
現代において、クリエイティビティを有するのは、特別な才能に恵まれた少数の人に限られると考えるのは、大きな誤りである。〈中略〉クリエイティブ・クラスの概念は、従ってエリート主義でも排他的でもない。事実、私は主に「知識労働者」「情報社会」「ハイテク経済」という概念に対する個人的な不満の結果として、これを創出したのである。

リチャード・フロリダ
「クリエイティブ・クラスの世紀」より

今、都市には、あらかじめ失われたコミュニティ連携の中に多くの核家族、単身者たちが一戸建て住宅やマンションの一室に孤立するように暮らしている。それ故、こうした都市部なりに相応しいコミュニティづくりを模索する努力が続けられている。創造都市あるいはクリエイティブ・シティという都市活性化策はこうしたコミュニティづくりとはアプローチを変えた、そして大都市という状況に相応しいソーシャル・キャピタルを豊かにしようとする施策である。
 
多様な人々が、それぞれに心地よい居場所を見つけ、交流しソーシャル・キャピタルを育むことが都市を経済的にも活性化させていく。ハイラインの事例、レッドフックの事例は、そうしたことをよく教えてくれている。
 これからは、高層住宅の林立する空間に「鋪道のバレエ」を実現することを課題に、改めて創造都市あるいはクリエイティブ・シティという都市活性化策の原点を見つめ直してみることだ。
新たな空間を創造することでも、アーティストやデザイナー、あるいはクラフトワーカーを優遇することでもなく、市民を芸術的なワークショップに参加させることでもなく、誰にとっても居心地を提供できる都市であることを目指す。こうした都市活性化策が成功に向かっているとき、そうしたとしでは街路こそが生き生き、空虚な雰囲気や喧騒は消えあらゆる人々に居心地を提供しながら、こうした障壁をも溶かしている。
 
それが創造都市あるいはクリエイティブ・シティという都市施策の結実だ。

※ 鋪道のバレエ → https://note.com/papa_grayhair/n/n0e5406f4957d?magazine_key=mbec4363e355e