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ほんのちっぽけの根性

何だか平成の青春曲みたいなタイトルになってしまった、、。
そんなことはさておいて、今日のお話は小さな小さな、だけど大切なマイルールみたいなお話です。

私にはもう何年も前から愛用しているXアカウントがある。
所謂”裏垢”と呼ばれる類いのものだ。
そこには日常の中で感じたちょっとした違和感や、考え事をする中で思いついた一つの仮定や、心の動いた瞬間をこっそり書き留めてある。
また、外部との接触を避けたくなってしまった時のシェルターのような役割も担っている。
私の文章は時々大袈裟で、必要以上に誰かに心配をかけてしまったり、側から見ていて鬱陶しくなるくらい個人の思想的な呟きをしてしまうから、それを防ぐ目的でその裏垢は作られた。これ以上私も誰かも恥ずかしい思いをしないように。

裏垢というと、秘密のアカウントみたいなイメージで、「仲の良い人には特別に公開します!」みたいな手法をとる裏垢ユーザーは少なく無いと思う。
この文化をどうこうとか言うのは憚られるためすぐに話を進めよう。
私は不必要に誰かを傷つけたくないのだ。
(ごめんね、これはちょっとしたユーモアのつもりで、本当は何とも思っていないどころか、貴方の裏垢には興味があるかも知れないな。)
さて、何が言いたいかと言うと、裏垢というのは、きっと本当は誰かに話して共感をもらったりとか、こんな事考えているんだと理解されたりとか、自分に興味を示してもらいたいと言う気持ちが具現化されたツールなのだろうということ。そして、私のそれもきっと例外では無いのだろうということだ。
けれど決して人に見せたりはしない。

私は他人に公開をしている裏垢で更新が長続きしているものを見た事がない。
それはきっとみんなそのアカウントの公開範囲を見誤るからだ。
数人にだけでも公開されているが故に、そこに配慮した呟きしかできなくなる。
ちょっとした承認欲求のために安息の聖域(サンクチュアリ)を自ら壊してしまうのだ。
その結果求めていた好きなことを思ったように言葉に出来る環境とはかけ離れ、他となんら変わらないただ狭く窮屈な場所となる。
そしていつの間にかそのアカウントには触れなくなるのだろう。
場合によっては過去の呟きによる何らかの影響を恐れて、その投稿やアカウント自体を消してしまうことだってあるし、少なくとも私がその立場に置かれたならきっとその様にしてしまうだろう。
それではいくら書き溜めたとて水の泡だ。

静かで、心のほんの欠片部分が散らばっている、自分の為だけのその場所を守るために私は日々余計な寂しさや承認欲求と闘っている。
これだけが私の持てるほんのちっぽけの根性で私が私に誇れるところなのだ。
あまりに小さくてかっこ悪いけれど、私だけはそこに救われるから、私だけはかっこいいと思っていたい。
たとえ誰かに伝わらなくても寂しい人はかっこいいんだから。

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